■News & Review 日本 日米安保新ガイドライン絶対阻止を(上) 全世界で本格的武力行使を狙う日帝自衛隊
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日米安保新ガイドライン絶対阻止を(上)
全世界で本格的武力行使を狙う日帝自衛隊
2014年10月8日、日米両政府は、「日米防衛協力のための指針」(日米安保ガイドライン)の再改定に向けた中間報告を発表した。
「日米防衛協力の指針」は、1978年に初めて作成された。日本に対する戦争が起きた時に、日米安保条約に基づいて米軍と自衛隊がどのように協力して動くのかについての指針である。日米安保の運用指針であり、具体的にはソ連の北海道上陸を想定しての米軍と自衛隊の作戦計画をつくることだった。
その後、1997年に日米帝の朝鮮侵略戦争を想定した周辺事態に対応する米軍と自衛隊の戦争協力についての指針に改定された。
日米両政府は、ガイドライン再改定の最終報告を年末までに出すとしている。
日米ガイドランの再改定は、7・1閣議決定に基づく日米安保の大改定であり、日帝が東アジアと全世界で本格的な戦争を狙うものだ。
中間報告の基本内容の第一は、自衛隊が東アジアと全世界で武力行使を行うことを前提とした日米安保に転換することである。
中間報告の第二は、現行ガイドラインの核心にある「周辺事態」の文言を削除し、「日米同盟のグローバルな性質を反映するため適用範囲を全世界に拡大」したことである。
第三は、「平時から緊急事態まで切れ目のない形での安全保障」を掲げ、米軍と自衛隊の「切れ目のない」恒常的な戦争体制の構築を打ち出したことである。
この2014年新ガイドラインを全面的に批判するために、まず日米ガイドラインの歴史をさかのぼって検討し、最後に今回のガイドライン改定・中間報告の批判に戻って来たい。3回の連載としたい。
78年ガイドライン
1978年ガイドラン以前の日米安保条約の基本内容は日本から米軍への基地提供にあった。日帝は、1951年に平和条約を締結した後も米軍の日本駐留を認め、米軍が必要とする広大な基地をいつでも、どこでも、無条件で提供することを約束した。
50年に朝鮮戦争が始まり、在日米軍の主力が朝鮮半島に渡った。米帝は米軍がいない日本におけるプロレタリア革命を恐怖し、同年8月、政府に指示して治安弾圧部隊として警察予備隊(軍隊そのもの)を創設した。平和条約締結後に警察予備隊は保安隊と名称を変えた。朝鮮戦争休戦後の53年に、日米は日米相互防衛援助協定を締結し、米帝の承認の下に日帝は1954年に「自衛隊」を創設した。
言うまでもなく憲法9条は戦争放棄を定め、9条2項は、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」としている。当然、自衛隊の創設はこれに違反するとの激しい弾劾が沸き起こった.
これについて日帝・政府は「憲法9条は自衛権を認めている」「自衛のための必要最小限度の実力を保持することまで禁止されていない」などと屁理屈を並べ立てた。
かつて日帝は国家の自衛権を主張し、海外への全面的な侵略戦争を行い、日本の労働者人民を駆り立て、朝鮮・中国、アジア人民への虐殺戦争を正当化した。そして第2次世界大戦、日米戦争に突入し、アジア太平洋の労働者人民同士を殺し殺し合わせ、人民の闘いを圧殺し、甚大な惨禍を労働者人民に加えた。
日本の労働者階級人民は、日本帝国主義の戦争責任を徹底的に追及し、戦後革命に決起した。憲法9条は、戦後革命の恐怖におびえた日米帝に労働者階級人民が強制したものだ。
国家の自衛権を認めることは際限のない侵略戦争と世界戦争を認めることである。労働者階級は、国際連帯で闘う。万国の労働者は、民族・国籍・国境を超えて団結して闘う。そして世界戦争を不可避にする帝国主義を打倒し世界革命に勝利する。これが戦争をなくす唯一の道である。
自衛隊は出来たが、米帝は自衛隊を直ちに自らの世界戦略のために積極的に利用しようとはしなかった。
ところが1971年にドル・ショックが起き、アメリカは、国際通貨であったドルと金の兌換中止を宣言した。戦後世界で絶対的で圧倒的な力を誇った米帝の地位低下を象徴する事態だった。
1974年から75年に世界恐慌が起きた。これは第2次世界大戦後の帝国主義の戦後発展の終わりを示すものであった。過剰資本・過剰生産力の根本矛盾の爆発としてあった。さらに60年代から激化していたベトナム侵略戦争において最新鋭の武器で武装した米軍がホーチミン率いる素手に等しいベトナム民族解放戦線によって敗北した。これは米帝に大衝撃を与えた。アメリカの権威は地に落ちた。
米帝は、ここから最末期帝国主義の絶望的延命形態である新自由主義に走る。新自由主義攻撃を国家政策として開始したのはアメリカのレーガン大統領(81年)、イギリスのサッチャー首相(79年)、日本の中曽根首相(82年)である。
新自由主義は、「命より金」のために労働組合を破壊し、労働者の団結を徹底的に破壊する。民営化・外注化・非正規職化を推進する。と同時にベトナム敗北の衝撃から反ソ・反共主義、反マルクス主義をふりかざした。レーガンは、ソ連スターリン主義との対決を掲げた大軍拡に突進した。これは宇宙軍拡(スター・ウォーズ)を含むものでソ連を軍事的・経済的に追い詰めた。
経済的・軍事的に力量が低下した米帝は、アジアの軍事支配を維持するために日帝・自衛隊の力を米軍戦略の枠内で動員しようとした。
一方、日本国内でもブルジョアジーの中からアメリカへの不信が湧き出てきた。「いざ戦争になったら米軍は頼りになるのか、自衛隊はどうするのか、有事体制もないじゃないか」という右翼的な反動的な声が噴出してきた。
こうしたなかで、米帝と日帝の間で、戦争が起きた場合に、米軍と自衛隊がどう動くのか、その指針をつくる動きが始まった。そのために締結されたのが「日米防衛協力の指針」である。78年日米安保ガイドラインである。
ガイドラインでは、検討すべき戦争の作戦計画を三つのケースに分けている。
Ⅰ 日本に対する侵略を未然に防止する態勢(未然対処=平時)
Ⅱ 日本に対する武力攻撃に際しての対処行動(日本有事)
Ⅲ 日本以外の極東における事態で日本の安全に重要な影響を与える場合の日米間の協力(極東有事)
1996年9月2日の朝日新聞は、このガイドラインに基づいて進められてきた米軍と自衛隊の作戦計画を暴露した。これらは公表されず極秘扱いされていた。
〔今日的に言えば、朝日新聞のこのような自衛隊の極秘文書を暴露する行為を禁止するために国家権力は特定秘密保護法を制定したのだ。秘密を暴露すれば犯罪として罰することができるのだ。〕
暴かれた日米共同作戦研究は、①極東ソ連軍が北海道に侵攻する、②朝鮮半島の有事が日本に波及する、③中東などで起こった有事が日本に波及するという三つの事態を想定し、自衛隊幕僚会議事務局と在日米軍司令部が作戦計画づくりに取り組んだこと、その結果、81年にソ連軍の北海道侵攻を想定した「作戦計画5051」、95年に中東などの有事が日本に波及した場合を想定した「作戦計画5053」が完成したことを報じた。
さらに朝鮮半島有事が日本に波及した作戦計画について、米側は熱心に進めようとしたが、日本側が時期尚早として難色を示し頓挫したと。
米軍は、この朝鮮有事の作戦計画に「5052」というコード番号も用意していた。これは、米軍が描く朝鮮侵略戦争のシナリオである米韓連合軍の作戦計画「5027」と一体のものになるはずのものであった。
これが97年ガイドライン改定がめざす内容であった。
米帝は78年ガイドラインに沿って「ソ連の北海道侵攻」を想定した作戦計画に基づき日帝・自衛隊にシーレーン防衛を求めた。それで日本が「周辺海域における対(ソ連原子力)潜水艦作戦と船舶(米艦船)保護のための作戦を遂行する」ことが明記された。
81年5月、訪米した鈴木首相は、レーガンの対ソ大軍拡政策の一環としての1000カイリシーレーン防衛を約束した。82年にはソ連潜水艦を探知するP3C対潜哨戒機(45機から75機)とF15戦闘機(100機から155機)の取得拡大を約束した。すさまじい軍拡であった。鈴木・レーガン会談で初めて日米が「同盟関係」にあることが明記された。82年に成立した中曽根内閣は、宗谷、津軽、対馬海峡封鎖、日本列島の対ソの「不沈空母化」(ソ連爆撃機バックファイアの進入阻止)を宣言した。自衛隊の軍事力は飛躍的に強化された。
78年ガイドランは、「日帝の日米安保同盟政策の原理的転換」をなしたものである。
97年新ガイドライン
80年代後半から91年のソ連崩壊まで、東欧スターリン主義の瓦解が進行した。89年には中国で天安門事件が起きた。
91年にスターリン主義の基軸であるソ連が崩壊した。
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)にとってソ連は軍事的・経済的な後ろ盾であったがそれが崩壊した。中国も「改革・開放」政策を採り、援助を激減させた。孤立し危機を深めた北朝鮮スターリン主義は、米帝と対峙して延命するために核武装路線に突入した。
1990年頃から米帝は北朝鮮の核疑惑を問題にし始めた。93年3月、国際原子力機関(IAEA)の特別査察(核施設への立ち入り調査)要求を北朝鮮が拒否し、核不拡散条約(NPT)からの脱退を決定すると、米帝内で、平壌の北90㌔にある寧辺付近の核施設に空爆を加えることが公然と論議され、国連でも経済制裁決議を上げるべきだとの論議がされた。
これに対し、北朝鮮は、「経済制裁は戦争を意味する」「ソウルは火の海となる」と対抗した。
米帝は94年春には朝鮮侵略戦争を決断し、発動寸前まで行った。それは空爆という限定的なものではなく「作戦計画5027」の発動という全面的な侵略戦争であった。
米帝と日帝の朝鮮侵略戦争への動きは93年から始まっていた。96年9月の朝日新聞が報じている。
それによると、93年初め頃から在日米軍は、さみだれ的に朝鮮半島有事の際の対米支援要望事項を伝えてきた。防衛庁・統合幕僚会議(統幕)は在日米軍に対して要求項目をまとめてほしいと伝えると94年3月頃、1千項目以上の要求項目が届けられた。「韓国領海を含めた機雷の掃海」「米軍艦船が故障した場合の曳航」などの戦闘に近いものや「民間空港の使用」などだった。
これに基づいて、統幕と在日米軍司令部は六本木の防衛庁と米軍横田基地を相互訪問し、週数回のペースで朝鮮侵略戦争の作戦会議を開いていた。
一方、日本政府の内部では、当時の羽田内閣の石原官房副長官や安保担当者の間で「いざとなったら時限立法で対応するしかない」などいうとんでもないことが検討された。おのおのの関連法の改悪ではなく、必要な項目を網羅する緊急立法が検討された。ほとんどが憲法9条に違反する内容で、とうてい許されないものであった。
米帝の朝鮮侵略戦争発動を前にして、日本帝国主義・政府は日米のアジアへの強盗同盟を護持するためには憲法違反であろうとなりふり構わず戦争立法を策動した。とんでもない輩なのだ。
朝鮮侵略戦争発動寸前まで行った情勢で、カーター元米大統領が北朝鮮を訪問し、金日成主席との会談で、原子炉の軽水炉への転換を米側が支援し、北朝鮮は「核開発を当面、凍結する」ことで戦争回避を合意した。
この戦争が回避された本当の理由は、当時の韓国大統領・金泳三が「米国が北朝鮮を軍事攻撃すればソウルは『火の海になる』」と言い、「その場合、韓国65万軍隊の一人も戦闘に送らない」と猛然と反対したことだ。
もうひとつの理由は、米韓連合軍の作戦計画「5027」が想定した米軍が兵力50万人、航空機1600機、艦船200隻の中継・補給・兵站基地としてあてにしていた日本の対米支援の態勢がまったくないことだった。
97年ガイドラン改定の目的は日米帝の朝鮮侵略戦争をやりぬく仕組みをつくるためであった。
日帝にとって94年朝鮮侵略戦争危機は、91年をはるかに上回る危機だった。これに応えなければ日帝は帝国主義として存在できない、ましてアジアへ覇権を求める帝国主義としては問題外になるということで、米帝の朝鮮侵略戦争への協力を検討していった。
▼統幕の研究
そこで「統合幕僚会議の研究」が行われた。
図があるので説明したい。
米帝の朝鮮侵略戦争で米帝が日帝に何を要求しているのか、日帝がこれを検討する場合、どこに「憲法上の問題があるかを明確にしている。
横軸が「戦場からの離隔度」。縦軸が「米軍支援の軍事行動の深度」を示している。
この図全体が米帝と日帝の朝鮮侵略戦争の全戦争行動を示している。戦闘地域は朝鮮半島、後方地域は戦闘地域の後方なので朝鮮半島とその近海をさす。
米帝が日帝に要求しているのは、左側のAゾーンと「グレーゾーン」のBゾーンだ。Cゾーンは問題になっていない。
統幕の研究では、Aゾーンについては米軍支援可能の領域とされている。
しかし、Aゾーンにはもともと問題がある。
日帝は、憲法9条の戦争放棄の規定にもかかわらず自衛権を主張し、強引に自衛隊をつくり、その後は解釈改憲と既成事実を積み重ねて自衛隊の戦争行動の範囲を勝手に決めてきた。Aゾーンは反動的な自衛権の主張の上に立つ領域である。
そうした政府のでたらめな主張においても、自衛隊の戦争行動(武力行使の発動)の範囲は日本国内(領海・領空)に限定されていた。領海・領空の外に出て戦争することは想定されていない。
統幕の研究は、Aは自衛権の範囲内だから「米軍支援可能」とするが、朝鮮侵略戦争においてはこのAゾーンが民間空港・港湾の提供など戦争の最前線として強化されるものになっている。自衛権の発動が侵略戦争の発動に直結しているのだ。
▼「グレーゾーン」
次にBゾーンについて。統幕が自ら「グレーゾーン」と言う。これは「グレーゾーン」でもなんでもなく「ブラックゾーン」だ。
公海上から後方地域(朝鮮半島とその近海)における以下の活動を指している。
後方支援として、ACSA有事適用、海上自衛隊による洋上補給・輸送、後方地域での補給・輸送・整備。
戦闘支援として、捜索・救難(撃墜された米軍機から脱出し海上に浮かぶパイロットの捜索・救出)、情報提供。
戦闘行動として米軍艦船の護衛・防空。
【ACSA(日米物品役務相互提供協定) 米国軍が同盟国の軍隊との間で物資や役務の相互利用を行う枠組みを定める二国間協定】
この時点で統幕はこのハードルを明確にして、反動的突破の方向に踏み出した。
(つづく)
(宇和島洋)