特集 中国の新自由主義政策の矛盾爆発 バブル崩壊、金融恐慌へ 香港を始め闘いが高揚 Ⅳ 新自由主義政策の展開――中国スターリン主義の歴史的破産
特集 中国の新自由主義政策の矛盾爆発
バブル崩壊、金融恐慌へ 香港を始め闘いが高揚 Ⅳ
新自由主義政策の展開――中国スターリン主義の歴史的破産
①毛沢東主義的な一国社会主義建設の破産
1949年の中国革命以後、中国スターリン主義は独特の一国社会主義建設を進めていく。毛沢東を指導者として行われた経済建設は、戸籍制度(1958年)によって農村戸籍と都市戸籍を分け、一方で人民公社(1958年発足)をつくってそこに農民を所属させる。それによって農民の都市への移動を禁じる。その一方で都市労働者は特定の工場に所属し、そこで一生働く制度(事実上の終身雇用制)であった。工場に所属する労働者も、旅行などに行くには工場(の党委員会)の許可が必要とされた。
農民と労働者の双方を収奪し工業化を推進
人民公社も工場も、それぞれが単なる職場ではなく、一つのほぼ自己完結的な生活空間を形成し、その中には住居から保育所、商店などが付属しており、「無いのは火葬場だけ」と言われる状況であった。老後も各工場なり人民公社なりが面倒を見ることになっていた。
経済はいわゆる「計画経済」であり、物価は価格統制により政府が決定した。食料は配給制が基本であった。
農民の農村からの移動を禁じて人民公社に所属させることで、都市人口の増加を抑えた。同時にこのような経済のあり方は、農産物の価格を低く抑えることで政府は農産物を安く買い上げることを可能にし、また同時に農産物の価格が安いということは、(労働者の再生産費が安くなるので)労働者の賃金を低く抑えることを可能にした。
この時代の工場は国営工場であるから、労働者の賃金が安くなることは、工場の利潤を増大させ、それは結局国庫の収入となる。つまり毛沢東は、農民と労働者の双方を徹底的に収奪することによって国有企業の利潤を増大させ、それを投資することによって中国の工業化を推進していこうとしたのである。これは典型的な一国社会主義建設論である。
一国社会主義は、そもそも労働者が社会の主人公になっている社会ではない。それはこの毛沢東的なやり方にも明らかであり、そうであるがゆえに、労働者の主体的な決起を引き起こすことは所詮できず、この一点からもその社会建設の破産は必至である。さらに一国社会主義建設は、「世界革命を放棄し、一国社会主義建設を自己目的化」しているがために、必然的に世界の生産力の発展からは取り残されてしまい、それも決定的な要因にして、破産への道を転がり落ちていくのである。そのため毛沢東が依拠したのは結局は「人海戦術」であり、その思想的な表現としての「人民史観」であった。世界的な生産力の発展に対して、極限的な労働力の投入で対抗したのである。これはそもそも無理である。したがってこれらの「人海戦術」「人民史観」は、結局は一国社会主義建設の破産の表明にほかならなかったのである。
50年代の大躍進政策の破産と毛沢東の失脚、そして毛沢東の奪権闘争としての文化大革命は、この中国スターリン主義の破産の歴史そのものである。この中国の毛沢東主義的な一国社会主義建設の破産の末に起きたのが、「路線」を名目にして起こされた文化大革命という数百万から1000万人が死んだといわれる破滅的な権力闘争であり、全中国社会の破壊的な大混乱である。ここまでの過程で、中国スターリン主義はいったん破産を宣告されたのである。
②「改革・開放」政策の決定・展開と、その新自由主義的な本質
こうした大混乱と破産の中で毛沢東は死去(1976年)し、華国鋒の短い時期を経て権力を握った鄧小平が、1978年12月の中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議で打ち出したのが「改革・開放」政策であった。
その政策は、文化大革命に示された中国スターリン主義の破局的な破産からの体制的な延命をかけた政策であった。その核心は毛沢東時代の中国社会のあり方を徹底的に解体し、労働者(と農民)を流動的な労働力に変え、市場経済を導入することにあった。そのために外資を導入・利用するとともに、自国の民族資本・民族ブルジョアジーの成長をも目的意識的に促すものであった。
フリードマンを招聘
この「改革・開放」政策の展開にあたって、中国スターリン主義は徹底的に新自由主義から学んでいる。「改革・開放」政策が決定された2年後の1980年に、新自由主義の創始者・フリードマンを中国共産党は招聘し、共産党幹部や経済学者などを相手に新自由主義の講義をさせている。フリードマンは香港を例にひいて〝商業活動の自由の重要性〟を訴えるとともに〝政治的な自由は付随的なもの、あるいは不必要〟と主張したという。これは中国スターリン主義の政策と完全に一致した。
さらに中国流「マルクス主義経済学」に代わって「中国経済の主流になったのは、近代経済学の中でも、新自由主義の影響を強く受けている新制度経済学である」(『中国を動かす経済学者たち』 関志雄著、東洋経済新聞社)とされ、新自由主義経済学が「改革・開放」政策に主導的な影響を与えていると見ることができる。
新制度経済学は、帝国主義とスターリン主義の現代世界の末期的な危機を反映した経済学そのものである。「市場原理の経済社会」に移行するためのプロセスや、それを維持するための政策・制度とされるなら、それがたとえケインズ主義的なものであろうと事実上容認する。国家の介入や暴力性も容認する。つまり新自由主義の社会をつくるためなら、あらゆるものを容認するでたらめな、極めてご都合主義的な「経済学」であり、近代経済学としても最も破産しているものである。そして実はこのでたらめ性、ご都合主義、さらに暴力性こそが、単に新制度経済学にとどまらず、まさに新自由主義の本質そのものなのである。したがってこの新制度経済学は、帝国主義とスターリン主義の現代世界のすさまじい危機を反映した「経済学」そのものであり、その破産は現代世界の破局そのものである。
「改革・開放」政策の柱
具体的には「改革・開放」政策は、下記のいくつかの点を柱にして進められてきた。
①農村改革による耕地請負制の実施、人民公社の解体
「改革・開放」政策の決定から数年で、人民公社の解体が進行し、その共同所有されている土地を各農家に「耕地請負」という形で耕作権を分配した。共同経営から家族経営に農業のあり方が変わったのである。この結果、農家の格差も発生し、家族全員を養えない、経営できない農家も出てくる。「改革・開放」政策の進展による生活費の増大、農村の貧困化の進展も加わる。こうして農村からの「過剰人口」が生まれるようになった。それは農民工の発生と増大になっていった。
一方で、農村に郷鎮企業が発生し、政府も積極的に奨励した。それは農村における貧富の差を拡大し、農村からの労働者の創出を促進し、それがさらにまた都市への農民の流入を促すことにもなった。
②工場住宅民営化政策
サッチャーの公営住宅民営化政策に学んだとされている工場住宅民営化政策が推進され、毛沢東時代の仕事の場であるとともに生活の場であった工場のあり方が解体されていった。これは80年代から始まり、90年代に急速に進んだ。
これは実に決定的な改革だった。これによって、工場に付属し、事実上終身雇用制だった労働者は、決まった工場から切り離されて、流動的な労働者へと変わった。それは都市労働力の流動化を推進した。
③国営企業改革
②の工場住宅民営化政策とともに、国営工場改革が進む。
当初は「経営自主権の拡大」として工場経営者の権限強化という形で改革が進んだ。80年代後期から「所有権と経営権の分離」がうたわれて国営企業は国有企業へと変わっていったが、97年の中国共産党第15回大会決議で「私有企業は社会主義経済の重要な構成部分」とされたことによって、中小国有企業の民営化が進行した。
また1986年に「労働契約制度実施に関する四つの暫定規定」が公布されて、国営企業における契約労働制が始まった。これにより、事実上の終身雇用制から有期雇用制への転換が始まった。労働者の非正規労働者化が始まったのである。
④経済特区の設置
1979年に、深圳、珠海、汕頭、廈門の四つの地域に最初に経済特区を設置。外資を導入し、それを利用して、中国経済の成長を図ろうとした。当初外資として想定されていたのは、まずは香港やシンガポール、台湾などの華僑資本であった。そこには外資を利用して経済発展を進めていくという目的があり、またさらには民族資本の育成という目的があった。
⑤民族資本家の育成
中国スターリン主義は、当初から民族資本の育成を目的にしていた。「改革・開放」政策を決定した翌月1979年1月17日、鄧小平は5人の中華民国以来の民族ブルジョアジーを集めて協力を求めた。彼らは中国の国家体制、制度の中に組み込まれる形で生き残ってきた民族ブルジョアジーである。
この5人のブルジョアジーの一人である栄毅仁(革命前に中国最大の財閥だった栄一族の当主)は、1993年から98年まで国家副主席になった。彼は「赤い資本家」と呼ばれた。
都市労働者も農民工も非正規労働者に
このような政策を柱にして、都市労働者は流動的な非正規の労働者となり、また農村から都市に流入する膨大な労働者が生まれた。それも都市で農民工として非正規労働者となった。
毛沢東時代の農村も都市も住民が固定していた社会は解体され、農村から都市への膨大な労働力の流入が始まった。だが、農民と都市住民を明確に分けている戸籍制度は変わらずに残った。
その戸籍制度の存在は、農民はあくまで農民身分であるとして(つまり都市身分ではないとして)、農民工の都市での生活の権利や労働者としての権利を不安定にさせ、差別的な状況をつくり、非正規労働者としてしか働かざるをえない状況を生み出した。それは資本にとって非常に都合の良いことであり、だからこそ戸籍制度は変わらなかったのである。
さらに国有企業、また民間も含めて外注化が進行し、それがまた非正規化を促進した。派遣労働や臨時工が一般化し、特に派遣労働者の割合はすでに2008年の段階で4割に達し、さらに上昇の一途をたどっている。中国では有期雇用(一般的には3年)が一般的であることを考えると、実際はほとんどの労働者が非正規職であると推定される。
この過程を工会(中国スターリン主義の体制内労働組合)は、全面的に容認してきた。
毛沢東時代の社会は解体され、労働者の大流動化が始まったが、労働者を保護する法律はひとつもなかった。農民工も都市労働者も、労働者はまったく無権利状態で資本の前に放り出された。その無権利状態の奴隷労働を背景にして、「改革・開放」政策のもとでの中国経済の急成長があったのである。イギリスの初期資本主義の時のようなすさまじい現実があったのだ。
89年天安門事件
こうした矛盾が激しく爆発したのが、1989年の天安門事件であり、この闘いの根底には労働者階級の階級的な怒りと激しい決起があった。それを中国スターリン主義は大虐殺を行うことで延命したのである。さらに91年のソ連崩壊に自らの体制の危機を感じた中国スターリン主義は、「改革・開放」政策を一層加速させて、それで体制の崩壊を防ぐのである。
中国での労働法の制定は1994年であるが、それは悲惨な工場事故がきっかけになっている。前年1993年11月19日に起きた深圳致麗玩具工場の火災で87人の命が奪われ、51人が負傷する事件である。商品の盗難を防ぐために工場の窓に盗難よけの鉄柵がとりつけられており、労働者は火災が起きても逃げることができなかったのである。
さらに「労働合同法」(日本語に訳すと「労働契約法」)の制定は、なんと2007年である。それまでは、労働契約に関する正式な法律はなかったのだ。しかもこの「労働合同法」は、派遣労働を公式に認めると同時に、臨時工に至っては、口頭での労働契約(つまり文書がいらない契約)を認めている。とんでもないシロモノである。それが今も続いている。
③「改革・開放」政策の持つ矛盾、限界性
このように中国の「改革・開放」政策は、「中国スターリン主義体制の延命のための新自由主義的な政策の展開」と見ることができるが、その性格について、さらに検討してみたい。
戦後の帝国主義経済は、74〜75年恐慌で本質的に行きづまったが、それは同時にスターリン主義体制の崩壊過程への突入でもあった。帝国主義とスターリン主義の戦後世界体制は、ここでスターリン主義も含めて、その歴史的な生命力を喪失したのである。帝国主義は、結局は80年代から新自由主義政策を展開し、延命を図る。
ソ連はその過程で崩壊を深め91年についに崩壊する。しかし中国スターリン主義は70年代末から、新自由主義政策を学び、それを「改革・開放」政策という形で積極的に取り入れ、独自に展開することで、体制の延命を図ったのである。
「エセ共産主義」
スターリン主義は「世界革命を放棄し、一国社会主義建設を自己目的化した存在」「過渡期の反動的な固定化」である。「過渡期の反動的な固定化」といったばあい、本来この体制は延命できる再生産可能な独自の経済形態がそれ自身としてあるわけではないことを意味する。つまり本来、延命できない体制なのである。「エセ共産主義」として、あるいは帝国主義との政策的な対抗からも、農業の集団化や計画経済を当初は採用したのが現実の歴史の過程だったが、結局それは必然的に破産する。そしてこのような当初の政策が崩壊した時、スターリン主義者は、自分たちの権力と利権を守ろうとして、その体制の延命のためには、なりふり構わない、ご都合主義的にあらゆる経済政策を採る。中国の「改革・開放」政策は、そうしたスターリン主義の延命のための経済政策として採用されたのだ。しかしそれはスターリン主義は本来延命できない体制である以上、結局は中国スターリン主義の危機をさらに深めるものになっていくのである。
さらに、こうした「改革・開放」政策は、あくまでもスターリン主義体制が延命するための市場経済政策、新自由主義的な政策の展開であるために、その政策は一定の限界性を持たざるをえない。今日、中国では全社会的に市場経済が一般化しているが、国有企業はスターリン主義の体制支配を維持するために、単なるスターリン主義者の利権という枠を超えて維持されている。国資が100%の国有企業が中国のGDPの10%を占めているといわれ、こうした状況はやはり本来の資本主義とは異質のものである(しかも現在、この中国の国有企業が争闘戦でも重要な役割を果たしている現実がある)。
また土地の国家的所有も、中国スターリン主義の人民支配の決定的な政策として維持されており、本来の意味での市場化はされていない。さらに人民元のレートが国際市場によって決定されるのではなく、中国政府が決済している現実、そしてそれを武器にして中国経済を成長させ、帝国主義との争闘戦を進めている状況もある。
こうした現実は、中国の「改革・開放」政策が、新自由主義的な政策の展開であるとともに、あくまでも中国スターリン主義の体制の延命のための政策であるがために、市場経済化が全社会的に実際は進行し、民族資本が台頭し国際的にも進出しながらも、中国の資本主義がやはり本来的なあり方とは異質なものを持っていることを示している。そういう意味でも「改革・開放」政策は、あくまでも〝中国スターリン主義の延命のための新自由主義的な政策〟にほかならないのである。
④破産を深める「改革・開放」政策
1978年以来、足掛け36年間にわたって続いてきた「改革・開放」政策は、今その矛盾を爆発させ、破綻を深めている。
その最大のものがバブル経済の崩壊であるが、それはすでに第Ⅲ章で詳しく見たのでここでは省略する。「改革・開放」政策のもとで展開されたバブル経済の崩壊が金融恐慌へと発展しようとしており、それが中国スターリン主義を危機に追い込んでいると同時に、世界経済を崩壊にたたきこもうとしている。
バブル経済、中国経済の崩壊は、一方で沿岸部にあった工場の内陸部への移転や東南アジアなどへの移転を促進している。これが膨大な労働者の首切りと闘いを生み出している。
そしてそれとともに進行しているのがインフレの進行である。それは景気を維持するためのバブル経済政策が生み出しているものだ。この2年間は、約年2%台のインフレが続いているが、これは労働者にとって見れば、まさに実質賃金の目減りが毎月進んでいることを意味している。中国政府を揺さぶる労働者の「生きさせろ!」という闘いの背景にはこれがある。
異常な格差の拡大
そして異常な格差の拡大である。その実態は北京大学の中国社会科学研究センターが7月26日までに伝えた報告では、中国の国内個人資産の3分の1を1%の富裕家庭が握り、逆に貧困層を含む下位25%の家庭では国内個人資産の1%しか所有していないという驚くべき格差の現実が明らかになっている。ここまで激しい格差の現実は、世界でもトップクラスだ。
またバブル経済の推進、巨大プロジェクト計画があちこちで進行する中で、農民や労働者からの土地の強制収用が各地方政府と開発業者によって連日のように各地で行われている。労働者や農民の宅地や農地が、日々暴力的に収用されているのだ。中国はすべての土地が国有(共産主義社会における社会有ではなくて)であり、個人には土地の所有権がない。そこで国家による土地の強奪が、極めて容易に行われているのである。
「改革・開放」政策は農村と都市の格差の拡大を生み出し、農村からの膨大な農民工を発生させた。この結果、農村は荒廃し、農業は後退し、農民の生活は貧困化している。いわゆる農村・農業・農民の「三農問題」が深刻化し、中国スターリン主義の危機を促進している。
さらに大気汚染や海洋汚染、河川の汚染など、急激な工業化や化学工場の建設、原発関連施設の建設などが、中国全土を汚染し、労働者、農民、住民が生活できない環境をつくりだしている。労働者は職場で生きられなくなっているだけでなく、人間として生きていく環境そのものを奪われているのである。ここにはフクシマと一体の労働者階級が置かれている状況がある。
「改革・開放」政策の破産が生み出したこうした驚くべき状況の中で、労働者の首切りや低賃金、劣悪な社会保障制度に抗議する労働争議、あるいは農民の農地強奪を阻止し抗議する闘い、そして環境汚染に抗議する労働者民衆の大抗議闘争などが、中国各地で連日やむことなく続いている。そしてその数は増大の一途をたどっている。この決起する労働者、農民の闘いこそ、「改革・開放」政策の最大の破産そのものであり、それは中国スターリン主義打倒にまで至る闘いになろうとしている。
さらに、ウルムチ(新疆)、チベットに見られるように諸民族の決起も相次いで中国政府を危機に追い込んでいる。この諸民族の決起も、「改革・開放」政策という形での新自由主義的な政策の展開が生み出しているものであり、この政策の破綻を示すものだ。
新自由主義の攻撃と破綻の中で、全世界で労働者の歴史的な決起が開始され、帝国主義と大国による戦争を阻止し、革命へと転化していく国際的な闘いが始まろうとしている。動労千葉の「外注化阻止・非正規職撤廃」の闘いは、全世界の労働者の闘いのスローガンとなって国境を越えた団結を生み出し、世界革命への道を開こうとしている。中国の労働者の闘いは、その重要な一角であり、2010年代中期階級決戦の勝利に向けて、まさに国際的団結の形成が今こそ求められている。