コラム レナ鉱山の虐殺
月刊『国際労働運動』48頁(0463号03面04)(2015/04/01)
コラム レナ鉱山の虐殺
(写真 レナ鉱山虐殺の墓碑)
1912年4月17日、ロシアのシベリアのレナ川付近でストライキを行っていた金鉱労働者をロシア帝国軍が射殺した。ロシアの政治や労働運動に衝撃を与えた。
事件はバイカル湖の北方、ボダイボの町から離れたレナ川沿岸にあるイギリス系企業レナ金鉱株式会社の鉱山で起こった。1853年にイルクーツク商人が設立したレナ金産業会社(略してレンゾロト)はレナ川流域に多くの金山を開発してロシアの金の4分の1を生産していたが、20世紀初頭に英露協商が結ばれたことによりロシアは英国資本を受け入れ、レンゾロトも英国の金鉱企業の傘下に置かれた。
レンゾロトの株主にはセルゲイ・ヴィッテ伯爵(帝政ロシア初代首相)、ロシア皇太后マリア・フョードロヴナなどロシアの皇族・貴族が多く、彼らには巨額の利益が入ったが、その源になったのは金鉱労働者の過酷な労働であった。
労働者は1日に15時間から16時間働き、労働者1000人ごとに700件以上の割合で後遺症の残るような事故が起きていた。労働者は、安い給料の中から会社に対する罰金を払わざるを得ない場合もあったほか、給料の一部は会社が経営する商店でしか使えないクーポンの形で払われていた。こうした劣悪な労働条件に対する不満が高まり、1912年3月13日、アンドレイエフスキー金鉱でストライキが起こった。ストの直接の原因は、商店の一つが配給した肉が腐っていたことだった(戦艦ポチョムキンと同じ)。
3月17日、労働者たちは次のような要求を行った。一日8時間労働、賃金の30%値上げ、罰金の撤廃、食糧配給の改善などである。しかし経営側の回答はそのどれをも満たさなかった。ストライキ中央委員会はレンゾロト所有の全鉱山にストを拡大し、3月中旬には6000人がストに入った。帝国政府はキレンスクとボダイボに軍を送り、4月17日の夜、ストライキ中央委員会の全メンバーが逮捕された。翌朝、彼らの即時釈放を求めて労働者が集まり、昼からは2500人ほどが、検察官に経営側の専横への告訴を求めるためナデジディンスキー金鉱へ向かって行進を始めた。しかし途中で行進は軍と鉢合わせになり、トレシチェンコフ大佐の命令で兵士が労働者に対し発砲し、多数の犠牲者を出した。地元紙ズヴェズダーの報道では270人死亡、250人が負傷した。
これに対しロシアの労働者階級人民は怒り、全ロシアで30万人以上が抗議集会に参加した。4月には700件の政治的ストライキが起こり、5月1日メーデーにはペテルブルグだけで1000件のストライキが起こった。レナ川の金鉱のストライキは8月25日まで続いたが、残った労働者が鉱山を引き払ったことで終結した。一連の事件でおよそ9000人の労働者と家族がレナ川の金鉱から去っている。