■マルクス主義・学習講座 労働組合と国家――資本主義国家と闘う労働組合 ⑺ 丹沢 望

月刊『国際労働運動』48頁(0458号04面01)(2014/11/01)


■マルクス主義・学習講座
 労働組合と国家――資本主義国家と闘う労働組合 ⑺
 丹沢 望

(写真 コミューンによってパリ市内に築かれたバリケード【1871年】)


目 次
はじめに
第一章 労働者と国家の闘い
   ・階級対立の非和解性の産物としての国家
   ・国家に対する階級闘争の歴史
   ・革命の主体、労働者階級の登場
   ・マルクスの労働組合論(以上、4月号)
第二章 労働組合の発展史
   ・初期の労働者の闘いと国家による弾圧
   ・マルクスの労働組合論
   ・パリ・コミューンと労働組合
   ・サンジカリズムの台頭(以上、5月号)
   ・ロシア革命と労働組合
   ・30年代のアメリカ労働運動(以上、6、7月号)
   ・労働者階級の自己解放闘争と労働組合(以上、
    9月号)
   ・暴力について
第三章 パリ・コミューンと労働組合
   ・労働組合と革命(以上、10月号、本号)
   ・コミューン時代の労働組合
   ・労働の経済的解放(以上、本号)
第四章 ロシア革命と労働組合
   ・05年革命とソビエトの結成
   ・1917年2月革命と労兵ソビエトの設立
   ・労働者国家を担う労働組合

労働組合と革命(つづき)

▼コミューン革命の幕開け
 3月18日、ティエール行政長官の命令でフランス政府軍は国民軍を急襲した。目的は国民軍の武装解除であった。国民軍が労働者街に運んだ200門の大砲の奪取を目指した。この衝突が「コミューン革命」の幕開けだった。
 パリの労働者は、国民軍を中心に武装蜂起し、政府軍を包囲し、労働者に合流を呼びかけた。膨大な労働者に包囲され、革命の熱気に触れた政府軍は動揺し次々に労働者に合流し、政府軍は総崩れとなった。
 軍隊が労働者と接触することが軍隊の内部崩壊につながることを思い知らされたティエールは、パリを捨て敗残軍を引き連れてベルサイユに逃亡した。
 政治権力の空白となったパリの支配権は、コミューン側=国民軍中央委員会に移った。26日、パリの全区でコミューン選挙が実施された。
 28日、市庁舎前に20万人の労働者・市民が集まり、歓呼の中でコミューンの成立が宣言された。それまで統治にあたってきた国民軍中央委員会は、最初に「風紀警察」の廃止を命令し、コミューンにその権力を譲った。
 3月29日、コミューンは徴兵制と常備軍を廃止し、市民が構成する国民軍が唯一の武装力であることを宣言した。
 29日に家賃に関する布告を出した。70年10月、71年1月および4月までの家賃の支配を猶予することを決めた。
 同日、質屋が質物を売るのを止めさせた。質屋から市民が借りた借金の返済猶予措置である。当時は質屋が庶民金融のほとんどだった。
 31日、コミューンは外国人も参加を許されることを宣言した。その理由は「コミューンの旗は世界共和国の旗である」からだとした。
 4月1日、コミューンの吏員の俸給、議員の俸給を最高6000㌵を超えてはならないと決めた。
 4月2日、教会を国家から分離し、宗教目的の国家支出の廃止と教会財産の国有化を決めた。8日には宗教的な物を学校から追放することを命令した。
 6日には国民軍がギロチン(死刑執行台)を引きずり出して公衆の歓呼の中で焼き払った。
 10日には寡婦および遺児のための布告を発した。戦死した国民軍兵士の妻に対しては調査・確定のうえ、年金600㌵を与える。認知されたか否かを問わず、遺児に対しては18歳まで年金365㌵を与える。母がいない遺児はコミューンで養育し、必要とされる完全教育を行う。
 12日、ヴァンドーム広場にある戦勝記念塔(頂上にナポレオン像がある)を引き倒すことを決めた。
 16日、工場主たちによって放棄された工場の統計表、ならびにこれらの工場の現状の正確な目録の作成を命じ、これまで工場で働いてきた労働者の協同組合によってこれらの工場の経営にあたらせ、さらにこれらの協同組合を一大連合体に組織する計画の立案を命じた。
 17日、支払い猶予に関する布告が出された。約束手形、小切手、計算書、協議債務等あらゆる性質の負債の支払いは、来る7月15日から3年以内に履行される。負債の利息は無利子とする。
 20日にはパン焼工の夜業を廃止した。警察が指定した連中が独占してきた職業紹介所を廃止し、区役所に移した。
 26日、公証人、執達吏、競売人、執行吏その他の司法吏員は、労働者並みの固定給をもらうコミューンの吏員となった。
 医学校の教授たちが逃亡したので、国家寄生物ではない自由な大学の設立にあたる委員会を任命した。
 27日、公私の作業場で、工場主が振るっていた私的裁判権(工場主が自分勝手な判断で労働者への罰金を決め、処罰として賃金から差し引き、労働者の賃金を略奪する自家製の刑法典の施行)を廃止した。
 5月6日、71年4月23日以前の質札で、金額20㌵を超えないものは5月20日以後、無償で解除されることとした(借金の棒引きである)。
 5月12日、コミューン行政官庁へのあらゆる納入品に対する入札心得には、この仕事に従事する男女労働者に支給すべき賃金の最低額を、当該納入品の見積書中に記載するものとする(入札者たちが低額で入札し労働者たちに飢餓賃金を強制していたことへの是正=賃金保障)。
▼コミューンの英雄的闘争
 4月30日、全国で市町村議会選挙が行われたが、ティエール支持派は惨敗した。これを見たビスマルクがティエールに講和の救いの手を差し伸べた。講和条件は、賠償金の支払い期間の短縮、プロイセン軍による一定の期間のパリ保塁の占領継続、そしてパリを支配する国民軍を滅ぼすために、フランス軍捕虜を釈放しティエールの軍に渡すことであった。つまり国民軍を打倒するための政府軍とプロイセン軍の軍事同盟であった。
 5月10日、両者は講和条約に調印した。 
 5月21日、プロイセン軍の支援を受け、増強されたベルサイユ軍はパリ城壁内に突入、「血の週間」と呼ばれるほど凄惨な市街戦が開始された。戦争開始から8日目の28日、コミューン側の大砲は、砲弾が尽きて、4時に沈黙した。200人の連盟兵が死守していたペール・ラシェーズ墓地は包囲された。夕ぐれの6時、墓地の門扉が、砲撃でうち破られるや、ベルサイユ軍は墓地になだれこみ、墓石と墓石のあいだで白兵戦が演じられ、147人の連盟兵が、墓地の北東の角の壁ぎわで銃殺された。この壁は、「連盟兵の壁」として、パリ・コミューンを今日に伝えている。
 エンゲルスは、『フランスの内乱』第3版序文で次のように言っている。
 「あのペール・ラシューズ墓場の『連盟兵の壁』は、いまなお、支配階級が、もしプロレタリアートにしてその権利のために登場することを敢えてするや否や、いかなる凶暴をやり得るかという、一の沈黙にして且つ雄弁な証拠である」
 多くの国民軍の兵士・労働者市民が英雄的に戦い、虐殺された。5月末日までに殺された市民は3万人を数えた。死刑・強制労働・流刑など1万8000人が有罪となった。
 マルクスは『フランスの内乱』で次のように語っている。
 「近代随一のこの恐るべき戦争のあとで、征服軍と被征服軍とがプロレタリアートを共同で虐殺するために提携するという、この類例のない出来事は、ビスマルクが考えるているように、勃興する新社会を最後的に弾圧したことを示すものではなく、ブルジョア社会が粉みじんに崩れ落ちたことを示すものである。旧社会がいまなおなしうる最高の英雄的努力の極地は、国民戦争である。ところが、これさえ、階級闘争を延期させるためのごまかしにすぎず、その階級闘争が内乱となって爆発するや否や、たちまち放棄されてしまうということが、いまや証明された。階級支配は、もはや民族的制服で変装することはできない。もろもろの民族政府は、プロレタリアートを相手にしては一致結束する」
 これは第1次世界大戦、第2次世界大戦、帝国主義のあらゆる戦争に通じることである。昨日まで互いにけたたましい排外主義の悪罵を投げつけ労働者同士に殺し合いを強制していた帝国主義戦争の当事国政府が、一方が降伏した後は一致してプロレタリア革命の弾圧に出てくる。日米戦争を戦っていた日米のブルジョアジーは、日本の戦後革命の圧殺という点で一致していた。日米のブルジョアジーが最も恐れていたのは日本のプロレタリア革命であった。
 現代世界の根本矛盾は賃労働と資本であり、ブルジョアジーとプロレタリアートの絶対非和解の階級対立にある。「国と国との争い」は、ブルジョアーの「階級支配を国民的制服で変装している」にすぎない。
 ゆえに戦争に対するプロレタリアートの基本的態度は国際連帯であり、〝万国の労働者団結せよ〟である。
▼コミューン4原則
 パリ・コミューンが創り出した国家とはどんなものであったのか。マルクスは『フランスの内乱』でその基本点を述べている。
 1 常備軍を廃止し、それを武装した人民とおきかえること。
 2 コミューンの各区での普通選挙で選出された市会議員は、選挙人に対して責任を負い、いつでも解任できた。
 3 コミューンは議会風の機関ではなく、同時に執行し立法する行動機関でなければならなかった。
 4 警察は責任を負う、いつでも解任できるコミューンの道具に変えられた。
 5 行政府の他の吏員も同様であった。
 6 議員をはじめとして公務は労働者並みの賃金で果たさなければならなかった。
 7 国家の高官の既得権や交際費は高官もろとも消えた。公職は私有財産でなくなった。
 8 市政も国政の発議権のすべてがコミューンの手中におかれた。
 9 教会を国家から分離した。
 10 教育の無料化、教育への国家の干渉の排除。
 11 司法職員、治安判事、裁判官も選挙され、責任を負い、解任できるものにならなければならなかった。
 レーニンは、『国家と革命』の第3章「1871年のパリ・コミューンの経験」でマルクスのこの提起を4点に整理している。
 1、常備軍の廃止と武装した人民へのおきかえ
 2、議員、吏員、司法職員の選挙制、責任制、随時解任制
 3、全公務員の労働者並みの賃金、特権の廃止
 4、コミューンは議会風の機関ではなく、同時に執行し立法する行動機関でなければならなかった
 これが今日「コミューン4原則」として整理されているものである。
▼常備軍の廃止、武装した労働者の組織
 コミューン4原則の第一は、常備軍の廃止と武装した労働者人民へのおきかえである。
 パリ・コミューンは常備軍を廃止し、それを武装した人民、ほとんどが労働者からなる国民軍にかえた。武装した人民、とりわけ武装したプロレタリアートこそがコミューン存立の最大の保障であった。武装したパリ、これがパリ・コミューンであった。ティエールの政府・ブルジョアジーの政治意思に反して、武装したままドイツ軍と対峙する労働者のパリ、ここから労働者の蜂起と権力の宣言へと発展していった。
 マルクスは『フランスの内乱』で述べている。
 「パリがよく抵抗することができたのは、まったく、攻囲の結果パリが(政府の)軍隊を厄介ばらいして、それを大部分労働者からなる国民軍とおきかえていたことのおかげであった。この事実は、いまや一つの制度とされなければならなかった。そこで、コミューンの最初の政令は、常備軍を廃止し、それを武装した人民とおきかえることであった」
 「常備軍を廃止し、武装した人民におきかえること、それをひとつの制度とすること」、これがパリ・コミューンが行ったもっとも基本的政治行為である。これこそが「直ちに死滅する(し始める)ように組織された」労働者国家・コミューン型国家の第一の原則である。
 この武装した労働者人民の組織こそがプロレタリア革命から生まれた軍事組織であり、それゆえに直ちに死滅し始めるように組織されたプロレタリア独裁国家の核心をなすのである。
 プロレタリア独裁国家における資本家階級に対する制圧が一定程度進めば、この暴力装置そのものが次第に不要になり、国家は死滅を開始する。
 「ところで、ひとたび人民の多数者自身が、自分の抑圧者を抑圧することになると、抑圧のための『特殊な力』は、もはや不必要である! この意味で、国家は死滅しはじめる」(『国家と革命』)
▼公務員の選挙制と解任制
 コミューン4原則の第二は、コミューンの議員・吏員の普通選挙制・責任制・随時解任制である。
 コミューンの議員と吏員は普通選挙によって選出された。選出された議員・吏員は、選挙人に対して厳格に責任を負い、選挙人の意志に忠実でないかコミューンの実務に役立たない場合は直ちに解任され、選び直された。また、命令委任といって、代理人(選挙された議員・吏員)の権力と任務とは明確に定められていた。
 ここで重要なのは、これが議員だけでなく吏員(公務員)、なかでも警察や裁判官にも適用されたことだ。ブルジョア社会では議員や公務員が特権的な地位をもち、人民の代表であるとか公僕であるなどとと称しながら、実際には国家の立場で上から人民に命令し指揮していた。これに対して、選挙制・責任制・解任制の原則をもって人民との直結性を確保するものであった。
 さらにこれは次に述べる公務は労働者並み賃金で果たすという原則と一体となることによって議員と官吏の社会的特権をなくす制度的保障となりうるものだった。
▼全公務員の労働者並みの賃金、特権の廃止
 コミューン原則の第三は、全公務員の労働者並みの賃金と特権の廃止だ。
 全公務員の賃金を労働者並みとし、国家の高官たちの既得権、交際費、天下り、賄賂、袖の下などの特権を廃止することだ。これは、「労働に応じた分配」の原則として表現される社会主義的な平等主義の実際的な貫徹の問題ともつながっている。
 レーニンは、この問題について「こうして、コミューンは、破壊された国家機構をいっそう完全な民主主義でおきかえたに『すぎない』ように見える」と言っている。
 さらにレーンは言う。
 「ところで、ひとたび人民の多数者自身が、自分の抑圧者を抑圧することになると、抑圧のための『特殊な力』は、もはや不必要である! この意味で、国家は死滅しはじめる。特権的少数者の特殊な制度(特権官僚、常備軍の指導部)にかわって、多数者自身がこれを直接遂行することができる。そして国家権力の諸機能の遂行そのものが全人民的になればなるほど、ますます国家権力の必要度は少なくなる」
 「この点でとくに注目に値するのは、マルクスが強調しているコミューンのとった措置、すなわち、あらゆる交際費や官吏の金銭上の特権の廃止、すべての国家公務員の俸給の『労働者並みの賃金』水準の引き下げである。まさにこの点に、ブルジョア民主主義からプロレタリア民主主義への、抑圧者の民主主義から被抑圧階級の民主主義への、一定の階級を抑圧するための『特殊な力』としての国家から、人民の多数者である労働者・農民の全体の力による抑圧者への抑圧への急転換がもっとも明瞭に現れている」
 レーニンが、すべての公務員の俸給の労働者並みの賃金にするという問題を決定的に重視していることを再確認したい。前述の「『すぎない』かのように見える」という言葉と重ね合わせてほしい。
 そして労働者国家は誰もが官吏となることができ、しかも官吏の特権が復活しないような措置を取ることによって、旧来の官僚制を廃止し、官僚制そのものを廃止する道を開いていく。
▼議会制度の廃止、執行府であり立法府でもある行動機関の形成
 コミューン4原則の第四は、階級支配の制度であった議会制度を廃止し、「執行府であると同時に立法府でもある行動的機関」を形成することである。
 議会制度とは、レーニンの表現を借りれば「特殊な制度としての、立法活動と執行活動との分業としての、議員のための特権的地位としての」「金しだいの腐敗した制度」などの特徴をもっている。
 議会とは官僚的な執行権力と一体となって、その執行権力に奉仕することが役割であって、けっして「人民の意志」を体現するものではない。数年に一度、選挙によって選出された代表によって構成された議会という機関は、執行権力の活動と意志を追認する活動をしているだけである。要するに国家権力の行為があたかも全人民的な利害の実現であるかのようなみせかけを与える「いちじく」の葉が議会である。
 マルクスは、「普通選挙権は、支配階級のどの成員が議会で人民を代表し、ふみにじるべきかを三年または六年に一度決める」制度だと指摘している。
 ではこうした議会制度から抜け出すためにはどうするべきなのか。
 代議機関と選挙制を廃棄することであろうか。そうではない。代議機関をおしゃべり小屋から「行動的」団体へと転化することにある。
 ここで4原則の二つ目の代議員の人民に対する責任制の問題に立ち返ってみる。責任制とは、単に議員として立法に責任をもつというのではなく、「自ら活動し、自ら法律を実施し、実際上の結果を自ら点検」するなどすべてにおいて責任をとることである。代議員は人民に直接責任をとるためにも行政的な執行の責任もとるということである。
 そしてこの問題の制度的保障は、根本的に言えば、人民の大多数あるいは全人民が公務に参加できるようになることである。これをいかに効率的・機能的に実現していくか、国家が死滅していく方向でいかに組織していくかにこの問題の核心がある。
 ブルジョア国家機構を粉砕したあと、「あらゆる官吏を徐々になくしていくことを可能とする新しい官僚機構を直ちに建設しはじめること」が当面の任務となる。
 この問題の解答は、社会全体の名においてプロレタリアートが「監督と簿記係」を雇い、統制し、服従させるという仕方から始まって、次第に全人民参加の方向で行政的実務の問題を解決しながら、大規模生産を基礎とした社会的生産の全体を組織していくということにある。
 レーニンは次のように言っている。
 「官僚を、一挙に、いたるところで、すっかりなくすことは、問題にならない。それはユートピアである。しかし、旧官僚機構を一挙に粉砕すること、そしてあらゆる官吏を徐々になくしていくことを可能にする新しい官僚機構をただちに建設しはじめること----それはユートピアではない。それはコミューンの経験である。それは革命的プロレタリアートの直接当面の任務である」
 「資本主義は『国家』行政の諸機能を単純なものにする。それは『指揮統率』をやめて、社会全体の名において『労働者、監督、簿記係』を雇うプロレタリア(支配階級としての)の組織に万事を帰着させることを可能にする」
 「大規模生産を基礎にして、このように始めていけば、ひとりでにあらゆる官僚制度は徐々に『死滅』してゆき、また、かっこつきではない秩序、賃金奴隷制とは似ても似つかぬ秩序――ますます単純化する監督と経理の機能が、すべての人によって順番に遂行され、つづいてそれが習慣となり、最後に、人間の特殊な層の特殊な機能としてはなくなるような秩序――が徐々につくりだされてゆく」
 以上にみた内容を持つコミューンが「プロレタリアート独裁国家」である。
 このプロレタリア独裁国家は他方で労働組合に依拠しながら、根本的な経済的改革を推し進めなければならない。政治的変革は経済的変革と一体でなければならないからだ。
 そしてこの政治的変革と経済的変革を同時に担うのが労働組合だ。

コミューン時代の労働組合

 コミューンの時代には今日のような全国的規模の産別労働組合は存在しなかった。だが、職種別の小規模な労働組合は存在した。例えば、機械工、金属工などのほかに伝統的職種の仕立工、製靴工、高級家具製造工、指物工、装身具細工師の組合など。これらの組合は、ボナパルトの一方での懐柔政策、他方での弾圧によって自由な活動を妨げられてはいたが、その構成員のなかには、マルクスや無政府主義者によって作られた第一インターナショナルに加盟していた多くの労働者がおり、労働者民衆と深く結合して組織活動を展開していた。パリには小規模ながら100の労働組合があり、うち機械工3万人のうち1万2000人が、青銅工1万人のうち6000人が、印刷工3500人のうち2400人が組織されていた。また54の協同組合(生産・消費共同組合)4万人が第一インターの指導下に組織され、労働組合連合評議会を形成していた。
 これらの労働者は職人的性格をもった労働者が多かった。もちろん近代工業の発展も第二帝政の下で進み、近代的なプロレタリアートも部分的に登場していた。
 これらの組合は本質的に労働者の基礎的団結形態としての労働組合と同様の性格をもつ。これらの労働組合がパリ・コミューンの基盤にあったことを見落としてはならない。なおパリの総人口179万9880人のうち57%が小規模工業の労働者、12%が商業労働者であった。労働者の都市だからこそ、そしてこの労働者が労働組合を結成しつつ闘ったからこそ、パリ・コミューンが成立した。代議員名簿からもわかるように、パリ・コミューンの代議員にはこれらの労働者のうちもっとも先進的な労働者が選出された。

労働の経済的解放

 コミューンは、第一インターナショナルに指導された先進的労働者の下で、上述の4原則をうちだすとともに、経済面でも革命的な方策をうちだした
 革命は政治的改革だけでなく、資本家の支配を支えていた経済的土台を根こそぎ取り除く経済的改革を必要とした。
 ではこの「労働の経済的解放」はどのような政策によって推進されたか。
 一つは、コミューンの決定に基づき労働組合の指導の下に形成され、管理された協同組合が、ブルジョアジーによって意識的に放棄された工場の管理・運営を行う。この活動によって労働者階級は、生産設備を共有化し、資本家なしでも工場の管理・運営ができることを実証した。この闘いは極めて短い期間、部分的に開始されたものであり、必ずしも順調にいったとはいえないが、労働組合を中心にして、労働者による工場の管理・運営を手段として「労働の経済的解放」を実現するものとして歴史的意義をもつ闘いであった。
 二つは、この協同組合的生産を、協同組合諸団体の連合体がひとつの共同計画に基づいて全国の生産を調整するという形で実現する。そうすることによって、生産を自分の統制の下に置き、資本主義生産の宿命である不断の無政府状態と恐慌を終わらせる。地方的でなく、全国的な計画として、これを普遍化し、フランス社会における根本的な経済的変革を実現しようとした。これは計画だけで実現はできなかった。
 三つは、このほか、夜業の禁止、罰金制度による賃金の切り下げの禁止などの法的措置の実施によって、資本家による貪欲な搾取を阻止した。さらに、このような闘いを実現するためのテコとして、意識的に労働組合を再編・強化した。この点に関してはマルクスの強い指導があった。
(以上、第7回)