■マルクス主義・学習講座 労働組合と国家――資本主義国家と闘う労働組合(6) 丹沢 望
■マルクス主義・学習講座
労働組合と国家――資本主義国家と闘う労働組合(6)
丹沢 望
目 次
はじめに
第1章 労働者と国家の闘い
・階級対立の非和解性の産物としての国家
・国家に対する階級闘争の歴史
・革命の主体、労働者階級の登場
・マルクスの労働組合論(以上、4月号)
第2章 労働組合の発展史
・初期の労働者の闘いと国家による弾圧
・マルクスの労働組合論
・パリ・コミューンと労働組合
・サンジカリズムの台頭(以上、5月号)
・ロシア革命と労働組合
・30年代のアメリカ労働運動(以上、6、7月号)
・ 労働者階級の自己解放闘争と労働組合(以上、9月号)
・暴力について
第3章 パリ・コミューンと労働組合
・労働組合と革命(以上、本号)
・コミューン時代の労働組合
・労働の経済的解放
第4章 ロシア革命と労働組合
・05年革命とソビエトの結成
・1917年2月革命と労兵ソビエトの設立
・労働者国家を担う労働組合
暴力について
マルクス・エンゲルスは、「......革命が必要なのは、単に支配階級を他のいかなる方法によっても打ち倒せないからだけでなく、打ち倒す階級が、ただ革命の中でのみ、一切の古い汚物を払いのけて社会を新たに樹立する力を身につけることができるようになるからである」(『ドイツ・イデオロギー』)と言っている。
マルクスもエンゲルスも革命における暴力の役割を絶賛している。
社会の常識では、暴力は人間性に反するものとされているが、これは民衆の暴力の復権を恐怖した支配階級のデマゴギーである。支配階級が暴力を独占しようとする意図から流しているものだ。
暴力とは何か。故本多延嘉書記長は、『戦争と革命の基本問題』(本多著作選第2巻)で次のように言っている。
「暴力とは人間社会の共同利益を擁護するための共同意志の積極的行為である」
「本質的に規定するならば暴力とは共同体の対立的表現、あるいは対立的に表現されたところの共同性であり人間性にふかく根ざしたところの人間的行為である」
人間はそもそも原始共同体の中で生活していた。共同体が生きていくためには共同体の外部(他の共同体)との対抗(戦争)と共同体内部の規範を維持していかなければならなかった。そのために共同体の共同意志の形成とその強制が絶えず行われる必要があった。これが暴力の本質的(根源的)な意味である。ゆえに暴力は人間が共同体で生きていくうえで不可欠のきわめて人間的な積極的な行為であった。
共同体内においては、成員間に対立が生じたとしても、共同意志の形成とその強制(暴力)は、人間生活の社会的生産の意識的規範としての役割を果たしていた。
原始共同体から氏族共同体に進み、氏族共同体の中に私有財産を持つ者と持たない者の分岐が生まれ、それがさらに進んで共同体は支配階級と被支配階級に分裂した。階級社会への移行であるが、それとともに本来の暴力は二つに分裂した。私有財産と階級支配を維持するための支配階級の疎外された暴力としての国家権力=政治的暴力と、それに対抗する被支配階級の潜在的暴力である。
支配階級の政治的暴力が国家権力として自己を確立していくためには、住民に対する軍事的威圧を前提にしながら同時に、支配階級の階級利害のもとに社会的な諸利害をまとめあげ、社会全体の共同の利益の実現であるかのように振る舞いつつ住民にそれを強制することが必要だった。
国家とは階級対立の非和解性の産物である。その国家が存立しているのは、国家の本質がこのような共同体の幻想的形態、あるいは虚偽の共同性を装って、支配階級の階級利害を社会全体の共同利益の実現であるかのようにしながら国家暴力を振るって階級支配を行っていることにある。
被支配階級である圧倒的多数の住民は、国家の意志形成と強制の過程(=暴力)から除外され、支配階級の階級利害を共同利害のようにつくりあげたものを国家意志(虚偽の共同体の意志)であるとして強制されてきた。
そこでは被支配階級の階級的利害はいつでも抑圧され、踏みにじられた。ゆえに被支配階級の反乱がつきものだった。それは被支配階級の階級利害を階級的な共同意志として支配階級に強制しようとする潜在的暴力の発動だった。
これまでのあらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史であり、敵対関係にあった支配階級と被支配階級の闘争であった。それはまたいつでも私有財産と階級支配を維持するための疎外された暴力としての国家権力と、それに対抗する被支配階級の階級的な共同意志を支配階級に対して強制する暴力の衝突であった。
資本主義社会は、労働者階級の搾取の上に成り立つ社会であり、プロレタリアートこそ資本と絶対的に対立しており、資本が支配するこの社会を根底的に転覆することなしには自己を解放することができない階級である。
ゆえに資本主義社会とは、社会が搾取する階級と搾取される階級に分裂して以来の人類の歴史が最後に行き着いた姿であり、プロレタリアートとはその転覆によって階級社会そのものを廃止する以外には自己を解放することができない階級である。
そして新たな社会を建設するための諸条件は、資本主義社会の発展それ自身の中にすでに生み出されている。
プロレタリアートは、自らを支配階級として組織し、プロレタリア独裁国家を樹立するとともに、階級対立を終わらせ、共産主義社会の建設に直ちに向かっていく。そして国家も死滅に向かっていく。共産主義社会こそ本来の人類の共同性、共同体のあり方を全面的に発揮し、人間の無限の可能性を切り開いていく社会である。新たな社会を建設する条件は、マルクスの『資本論』によって全面的に科学的に明らかにされている。
すなわちプロレタリア革命とは、被支配階級であるプロレタリアートがその階級利害(資本の廃止)を全社会の人民の共同意志として支配階級であるブルジョアジーに強制する暴力革命である。
07年イラク侵略戦争の際に「労働運動の力で革命を」と青年労働者が呼びかけた。この叫びに革命の核心がある。労働者階級の階級的団結、労働組合における階級的団結の形成が、すなわち労働者階級の資本との絶対反対・非和解の闘争、すなわちブルジョアジーによる階級支配打倒の共同意志・階級意識の形成とその強制が暴力革命である。
マルクスとエンゲルスが暴力を賛美し、本多書記長が「暴力とは、本来ある人間社会の共同利益を守る共同意志の積極的行為であり、きわめて人間的行為の復活である」と言うのはそのためである。
ゆえに「勝利したどの革命からも、大きな道徳的・精神的高揚が結果として生じている」のだ。
ロシア革命や最近のエジプト革命などを始めとするあらゆる革命の後に、労働者階級は、抑圧と搾取からの解放感や喜び、崇高な任務を成し遂げた誇りでいっぱいとなった。労働者たちの暴力を非難するのは支配階級だけだ。
資本主義社会の中で、分断と生存競争を強制されてきた労働者は、労働運動を闘う過程で、労働組合として団結し、階級意識を培い、労働組合を通じて人間的共同性を回復することができる。この労働組合を核とする共同性の回復こそが社会を変革し、新たな社会を創造する最大の力となる。
またブルジョアジーとの暴力的衝突のなかで、労働者は階級性を深め、ブルジョアジーと闘って勝つ能力、社会主義社会における経済運営能力などを高め、知力を啓発し、革命的意志を打ち鍛える。
プロレタリア革命が予め革命的能力を持った少数の革命家による革命ではなく、労働者階級の事業であり、普通の労働者による自己解放的な革命である以上、労働者は労働組合の中で闘い、支配階級を完全に制圧する革命のルツボのなかで先進的労働者から学び、自己変革して支配階級としての能力を急速に身につけていく。そうしてこそ、新社会を担う労働組合を基礎とした労働者階級が形成される。
レーニンは、第1次世界大戦を前にする革命的情勢の切迫の中で、労働者階級の基礎的団結形態としての労働組合の拠点建設を軸とした階級形成と、労働者階級の最高の団結形態としての革命党の建設の一体的建設に成功した。それがロシア革命勝利の教訓である。
第3章 パリ・コミューンと労働組合
労働組合と革命
パリ・コミューンは労働者の権力、すなわちプロレタリア独裁をわずか72日間の短命ではあったが、初めて地上に打ち立てた革命である。
1860年代後半、フランスは67年の恐慌とその後の不況に陥り、皇帝ナポレオン3世の帝政は危機を深めていた。ナポレオン3世は、70年7月19日、帝政の延命のために冒険的にプロイセンに対する戦争に打って出た。プロイセン・フランス(普・仏)戦争である。これは双方の側からヨーロッパ大陸の覇権をかけた戦争であった。
当時、ドイツ北東部にあってベルリンを首都とするプロイセン王国は、分裂したドイツの統一を目指していた。66年に北ドイツ連邦の盟主となり、南ドイツの諸国との同盟を結び、統一の仕上げとして対フランス戦争に勝利することを計画していた。
国際労働者協会(第1インター)は、7月23日に普仏戦争に関する宣言を発表した(マルクスが執筆した)。
「ルイ・ナポレオンとプロイセンとの戦争がどういう成り行きとなるにせよ、第2帝政の弔鐘はパリで鳴らされたのである。......ルイ・ナポレオンが18年ものあいだ復古帝政という凶悪な茶番劇を演じることができたのは、ヨーロッパの諸政府と支配階級のおかげである。......ドイツの側についてみれば、この戦争は防衛戦争である。だが、ドイツが自分を防衛しなければならないようにしたのはだれなのか? プロイセンである!......ビスマルクである」
プロイセンに7月19日宣戦布告し、南ドイツに攻め込んだフランス軍は、待ち構えていたプロイセン軍にたちまち撃破され、フランス領内に押し戻され、敗走した。
開戦前にはフランス優位といううわさが飛び交っていたがフランス軍は各地で完敗した。メス要塞で18万人のフランス軍が包囲され、この救援に向かったフランス軍はセダンでも包囲され、ナポレオン3世含めた10万人のフランス軍が丸ごと降伏し捕虜となった。これがセダンの戦いで9月2日のことだった。
【注 メス、セダン フランス北東部の都市。ベルギー・ドイツとの国境近くに位置する】
プロイセンの宰相ビスマルクはこの戦争の勝利のために、軍隊と兵站の大量で迅速な輸送を進めていた。鉄道6本を敷き、大規模な軍制改革(参謀本部の設置、徴兵制など)を行った。そのためフランス軍はいつのまにかプロイセン軍に包囲され降伏を余儀なくされた。
20年に及ぶナポレオン3世の帝政の腐敗がフランス軍を蝕み、軍隊の指揮・統率が乱れ、戦場に将軍が着いても部隊がいない、弾薬がない、食糧がないという有様だった。
セダンのあまりの惨敗に民衆の帝政への憎しみは高まり、国内には革命的情勢が生み出された。
9月4日、パリの労働者市民が立法院に押し寄せ、議会のブルジョア共和派は帝政の廃止を宣言、「国防仮政府」が成立した。
9月4日以前からパリには各種の民衆クラブがつくられていたが、帝政打倒の革命直後の5日、労働者人民は第1インターパリ支部の呼びかけで「国防政府」に対して闘う組織として「パリ20区共和主義中央委員会」をつくった。これは労働運動を指導する第1インターがパリ全体の闘いの指導権をとっていたことを示すものだ。「パリ20区共和主義中央委員会」は、コミューンの萌芽とも言える直接民主政的な活動を行っていた。
さらに下からの義勇軍組織として「国民軍」の募集が行われ、30万人の労働者市民が参加した。国民軍とはフランス革命のときにつくられた民兵組織だ。第2帝政においては富裕市民の地区に限って認められていたが、戦況悪化と市民の祖国防衛熱の高まりの中で政府は国民軍を全地区において募集せざるをえなくなった。これは決定的であった。弁舌しか武器を持たない労働者市民に対して地区ごとに武器を与え武装組織に編成するものであったからだ。新編成の大隊では幹部の選挙という慣習が復活した。支配階級が自らを打倒しかねない「住民の自主的な武装組織」をつくったも同然であった。
国民軍をつくってみたもののブルジョア共和派の国防政府は、目前に迫ったプロイセン軍より武装した民衆=国民軍を恐れた。
9月19日、プロイセン軍はパリを包囲した。
10月27日、プロイセン軍に包囲されていたメスのフランス軍(18万人)がたいした抵抗もなく降伏した。これを知った民衆は怒り、31日、国民軍の大隊を先頭にパリ市庁舎を包囲したが蜂起は失敗した。国防政府は反撃に転じ、弾圧を強めた。
71年1月18日、パリ砲撃が続く中、プロイセン王はパリ近郊のベルサイユ宮殿で新しく樹立されたドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム1世として即位した。
【注 ベルサイユ パリから約20㌔南西に位置する】
遅れて資本主義化し、急速に発展を開始していたドイツは、フランスに勝利することでドイツ統一を達成し、フランスを乗り越え大英帝国に対抗するヨーロッパ大陸の強大国にのしあがった。
ティエールは、プロイセン軍と休戦協定を一刻も早く結び、国民軍を解体しようと急いでいた。しかし労働者人民の側は断固たる拒絶を示していた。この攻防の中で1月22日、ブランキ派の武装蜂起が起こったが失敗した。それを口実とする弾圧の勢いを借りてティエールは休戦協定を結んだ。
休戦協定に反対するデモでパリは反乱状態になった。その中で唯一の武力は国民軍だった。その大部分の地区の実権を隊長が握っていた。2月26日、「国民軍中央委員会」が結成された。同日夜、国民軍のデモは、シャンゼリゼ周辺に集結していた大砲(市民の寄付でつくられた)を労働者街に運んだ。この組織がこれまでの「パリ20区共和主義中央委員会」に代わって労働者人民の闘う組織になっていった。
71年2月12日、反動議会が召集され、ティエールを行政長官とする王党派とブルジョア共和派の連立内閣が成立した。2月26日、連立内閣はプロイセン政府との間で「アルザス・ロレーヌ両地方の割譲と50億㌵の賠償金支払い、ドイツ軍のパリ市一時占領」などを取り決めた仮講和条約に調印した。
(以上、第6回)