●特集 アメリカ労働運動を甦らせる闘い Ⅲ オバマの教組破壊と闘いUTLA組合権力を奪取 シカゴとロサンゼルスの経験――職場組織化と国際連帯で権力を奪還

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月刊『国際労働運動』48頁(0458号03面03)(2014/11/01)


●特集 アメリカ労働運動を甦らせる闘い Ⅲ
 オバマの教組破壊と闘いUTLA組合権力を奪取
 シカゴとロサンゼルスの経験――職場組織化と国際連帯で権力を奪還

(写真 AFT本部が指令した大統領選挙でのオバマ支持のブルーTシャツ着用を拒否し、大会のゲストとして現れたバイデン副大統領に、「トップに向けた競争政策をやめろ」のプラカードで弾劾するシカゴ教組代議員団【2012年7月 AFT大会】)

(写真 「テストか教員か、二つのうちから選択せよ」。UTLA西部地区エマーソン中学でテストボイコット【09年2月】)

(写真 NEA大会でUTLAが提案したダンカン教育長官の辞任要求決議に賛成投票をするカリフォルニア州代表団【14年7月1日 デンバー】)

(写真 リーダーシップカンファレンス【2泊3日の分会長研修会】で、組合員主体のUTLAに変革するためにどうすべきか、各地域ごとに討論)

(写真 UTLAユニオンパワーは組合権力奪取後、各学校訪問・討論をさらに強化した。8月の第1日目は、パーム小学校を訪問した。左からカプトパールUTLA委員長、NEA本部のリリー・エスケルセン=ガルシア委員長、カリフォルニア教員連盟のミッキ・チコーキ=セモ書記長、セシリー・マイアトクルス副委員長【14年8月21日】)

COREの組織化

 シカゴ教組を甦らせるために、COREは各学校を回って学校閉鎖や民営化への絶対反対を訴えて組織化した。そして、地域の活動家とのネットワークも作っていった。同盟軍になるべき地域の組織は、すでに存在していた。04年の計画で地域の22の学校のうち20の閉校が提案されていた中南部地域ではKOCO(「ケンウッド及びオークランドのコミュニティー組織」)という組織がつくられていた。KOCOは、地域住民、LSC(地域学校評議会、各校ごとに存在する予算等を決める公式機関)、活動家教師の連合体だった。KOCOは、市当局のタウンミーティングに押しかけ、市会議員に圧力をかけ、市教育委員長の所までデモをかけた。こうして、KOCOは、04年廃校計画を押し返し、緒戦の勝利を収めていた。
 COREは、KOCOの活動家と知り合い、その闘いの教訓を市内全域で方針を求めている人々に伝えていった。そして、何よりも、職場でのオルグのあり方を変革していった。
 「『組合はこれができて、これができない』というような言い方はやめて、『われわれには何ができるのか、組合員自身が何ができるか』ということを話すようにしました。すると、仲間が話に乗ってくるようになりました。ゆっくりとした変化でしたが。一対一で話し込みました。そして2~3人の小さいグループでも話しました。COREのイベントに誘ったのです」
 「特にCOREが執行部選挙に出たときに大きく変わりました。仲間は、カレンとジェシー〔委員長と副委員長の候補〕が、どういう組合を作ろうとしているのかを聞きました。仲間たちが思っていたことと同じでした。賃金のためだけに闘うのではなく、公教育のために闘う。そして教員の立場を守るために闘うということです」(ジム・カバレロ、5年間職場代表をしていた組合員)
 そして09年1月には他の諸団体と共同して、「教育改革に関するフォーラム」を開催し、500人以上を結集した。組合員は、81校から集まり、地域住民の代表も来た。この闘いで、20校以上の閉校計画を立てていた学区当局を追い詰め、ほとんどを撤回させる勝利を得た。COREは、シカゴ全体に影響を与えられる勢力として認知された。そして、この全市集会をばねにして、各学校レベルでの集会を積み上げていった。そこではオルグに入ったCOREメンバーは先頭に立たず、現場の組合員に組織化の方法を教えて彼ら自身に組織してもらうようにした。
 こうして作り出した新たな活動家層の出現と、影響力の拡大に驚愕した執行部は、自分たちも闘っているというポーズを作るためにCOREの集会に参加してきた。COREのメンバーの多くは当初、自分たちでシカゴ教組の権力を取る意思はなく、執行部が自分たちの意見を入れて闘ってくれれば良いと考えていた。集会に参加した執行部には積極的に発言させ、デモの先頭にも立たせた。
 しかし、さらに組織化が進み、学区当局との闘いが激化するなかで、執行部は一斉に参加しなくなった。
 この時期、シカゴ教組では委員長と副委員長の争いが勃発した。その過程で分かったことは、とんでもない会計不正があるということだ。4年前には500万㌦の黒字があったのに、今は200万㌦の負債を返すために、組合活動を縮小しなければならないという。COREは、その原因は何なのか、帳簿を公開せよという要求を掲げて、シカゴ教組本部での追及行動を組織した。翌年の執行部選挙に挑戦すべしとの声は、各学校職場から上がっていった。

シカゴ教組執行部選への挑戦

 シカゴ教組の執行部を握っていたUPC派(統一進歩派)は、ずっと以前は戦闘的な闘いをしたこともあったが、当局の民営化・閉校、大量解雇の先兵に変質していた。組合員はシカゴ教組に幻滅していた。しかし、UPCは、40年前から、途中3年間PACT派(積極行動派)に執行部を奪われたことを除いて、ずっと権力を握り続けたので、強力な官僚的統制機構を作り上げていた。それに挑戦するのは相当な覚悟が必要だった。
 COREは、闘いを現実に組織し、UPC指導下のシカゴ教組とはまったく違う路線を提示できた。しかし、それだけでは、組合権力は奪取できなかった。オーソドックスな組織化のノウハウを学んで、忠実に実行したことが決定的だった。足を棒にして訪問、継続的にオルグ名簿を更新し、一対一の会話を粘り強く行う以外に、何か特別に便利な早道はない。
 「COREの優れた所は、何よりもCOREメンバーが組織化を熱心にやったことです。組織化について細部にわたって考え抜いたことです。だから、こんな出来たばかりのグループが選挙に勝てたんです」(高校教師、ビル・ラム氏)
 最初は、下のレベルの選挙から始めた。
 CTUの議決機関である代表者会議は、基本的に各学校から1人ずつ、大規模校の場には複数人の代議員が選ばれ、合計800人である。
 COREは少しずつ代議員を増やして約20人を確保して動議を出す資格を得たが、執行部は新たな議題を出すことを妨害してきた。委員長が40分も話し続けて代議員が退席するようにしむけ、定足数不足で流れ解散にさせたこともある。
 次は、欠員ができた年金基金理事に立候補した。当局が401(k)確定拠出型年金にして、デリバティブでの危ない運用を進めようとしていることに警鐘を鳴らすリーフレットを作って、2人の候補だけでなく、他のCOREメンバーも各学校を一つひとつ回ってオルグした。こうして09年10月、ついに2人の当選をかちとった。これが、COREの全市レベルでの初の選挙闘争で、翌年の執行部選挙の予行演習になった。
 このCOREの勝利に驚愕した執行部は学区当局と結託して、規則を改定し、学内でのビラ配布禁止などの規制をかけてきた。しかし、これを打ち破り、2010年1月、COREは執行部候補者を全員そろえ、2~3月、立候補支持署名1400筆を集める闘いに入った。これを行ったCOREメンバーは100人だった。この署名状況で各学校の支持の度合いをはかり、選挙運動用のリストを作り、選挙本番に打って出た。選挙での学校回りでは、個人リストは作らなかった。各学校の代表者を獲得することに全力を注ぎ、その代表者の票読みで、学校リストを作っていった。こうして、100人のCOREが2万7千人の組合員とつながっていったのだ。
 5月21日の投票日の前までには、COREは400人になっていた。だが、組合員数と比べたらまだ非常に小さい。しかも、現職執行部は「COREは過激派だ」「こんな時代に、過激派に組合を運営させるのは危険すぎる」「COREの政策は絵に描いた餅だ」と物量にまかせた大キャンペーンをした。そして当局と結託して、CORE派を学校内に入れない妨害をしてきた。
 そこで、COREは、住民団体とともに、5月25日に学校閉鎖反対の全市大集会を企画し、代表者会議で組合の組織承認を求めた。この集会の規模が大きく、止められないと悟った執行部は、25日の集会を承認した。COREはそれを利用して、3万枚のカラーポスターを作成し、全校にもれなく配布した。21日、UPCは36%、COREは33%を得票した。
 そして25日は、5千人の巨大なデモとなった。それに満足せず、さらに地道な各校オルグを継続し、6月11日の決選投票で、ついにCOREは59%、1万2千票以上で勝利したのである。

オバマの参謀、エマニュエルとの対決

 ラーム・エマニュエルは、民主党の最高実力者で、オバマ政権の大統領府のトップだった。COREのシカゴ教組権力の奪取直後、その彼が、急遽、シカゴ市長選挙に出ることになった。元シカゴ学区CEOのアーニー・ダンカンは、オバマ政権の教育長官だ。
 シカゴ教組をめぐる攻防は、アメリカ帝国主義中枢との正面激突になった。
 これに対して、COREは徹底した職場の組織化で対抗した。各学校で、組織化のイロハから訓練し、指導者を作っていくことだ。

新執行部の屈服の危機

 オバマ政権は、ブッシュ政権以上に激しい労組破壊攻撃をしかけてきた。RTTT(トップに向かっての競争)政策だ。これは、大恐慌下で連邦政府の補助金の増額なしには州の教育行政が成り立たなくなっている財政状況につけ込み、補助金と引き換えに、学力テストと教員評価のリンク、チャーター化の推進を州に迫るものだ。
 これを受けて11年1月、イリノイ州議会に教育改革法案が提出された。これが成立すると、組合との交渉なしでも当局は一方的に教員の労働条件を変えることができる。また、レイオフする場合に、これまで先任権〔*〕を基準にせねばならなかったのが、教員評価を基準に加味できるようになる。
*先任権――前に雇用された労働者はレイオフの順番が後になり、レイオフされた場合でも先に再雇用されるという権利。労組破壊を狙う右派は、先任権を「年配の組合員の既得権を守るために、若い組合員を犠牲にする」と攻撃している。だが、これは、資本家が組合経験の長い労働者を先に解雇して次々に新しい労働者と入れ替えて組合を弱体化し、破壊してきたことに対する防衛措置として歴史的にアメリカ労働運動の中で確立され、新組合員教育に組み込まれ、世代間でともすれば起こりがちな対立を乗り越え、継承されてきた伝統的権利なのである。

 また、この法案は、ストライキ権を得るためには組合員総数の(投票者ではなく)の75%の賛成を義務付け、事実上ストを不可能化するものだった。
 シカゴ教組は、AFTイリノイ州連盟、NEAイリノイ州連盟とともに、この法案の修正をめぐる協議に参加し、両連盟が、「さらに悪い法案にならないように」という理由でこの法案の提出に賛成すると、シカゴ教組のカレン・ルイス新委員長も賛成してしまった。
 これはCORE内で大問題となり、執行部への質問状も出された。ルイス委員長は、法案支持を撤回し、代表者会議でも600票で撤回が支持された。
 この法案支持で新執行部への不信感が組合員の間に生まれたが、執行部が組合の民主的な討議と決定を徹底的に尊重する姿勢を示したことで組合の団結は回復していった。

ストライキで団結する

 11年5月、市長に就任したエマニュエルは、財政危機を振りかざして50校の閉校を打ち出した。成果給、終身雇用権の廃止、先任権の廃止も狙ってきた。かつてない大攻撃だ。
 シカゴ教組は、さらに1年の各学校での組織化を行い、12年春ストライキに向かっていった。まず、スト権投票予行演習を行い、2万1千票、80%以上の賛成を獲得した。そして7千人の組合員が大講堂を埋める集会を行い、市内をデモした。そして実際のスト権投票では、2万4千票、90%以上の票でスト権を獲得した。
 9月のストライキは9日間にわたって、組合員ほぼ全員がピケットラインに立つという完璧な団結を示した。
 ストの結果、具体的にかちとったものは、成果給の導入の中止、教員評価の45%を学テの評価にするという当局案を25%に引き下げさせるなどだった。閉校数は削減されたものの、閉校攻撃そのものは止まらなかった。労働条件改悪の攻撃も続いている。だが、スト自体とスト後の討論を通じて、組合の団結はかつてなく強化された。そして、シカゴ市民の教組支持が圧倒的に高まった。シカゴ教組の労働条件改善要求が閉校反対要求とともに、当然のものとして市民に受け入れられるようになった。教師たたきキャンペーンが跳ね返されたのだ。
 戦後アメリカ労働運動は、民主・共和の二大政党制の抑圧で苦汁をなめてきた。体制内指導部が、「民主党を支持しないのは共和党に塩を送る利敵行為だ」として民主党との闘いを統制し圧殺してきたことをなかなか乗り越えられなかったのだ。しかし、シカゴ教組の新たなランク&ファイル労働運動は、真正面から民主党オバマ政権と闘い、団結を強化・拡大している。労働者自身が独立した勢力として登場し、自分自身を解放していく闘いが、大規模に開始されたのだ。
 このシカゴ教組の闘いの先駆けとなり、新たな労働運動を切り開いたのがUTLA(ロサンゼルス統一教組)の新潮流である。次にそれを見てみよう。

70年大ストライキとレーガン州政との攻防

 UTLAは、ニューヨーク市教組に次ぐ、全米第2の巨大教組である。しかも、NEA傘下とAFT傘下の組合が合併して、両組合に二重加盟しており、NEAにもAFTにも大きな影響力を持っている。ここで2005年、戦闘的な労働運動の潮流が執行部権力を奪取した。全米に衝撃が走った。
 カリフォルニア州は、ニューヨークに次いで労組の組織率が高い労働運動の拠点である。30年代階級闘争を最先頭で切り開いた西海岸港湾労働者ストライキとサンフランシスコのゼネラルストライキで作られたILWU(国際港湾倉庫労組)を始めとして、強力な労働組合が存在する。
 AFL―CIOカリフォルニア州連盟は、AFL―CIO全体の6分の1を占める大勢力だが、この州連盟の大会では、本部のベネズエラ反革命への加担の真相究明を求める決議を繰り返し上げるなど、本部と対決する姿勢を示している。
 そのカリフォルニアの中でさえ、UTLAの新勢力の登場は予想外のできごとであった。
 NEAやAFTの全国大会では「カリフォルニア代表団は左翼的すぎる」と批判され、カリフォルニア州大会では「ロサンゼルス代表は左翼的すぎる」と批判されるという。
 その勢力を作ってきたのは、長い間のフラクション活動だった。PEAC(「闘う進歩的教育者」、ピーク)は、全市的なネットワークを持ち、いくつかの拠点学校の分会を握って戦闘的な職場闘争を展開してきた。
 ロサンゼルス教組は、70年の大ストライキで、それまでライバル関係にあった組合が共闘する中から生まれてきた組合だ。
 当時のレーガン州知事は、50年代末から、俳優・テレビタレントとしての知名度を使ってゼネラルエレクトリック社の全米の工場をくまなく回り、経営側と対決するのではなく協力すべきだと労働者に説く活動をしてきた人物だ。戦闘的な労働組合UE(統一電気労組)の切り崩しをしてきた、いわば労組破壊の専門家なのだ。彼は、後に大統領になってから全米的・世界的規模で新自由主義政策を行うが、そのいわば原型のような政策をカリフォルニア州知事としてやったのだ。労組破壊こそその核心だ。
 レーガンは、大学闘争の制圧と教組破壊を最も重視していた。彼の知事時代にカリフォルニア州では、教員評価を義務付ける州法が作られている。
 この時代に68年にロサンゼルス郡裁判所に提訴されたセラノ訴訟は、富裕者居住地域と貧困者居住地域の教育予算が違うのは不平等で違法だと申し立てたものだ。これが、UTLAの力を大きな背景として、71年州最高裁で勝訴確定した。労働者階級の大きな勝利だ。
 だが、これに対して、レーガンは、そうした教育予算の原資そのものを干上がらせる攻撃に出てきた。減税キャンペーンである。「税金を払わない怠け者」「福祉依存者」「高所得者は稼ぐほど税金に取られて、働く意欲をなくす」等々と。これは、彼が辞任し、第1回の大統領選挙(落選)に出た後に、78年州民投票第13号として実現された。「固定資産税の上限を1%」とし、税を改定する場合は、州議会議員の3分の2以上が必要と将来の13号撤廃の動きさえ封じたのだ。
 UTLAはこうしたレーガン州政の下で、ストライキで勝利してもその成果が新たな州法の規定で覆されるという攻防を繰り返しながら、団結を保っていった。
 そして、80年代のレーガン政権によるPATCO破壊と全米に吹き荒れた労組破壊攻撃の中でも戦闘性を失わず、89年の9日間の大ストライキを貫徹した。そしてこのときの執行部がAFT、NEAの州連盟の幹部に送り込まれ、州全体の教組の戦闘性の回復に大きな力となった。
 UTLAは、こうして新自由主義と闘う教組として、全米的に有名になり、全米の左翼的青年たちがロサンゼルス統一学区の教員を志望した。こうした面からも活動家の厚い層ができていった。
 そのため、90年代、2000年代のUTLAの停滞期にあっても、執行部の右傾化にもかかわらず、地域や分会の左翼的拠点では、独自の地域闘争、職場闘争が続けられた。

PEACの拠点マニュアルアート高校

 マニュアルアート高校は、低所得者層の多い地区の職業高校で、学区からの予算が極端に少なかった。こうした中で、左派フラクションPEAC(闘う進歩的教育者)は拠点を作っていった。
 ジョシュア・ペシュトールト氏らは、89年の大ストライキの時は、独自に大集会を開き、92年には30人の教員と1500人の生徒を組織し、教育予算削減に反対して1時間の山猫ストを打った。そして、「この財政危機の時代には、職能的な組合活動だけではだめで、全社会的な基盤をもった組織にしなければならない」として、「セカンド・オピニオン」という組合内反対派の機関紙を発行していった。デービッド・ゴルドバーグ氏(05年選挙でUTLA会計)、ジュリー・ワシントン氏(05年、副委員長)などがこのグループ、PEACに加わり、全市的なフラクションに発展していった。

2005年に組合権力奪取

 PEACはまず、中央委員会の選挙に進出していった。そして04年、05年の執行部選挙への挑戦を決めたが、現職派との圧倒的な組織力の差で勝利にはほど遠いと判断し、中間派候補のダフィー派と選挙協定を結んだ。この時点で、PEAC・中間派連合は、ある程度の票をとって、次の選挙への足がかりができれば良い方という程度に見られていた。
 だが、05年2月の投票では圧倒的な票差で勝利したのである。現職派が、賃金などの労働条件についての中央団体交渉くらいしか行わなかったことに対して、PEACなどが職場闘争を積み重ねていたこと、また教育予算削減という州レベルの政治全体と闘う路線を示したことが、組合員を活性化させたのである。
 だが、新執行部は中間派であるダフィー委員長の動揺と独断での当局との屈服交渉に悩まされ、PEACが本来重視していたはずの職場での組織化に本格的に取り組めなかった。
 UTLAとしては、さまざまな戦闘的な闘いを行ったが、全校の2割で分会長が存在せず、組合機能がまったくないという状況は、改善されず、団結に大きなバラつきが残った。

3カ国教組連帯

 左派は、93年に発足したカナダ、メキシコの教組とのトライナショナル・コアリションに積極的に参加し、そこで新自由主義との闘いの必要性を学び、活動家を作っていった。ベティー・フォレスター氏(ダフィー執行部の書記、カプト=パール執行部のAFT担当副委員長)は、このトライナショナルがメキシコシティーで開催した会議に出席し、左派活動家になっていったという。
 UTLA執行部はトライナショナルを08年4月にUTLA主催で開催することを決定した。これはアメリカ帝国主義の基本政策であるNAFTAへの正面対決であるだけでなく、ゼネスト、蜂起とオアハカ・コミューンをかちとったオアハカ教組との共闘を憎み、敵対するAFT本部、NEA本部に対する反乱を意味した。
 敵は、これを重大事態として受け止め、UTLA破壊を準備した。だが、UTLA自身は、それに比べて、このトライナショナル問題を重大視せず、全力で組合員を組織することができなかった。

大恐慌の中で大量解雇の開始

 07年サブプライムローンの破綻、大恐慌の開始の中で財政破綻が深刻化したカリフォルニア州は教育予算を大幅にカットし、ロサンゼルス統一学区は、大量解雇計画を発表した。
 UTLAはまず、08年6月、始業時間に食い込む校門前ピケット(事実上の時限スト)を貫徹した。圧倒的な組合の参加率だった。そして、09年1月、1万人の巨大な市内デモを行った。2000年代の全米の教組の中で最大動員の闘いだ。

西部地域のテスト・ボイコット

 西部地域(6千人)のセシリー・マイアトクルス議長は、この情勢の中で、自分の職場であるエマニュエル中学の分会でテスト・ボイコット闘争への決起を訴えた。「そもそもテスト漬け教育は教育ではない。そして、予算カットなど今の攻撃には職場から反撃しなければならない」と。
 「学力低下=ダメ教師の責任」の教師たたきキャンペーンが吹き荒れるなかで、テストボイコットには、多くの分会員が反対すると思っていたが、声をかけてみると皆が賛成した。地域会議でも、エマニュエル中学だけでなく、地域全体の学校でやろうという声が圧倒的になった。
 ボイコット闘争は、組合員が「教育とテストの二択問題。どちらかに丸をつけよ」というプラカードを持った分会員がピケットラインをつくり、そこにマスコミを呼んで記者会見を行った。標準学力テストを義務化したブッシュ政権のNCLB(落ちこぼれゼロ法)制定以来、全米で初めての公然たるテストボイコットだった。
 そして、UTLAは被解雇者が最終的に確定して、解雇通知が送られる09年5月に1日ストライキを設定した。
 それに対して、裁判所はスト禁止仮処分命令を出した。
 中央委員会(8地域の代表各4人+職種代表+執行部7人=49名)と代表者会議(最高議決機関、350名)の多数はスト決行を主張したが、執行部はスト中止方針を出した。激論の末、両会議で直前にストを回避することを決定した。
 スト中止とその後のかさにかかった当局の攻撃激化によって、組合員の組合不信が蔓延した。11年の役員選挙では現職のジュリー・ワシントン副委員長が委員長候補になったが、ワレン・フレッチャー候補に敗北した。
 フレッチャー委員長は、前執行部を「交渉が下手だから、当局にやられている。私は交渉のプロを雇う」と宣言して登場した。執行部への不満票をこうして集めたが、職場の闘いを信頼せず、団体交渉や裁判だけに組合活動を切り縮めるものだ。労働組合を保険会社と同じようなものとする典型的なビジネスユニオン主義(請負主義)、救済主義の路線だ。この執行部の下で、ストライキどころか、大デモも組織されず、組合員の中には一層無力感と無関心が蔓延していった。
 12年3月、ロサンゼルス統一学区当局は、9500人の解雇計画を発表した。UTLAの組合員の4分の1という大量解雇だ。6月、UTLA組合員の批准投票で労働協約案を賛成58%、反対42%のかつてない小差で承認した。この協約は、解雇者数を若干当局案より減らしたものの大量解雇を受け入れ、無給休暇の拡大も認めた。
 執行部内で苦闘するアーリーン・イノウエさんは、「デイジー教育長がUTLAをつぶそうとしているのは明らかです。ロサンゼルスでできれば他の学区や州でも可能になるからです」「私たちは国の構造を変えねばなりませんが、UTLA自身の変革も必要です」と語っている。この攻撃は地方的レベルのものではなくオバマ政権による国家的な教組破壊の戦略的焦点としてUTLA破壊が位置づけられていることを明らかにし、それと闘える組織としてUTLAを甦らせることを呼びかけたのだ。だが、フレッチャー委員長体制の抑圧を突破することはなかなかできなかった。
 こうした中で、左派拠点では職場闘争が独自に継続された。
 西部地域では、地域集会、ピケット、学区当局に対する抗議闘争などが粘り強く組織された。
 貧困地域にあるクレンショー高校は、長い間、PEACの拠点として闘ってきた所であり、アレクス・カプトー=パール氏らが地域住民との強固な共闘関係を築き、予算削減と闘った。そこは労働運動の拠点であるとともに、新教育運動の拠点でもあり、生徒が生き生きと参加する学校を作り上げていた。新自由主義の「学力」観と根本的に対決し、批判精神を養う教育を行い、なおかつ、標準学力テストでも当局に付け込まれない「成績」を上げていた。
 この拠点をつぶそうとして、当局はアレクス・カプトー=パール氏らを解雇してきた。彼らは、解雇基準を示せと争い、生徒、父母、住民の支持を得て、復職をかちとった。すると当局は、クレンショー高校自体の閉校・再編=全員解雇と再雇用応募の強制を強行してきた。
 これも、全住民的な大闘争となった。UTLA本部の支援がまったくない中で、伝統ある組合拠点、クレンショーの閉校は阻止できなかった。だが、カプトー=パール氏らは別の学校での復職はかちとることができた。

13~14年執行部選挙での勝利

 現執行部内反対派のアーリーン・イノウエ会計、ベティー・フォレスターAFT担当副委員長と西部地域のセシリー・マイアトクルス議長、クレンショー闘争のカプト=パール氏らは、ランク&ファイル運動のフラクション再編を行った。
 根本的に体制内的な中間派との共闘ではなく、新自由主義と闘う路線での一致を求めていった。13年初め、ラティノコーカスと協定し、統一フラクションである「ユニオンパワー」を形成した。ラティノコーカスは、ロサンゼルスの生徒数の圧倒的多数を占め、教員の3割を占めるラティノ(メキシコ、中南米系)の権利を守る闘いをしているフラクションで、トライナショナルにも参加していた。
 シカゴ教組のCORE派は、UTLAから学んで闘ったが、今度は、ユニオンパワーがシカゴ教組から学んだ。12年のシカゴ教組ストの前から、カプト=パール氏らは何度もシカゴの闘いに参加し、そこで闘いの経験、組織化の仕方を学んでいった。
 オルグのハウツーを単なる技術論だと言って軽視せず、それに正面から取り組むことが本質的に重要なのだという考え方をまず学んだ。オルグの方法を考え抜くことを通して、その実践を通して、一人ひとりの組合員が主体なのだということを深く理解することだという根本思想だ。
 こうしてユニオンパワーは、選挙財政の解決から各校訪問、オルグの仕方まで、シカゴの教訓に忠実に、支持を表明した組合員を支持者にとどめず直ちに組織者に転化する闘いを展開していった。
 候補者自身が足を棒にして、直接に組合員と会ってとことん話し合い、支持表明があったら、7人全員がその組合員と会って、組織者になってほしいと依頼した。
 14年2月~4月の選挙は地すべり的な勝利だった。
 ロサンゼルス学区は、東京23区全体の面積の2倍以上ある広大な地域で、これまで一つのフラクションでまとめていくことは至難の業だった。しかし、14年、UTLA史上初めて、執行部7人を全員ユニオンパワー派が獲得し、中央委員会、代表者会議の選挙でもユニオンパワーの候補が全員当選した。

全国的組織への挑戦

 UTLAとシカゴ教組は現在、セント・ポール(ミネソタ州)教組、ヒューストン(テキサス州)教組、フィラデルフィア(ペンシルベニア州)教組、オークランド(カリフォルニア州)教組、リッチモンド(同)教組、マサチューセッツ州教組と密接な関係を作っている。フィラデルフィア教組の新執行部とは、教組権力に挑戦する段階からともに闘ってきた。また、シカゴでもロサンゼルスでも地域の他産業の労働組合との共闘を積極的に追求し、闘う労働運動の新たな全国ネットワークを目指している。
 09年11月、日比谷野音の労働者総決起集会に参加したセシリー・マイアトクルスさんは、「私の人生を変えた経験だった」と10年8月のUTLAリーダーシップカンファランス〔分会長研修会〕で語っている。14年の日米教育労働者フォーラムでもそれを繰り返した。
 動労千葉を軸とする階級的労働運動の産業別を超えた全国ネットワーク、そして労働者国際連帯には無限の可能性があるということだ。
 今年の11・2労働者集会に、マイアトクルスさんがUTLA首席副委員長として再び参加する。この国際連帯の中で互いに学び合い、職場から組織を建設し、世界革命ができる国際潮流をつくろう。