■マルクス主義・学習講座 戦争と労働者階級 ――レーニンと階級闘争の歴史に学ぶ(1) 畑田 治

月刊『国際労働運動』48頁(0462号04面01)(2015/03/01)


■マルクス主義・学習講座
 戦争と労働者階級
 ――レーニンと階級闘争の歴史に学ぶ(1)
 畑田 治

第1章 第1次大戦とドイツ社民党

はじめに


 「戦争と労働者階級」というテーマで、今日の階級的労働運動のめざすべき方向、現代プロレタリア革命の課題について考えていきたい。
 日帝・安倍政権は1月の中東訪問と1・20日本人人質事件をもてこに、「イスラム国掃討」と称して中東侵略戦争への参戦に踏み出した。すでに米英仏が空爆作戦に参加し、ドイツも独自の思惑をもってクルド人への武器供与、戦闘訓練を行っている。もはや「血を流して戦争に加わらなければ、中東をめぐる石油資源・市場の争奪戦から締め出される」という危機感に駆られて、日帝・安倍政権は参戦に踏み込んだ。ウクライナでも米欧対ロシアの構図で、戦争が火を噴いている。東アジア―朝鮮半島でも戦争の危機が迫っている。
 このような形で世界戦争に向かって、情勢が決定的に動き出した。大恐慌下に過剰資本・過剰生産力の問題を解決できない帝国主義は、資本輸出と市場・勢力圏の再分割、資源の確保・獲得に向かって激突し、戦争に突き進む以外になくなっているのである。
 第3次世界戦争を絶対に阻止しなければならない。第1次大戦、第2次大戦のように労働者階級が、国際連帯を破壊され、相互に撃ち合い、殺し合う歴史を繰り返してはならない。今度こそ世界の労働者階級は、国家・国境や民族や宗教による分断を打ち破り、団結して世界戦争の元凶=帝国主義を打倒しよう。
 社会民主主義やスターリン主義による裏切りを打ち破って、階級的労働運動と国際連帯でプロレタリア世界革命に絶対に勝利しよう。
 そのために、国際階級闘争の歴史から学ぶことが重要である。第1次世界大戦のときに欧州の「左翼」諸党が戦争に屈服していったなかで、帝国主義戦争をプロレタリア革命に転化したロシア革命は豊かな教訓に満ちている。前号までの丹沢望同志の「労働組合と国家」シリーズに続き、レーニンとボルシェビキの闘いから学んでいきたい。
 連載第1回は、第1次世界大戦とドイツ社会民主党の屈服、体制内労働運動化の問題を取り上げる。

ドイツの帝国主義的発展

 1873年の恐慌以降、ヨーロッパは「世紀末大不況」と呼ばれる長期の大不況に突入した。それは資本主義が独占と金融資本の形成を軸にして帝国主義段階に移行しつつあることを示すものだった。後発資本主義のドイツやアメリカが台頭し、石炭・鉄鋼などの重工業と株式会社制度を軸に、生産の集積と独占体の形成を急激に進めた。それは、景気循環で解決できない過剰資本・過剰生産力を生み出した。各国は競い合って新たな市場と原料・食料の供給源を求めて植民地・勢力圏獲得競争にのめりこんでいった。19世紀最後の30年間にアフリカ大陸は植民地として分割され尽くした。さらに諸帝国主義は中東・アジア・太平洋諸島にも侵略した。アメリカ・日本も対外侵略・植民地化に乗り出した。19世紀末~20世紀初頭の米西(アメリカ・スペイン)戦争、ボーア戦争(南アフリカ)、日露戦争などを転機として世界史は、〈世界市場と世界の再分割〉という帝国主義の時代に突入した。
 ドイツは英仏に遅れて1880年代からアフリカに侵略し植民地を獲得、さらに1902年からバグダッド鉄道計画を足場に中東侵略をめざした。ドイツ、オーストリア、イタリアは1882年に三国同盟を結成した。欧州各国は競い合って海軍と陸軍の軍備を拡大した。英仏露は三国同盟に対抗して1907年に三国協商を結成、戦争的緊張は一層高まった。ドイツは植民地の再分割を狙って、フランスとのあいだでモロッコ事件(1905年、11年)を引き起こし、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合した。続いてイタリア―トルコ戦争(1911~12年)、2度のバルカン戦争(1912~13年)が起きた。このようにいたるところで軍事的対立と戦争が激化し、欧州全域で「大戦争は間近い」という雰囲気、情勢がつくられていった。

社会民主党の体制内化

 ビスマルクの「社会主義者鎮圧法」以来の帝政による弾圧に対して、ドイツ社会民主党は、階級的団結を打ち固めて対決するのではなく、弾圧を恐れ、それを回避する闘争戦術への方向を強めた。それがまたマルクス主義の理解・解釈そのものをゆがめ、ベルンシュタインのような修正主義を生み出し、日和見主義を合理化する方向へ向かった。
 さらに、金融資本の成立と重化学工業化、海外侵略―植民地獲得と戦争政策の展開は、社会民主党の中からドイツ帝国主義に屈服し、植民地獲得と戦争を美化し、国家主義、排外主義に転落する部分を多く生み出していった。
 ドイツ帝国が1897年、中国への侵略を開始し膠州湾を占領したとき、社会民主党は植民地問題に対する社会主義者の原則的立場から侵略行為に抗議し、「一切の植民地獲得に反対である」と宣言した。ところが、党内右派のベルンシュタインはこれとまったく反対に、「膠州湾の租借が中国でのドイツの将来の利益の保証の獲得に帰着する限り......社会民主党はこれに反対する何らの理由も持たない」とか、「ヨーロッパ人による熱帯諸国の領有は、必ずしも住民の生活を害するものではない。......非常の場合には、より高度な文明がより高度な権利を持つものである」などと、帝国主義列強の植民地獲得を弁護する主張を展開した。
 ベルンシュタインの主張は党大会などで激しく非難された。だが、党の指導部は、党の基本的立場に真っ向から反対する主張を繰り返すベルンシュタインと徹底的に闘ってこれを粉砕することもせず、除名することもなく、「言論の自由」の名のもとに彼の活動を容認した。このため、ベルンシュタインの植民地論は右派によって支持され、やがては「植民地獲得が生産力を開発し、文明を広め、ヨーロッパ民族の生存権を拡大するために必要である」というような、後に登場するナチスまがいの議論さえ展開されるようになった。党内の理論闘争、路線闘争における日和見主義、あいまいな妥協が次第しだいに党の階級性を解体し、党の綱領的・階級的立場を根元から掘り崩していった。〔違いをあいまいにせず、党の綱領・時代認識・路線で徹底的に一致するために学習し討論することは決定的に重要である。それは、ブルジョア・イデオロギーと非妥協的に闘い、労働者階級とその党の階級性、階級的立場を鮮明にしていく不断の闘いである。〕
 1905年のロシア革命の影響でドイツでも労働運動は日増しに高揚していった。また同年に起きた第1次モロッコ事件は、大戦の危機をいよいよ切迫させた。これに対してローザ・ルクセンブルク、カール・リープクネヒトなどはストライキや反戦闘争の強化を主張した。だが、カウツキーやベーベルなど中央派は、左派の主張が党の多くの労働者を獲得することや、反戦闘争で弾圧が激化することを恐れ、右派と提携を強めた。
 1907年には、植民地主義と帝国主義戦争に反対する第2インターナショナルの断固たる決意を表明すべきであるという声が上がり、インターナショナル・シュツットガルト大会が開かれた。
 すでにこの時点で、ドイツ社民党の日和見主義的、小ブル的、国家主義(愛国主義)的変質はかなりの程度進行していた。この大会にベーベルらが提出した決議案は、戦争防止のための闘争方法をきわめてあいまいで抽象的な文言でごまかし、また戦争反対の国際連帯闘争にも触れないことによって、その義務を免れようとするものであった。
 レーニンとローザ・ルクセンブルクは、このベーベルらの日和見主義的な魂胆を見抜いて真っ向から党派闘争を展開し、国際連帯闘争の規定を入れるとともに、決議案に次のような革命的内容を加えさせた。
 「それにもかかわらず戦争が勃発した場合、戦争の速やかな終結をめざして全力で闘うとともに、戦争が引き起こした経済的、政治的危機を利用して人民を立ち上がらせ、それによって資本主義的階級支配の廃絶を速めるために全力で努力する義務がある」
 〈戦争がつくり出す危機をプロレタリア革命の勝利に転化しよう〉と呼びかけるこの修正によって、この決議案は、ベーベルらの最初の意図に反し、帝国主義戦争に反対する労働者階級の闘争に歴史的な転換をもたらす革命的決議となった。このシュツットガルト大会の決議の精神が、その後の1910年のコペンハーゲン大会、12年のバーゼル宣言に引き継がれた。

第1次大戦突入で軍事予算に賛成

 しかし、その後も社会民主党の右派と中央派は、この決議を都合よく解釈してその革命的魂を骨抜きにした。
 1911年から12年にかけて書記長エーベルトが執行部による独裁体制を確立した。11年、帝国議会で党議員団の一部が、党の慣例を破って「皇帝万歳」を唱えた。前例のないことであった。そして12年1月の帝国議会選挙では、社会民主党は〈ブルジョア政党を決選投票で支持しない〉という党の基本的な立場を放棄して、進歩人民党と選挙協定を結んだ。このようにして、ひとつずつ〈絶対反対〉の基本的立場を投げ捨てていった。
 13年6月、軍備拡張のための国防法案が提案されたが、社会民主党国会議員団はこれに賛成投票した。左派のローザ・ルクセンブルクは、「わが党史上まったく例のない事態だ。これまでのわれわれの『この体制に一兵も、一銭のカネも与えるな!』という原理からの決別である」と非難した。しかし、社会民主党は9月党大会で「軍事費をまかなう一切の税法案に反対投票すべきだ」という左派の決議案を否決し、党大会自らが議員団の国防法案賛成の裏切りを追認したのである。党の裏切りは決定的となった。
 14年6月にサラエボ事件(注)が起きると各国は戦争準備を本格化させた。事件から40日後の7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦布告した。
▼サラエボ事件 1914年6月28日、オーストリア皇太子夫妻が、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国(08年にオーストリアに併合された)の首都サラエボでセルビアの青年に狙撃され殺された事件。
 社民党地方支部の呼びかけに応えて、ドイツ全土で労働者の反戦集会と反戦デモが闘われた。
 ドイツ帝政政府は激発するプロレタリアートの闘いをそのままにして戦争に突入することはできなかった。労働者階級の闘いの高揚は戦争の遂行を妨げるばかりでなく、プロレタリア革命に転化しかねないからであった。そこで政府は大戦突入にあたって、弾圧の恫喝もからめながら、ドイツ社民党を徹底的に屈服させ、社民党の影響力でプロレタリアートを抑えこむことを狙った。
 これに対して社会民主党は7月29日、首相と秘密に会談し、「社民党は大戦勃発に際してストライキやゼネスト、サボタージュなどをやるつもりはない」と政府に伝えた。
 8月1日、社民党傘下の自由労働組合の幹部が、内務省に組合解散の意図があるか否かを打診すると、内務省は次のように答えた。
 「禁止するつもりはない。なぜなら、政府が援軍を必要としているときに、政府が頼りにできる大きな労働者階級の組織を持っていることをわれわれは喜んでいるからだ」
 この政府の期待に応えようと、自由労働組合の総委員会は8月2日、争議中のすべてのストライキを中止し、政府の戦争動員政策に協力することを決議した。
 8月3日、ドイツはベルギーに侵攻しフランスに宣戦布告した。社民党国会議員団総会が開かれ、激しい討議の末、賛成78、反対14で軍費調達のための戦時公債法案に賛成することを決定した。このときドイツ社会民主党国会議員団は、次のような恥知らずな声明を発して、彼らの戦争協力を合理化した。
 「今やわれわれは、戦争という冷厳な事実に直面している。敵軍の侵入という恐怖がわれわれをおびやかしている。われわれが今日決すべきことは、戦争に賛成するか反対するかではなく、国土の防衛に必要とされる手段の問題である。......わが民族の未来は、ロシア専制主義に対するわれわれの勝利にかかっている」「危機に際して祖国を見捨てない。......われわれは、戦火の苦悩という無慈悲な学校が、何百万人という人々の中に戦争に対する嫌悪を目覚めさせ、彼らを社会主義と諸民族の平和という理想の側に引きつけるであろうことを希望する」
〔実に許すことのできない戦争賛美論である。この裏切り的文句で、世界中の3千万人を超える兵士・労働者人民が傷つき殺されたのだ!―引用者〕
 そして翌4日、党の規則に基づき、反対した議員も含めて、社民党国会議員団は一団となってドイツ政府の戦時公債法案に賛成票を投じた。
 これはドイツ社民党が完全に体制内政党へ転換したことを示す歴史的な事件であった。皇帝ヴィルヘルム2世はこの社民党と政府との和解を喜んで国会で演説し、「私はもはや党派なるものを知らない。今やドイツ人あるのみだ」という演説を行い、いわゆる「城内平和」を宣言した。つまり「城内平和」とは、体制内政党・労働組合指導部の屈服をとりつけた挙国一致の戦争体制である(その一方で暴力的に労働者の闘いを圧殺)。
 各国は相次いで総動員令を発布し、宣戦を布告し、戦争は全ヨーロッパ、アフリカ、中東、アジアを戦場とする2大陣営の全面戦争、世界戦争へと拡大していった。そしてこのとき、第2インターナショナルの諸党は雪崩を打ってバーゼル宣言、労働者の国際連帯を裏切り、自国の戦争政策に協力し、愛国主義・排外主義に転落していった。

(写真 ドイツの戦時公債募集のポスター【1918年】)

レーニンが直ちに基本的任務を打ち出す

 レーニンは1905年のロシア革命の翌年から、権力の弾圧・追及から身を守りながらロシアの国外で活動を続けた。14年8月にいよいよ世界大戦が勃発すると、9月にスイスのベルンで在外ボルシェビキ全員を招集して森の中で会議を開き、戦争に対するボルシェビキの基本的態度を決定した。これが『ヨーロッパ戦争における革命的社会民主主義派の任務』である。それは次のような7項目の決議である。
 「(1)世界を巻き込むこのヨーロッパ戦争は、ブルジョア的、帝国主義的、王朝的戦争というはっきりした性格を持っている。市場の争奪と他国の強奪、国内のプロレタリアートと民主主義派の革命運動を阻止しようとする志向、あらゆる国のプロレタリアを愚弄し、分裂させ、粉砕し、ブルジョアジーのために、ある国の賃金奴隷を他の国の賃金奴隷にけしかけようとする志向――これが戦争のただひとつ現実的な内容であり、意義である。
 (2)軍事予算に賛成投票し、プロシアのユンカーとブルジョアジーのブルジョア排外主義的空文句を繰り返しているドイツ社会民主党の指導者たちの行動は、社会主義をまっこうから裏切るものである。
 (3)略
 (4)〔第2インターナショナルの崩壊の根拠を明らかにした重要な項目であるが、次回に紹介する〕
 (5)(6)略
 (7)現在、社会民主党のスローガンは、次のことでなければならない。
 第一に、社会主義革命の宣伝と、自分のきょうだいである他国の賃金奴隷に対してでなく、あらゆる国の反動的、ブルジョア的な政府と政党に対して武器を差し向ける必要があるという宣伝を、全面的に行い、軍隊にも戦場にもそれを押し広めること。......例外なくあらゆる国の小市民とブルジョアの排外主義や『愛国主義』と容赦なく闘うこと。社会主義を裏切った今日のインタナショナルの指導者たちに反対して、戦争のすべての重荷を背負い、多くの場合、日和見主義や排外主義に敵意を抱いている労働者大衆の革命的自覚に、ぜひとも訴えなければならない。......
 第三に、......ロシアに抑圧されている諸民族の解放と自決を宣伝し、同時に民主的共和制、地主の土地の没収、8時間労働日を当面のスローガンとして掲げること」
 この決議は今私たちが読んでも、本当に生き生きとしている。レーニンが直面していた現実と私たちが今、闘うべき現実・闘争課題には、共通するところがいくつもある。
 決議は直ちにロシアに送られ加筆され、11月に論稿「戦争とロシア社会民主党」として発表された。(以上、第1章)
(参考図書/安世舟『ドイツ社会民主党史序説』、お茶の水書房)