■マルクス主義・学習講座 労働組合と国家――資本主義国家と闘う労働組合(3) 丹沢 望
■マルクス主義・学習講座
労働組合と国家――資本主義国家と闘う労働組合(3)
丹沢 望
目 次
はじめに
第1章 労働者と国家の闘い
・階級対立の非和解性の産物としての国家
・国家に対する階級闘争の歴史
・革命の主体、労働者階級の登場
・マルクスの労働組合論(以上、4月号)
第2章 労働組合の発展史
・初期の労働者の闘いと国家による弾圧
・マルクスの労働組合論
・パリ・コミューンと労働組合
・サンジカリズムの台頭(以上、5月号)
・ロシア革命と労働組合
・30年代のアメリカ労働運動(以上、今号)
・労働者階級の自己解放闘争と労働組合
・暴力について
第3章 パリ・コミューンと労働組合
・労働組合と革命
・コミューン時代の労働組合
・労働の経済的解放
第4章 ロシア革命と労働組合
・05年革命とソビエトの結成
・1917年2月革命と労兵ソビエトの設立
・労働者国家を担う労働組合
ロシア革命と労働組合(1917年)
第1次世界大戦は、帝国主義が二つの強盗ブロックに分かれて繰り広げる市場・勢力圏再分割戦であり、同じ階級である労働者同士に殺し合いを強制するものだった。
レーニンは、帝国主義戦争に対する労働者階級の立場は、自国政府の敗北を歓迎し、この戦争をプロレタリア革命に転化することでなければならないと熱烈に説いた。「帝国主義戦争を内乱に転化」するために闘おうと呼びかけた。ロシアの労働者階級は、ボルシェビキとともに、この路線を貫いて、1917年10月革命に勝利した。
レーニンとボルシェビキは、新しいインターナショナルをつくる前に、まずもってロシアのプロレタリア革命に勝利し、世界革命の突破口を開いたのである。
〔「ロシア革命と労働組合」については第4章で全面的に述べる〕
▼コミンテルンの結成
コミンテルンは革命ロシアが帝国主義諸国の反革命干渉戦争と戦っている中で結成された(コミンテンとは「共産主義インターナショナル」の略で、第3インターナショナルのことである)。
コミンテルン第1回大会は、19年3月2日にモスクワで開かれた。大会には30カ国から52人の代議員が出席した。大会の基本的な議題「ブルジョア民主主義とプロレタリアートの独裁についてのテーゼと報告」がレーニンによって3日目の会議で提起された。また、レーニンの提案した補足決議を承認した。第1回大会は、コミンテルンの政綱、全世界のプロレタリアートへの宣言、その他一連の決議と決定を承認した。大会は二つの指導機関、執行委員会とそれの選出する5人からなるビューローを設置することを決定した。
規約は、コミンテルンの目的を「資本主義の打倒とプロレタリアート独裁ならびに国際的なソビエト共和国という、一つの目標を追求するために、さまざまな国のプロレタリアートの共同行動を組織する」ことにあるとしていた。
レーニンは、コミンテルン創立大会の開会を宣言する際、1カ月余り前にドイツの官憲に虐殺されたローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトを追悼して出席者全員の起立を促した。5日間の大会を成功のうちにかちとったレーニンは、次のように述べている。「われわれが社会主義の勝利をめざして闘うのは、われわれだけのためではない。われわれは全世界の労働者をわれわれと一緒に勝利させるために闘っているのである」
▼コミンテルンの変質
ロシア革命に続こうという世界の共産主義者と労働者階級の支持によって、コミンテルンは全世界に圧倒的な影響力を拡大した。しかし、1924年、レーニンの後を襲ったスターリンは、一国社会主義論によって世界革命を裏切り、コミンテルンをソ連スターリン主義反革命体制を防衛する機関に変質させた。
トロツキー追放を始め、粛清の嵐で独裁体制を確立したスターリンは、帝国主義との共存でソ連防衛を図り、国際共産主義運動をそれに従属させた。帝国主義の基本矛盾の爆発は、第2次世界大戦として現れたが、スターリンはその一方の陣営(最初はナチス・ドイツ、次は米英)と結んで帝国主義世界戦争の担い手にまで転落した。そして、そのために障害になるとしてコミンテルンを大戦中に解散してしまった。
▼赤色労働組合主義
1920年夏に開かれたコミンテルン第2回大会において、ロシア・イタリア・ブルガリア・イギリス代表団とフランスを代表するグループが800万の組織労働者を代表して発言すると称して、国際労働組合評議会(プロフィンテルン)の創設を決定した。その主要な機能は「赤色労働組合の国際大会」を組織することだった。
1921年7月3日にプロフィンテルン創立大会がモスクワで開かれた。そこで「黄色アムステルダム・インターナショナル(国際労働組合連盟)の曖昧なブルジョア的綱領に明確な革命的行動綱領を対置すること」がプロフィンテルンの任務であると宣言された。
プロフィンテルンは、既成の労働組合を反革命的と否定し、そこから脱退して新たな革命的労組に結集する方針を打ち出した。これは、既成の労組に組織されている大部分の労働者を反動的な労組幹部の支配下に放置するものだった。
プロフィンテルンは極左的に突出した活動を行い、孤立していった。反動的社民との闘いと資本との闘いを結合するのではなく、社民主要打撃論や社会ファシズム論などで主要な目標を反動的社民打倒に置くものだった。
日本でもプロフィンテルンの指導の下で、日本共産党は「赤色労働組合」政策を採った。1925年に日本労働組合評議会を結成したがかえって孤立を深めることになった。
30年代アメリカ労働運動
1929年10月24日、アメリカで株式恐慌が起こり、大恐慌に発展し全世界に波及した。大失業が吹き荒れ、いわゆる30年代階級闘争が始まった。ドイツ、フランス、スペイン、イタリア、アメリカでは革命的情勢に突入した。
ここではアメリカの30年代労働運動を見ることにしたい。
大恐慌は32年後半から33年にかけて第1回目のピークを迎えた。最悪の33年3月の失業者は1600万人を超えたといわれ、2人に1人が失業した。GNPは29年の70%、工業生産は54%、株価は6分の1にまで下落した。
共産党系の失業者協議会の指導下で大規模な失業者のデモが全国で行われた。30年3月6日、ニューヨークで行われたデモは3万5千人が集まり市長に要求を突きつけた。国家権力・警察と探偵社(労働者・労働運動弾圧を専門にする会社)に襲撃されたが闘い抜いた。32年12月には全国飢餓行進が1200人で行われた。革命の恐怖におびえる支配階級は、3倍の数の軍隊を動員し弾圧した。階級闘争は街頭でも激化した。
失業者協議会は、デモだけではなく、住宅闘争を展開した。失業者が家賃滞納で住宅を追い出され、家財道具が行政によって放り出される現場を数百人の労働者で取り囲み、実力で家具を元通りに運び込んだ。ニューヨーク市で31年6月から32年6月までの間に立ち退き命令を受けた18万5千世帯のうち7万7千世帯を防衛した。
さらに帰還兵のボーナス行進があった。第1次世界大戦の帰還兵には軍隊勤務手当の調整として一日1㌦程度のボーナスを基金化して預託し、1945年に支払うという内容であった。当時としてはまとまった額だった。失業に苦しむ帰還兵たちは、この手当の即時支給を求めた。
32年4月、全国から帰還兵とその家族がワシントンに結集し、6月15日には2万5千人に達した。彼らはホワイトハウス近辺に小屋やテントで村をつくり請願を始めた。国家権力は第1次世界大戦に「国のために」と命をかけた帰還兵に、マッカーサーとアイゼンハワーが指揮する軍隊を差し向け、流血の弾圧を加えた。これは国家権力に対する怒りの憤激を巻き起こした。
▼ルーズベルトのニューディール
33年に大失業がピークに達し、革命情勢が煮詰まった時、革命への予防反革命の役割を担って登場した大統領がルーズベルトだった。「ニューディール」(新規巻き返し)だと言い、「『救済・回復・改革の綱領』で大恐慌と闘う」と改革者を装った。革命の切迫を感じた支配階級による労働者階級の闘いを体制内に抑え込むための反革命の綱領だった。
・全国産業復興法(NIRA)
ルーズベルトは、大統領に就任すると多くの恐慌対策法を打ち出したが、その最大のものが全国産業復興法(NIRA/33年6月制定)だった。企業の自由な経済活動を制限し、各産業ごとの生産量や価格を協定させ、労働時間や賃金などの労働条件を決めた。労働者階級を丸ごと体制内に取り込むことが狙いだった。
NIRA第7条a項は、アメリカ史上初めて労働者の団結権・団体交渉権を法的に承認した。その実施機関として全国復興庁がつくられた。
それまで労働組合には法的な裏づけがなく資本家は労働組合を否認し、ストライキやピケは業務妨害だとして警察や探偵に襲撃させるのが当たり前だった。
NIRA第7条a項の施行により、全国の労働者は当時唯一公認されていたAFL(アメリカ労働総同盟)にこぞって加盟した。しかし大産業の資本家は7条a項に従わず、AFL指導部も資本と闘わず、結局は労働者が職場の闘いによってかちとっていく以外になかった。
NIRA制定から1カ月で150近い産業で規約が成立した。例えば綿工業規約では週12~13㌦の最低賃金、週40時間労働、16歳未満の児童労働の禁止が決められた。
▼34年の労働攻勢
NIRAの制定を受けて労働組合への加盟者が激増した。33年のAFLの組合員は約210万人だったが34年8月には260万人になった。労働争議への参加人数も33年には前年の3倍になり117万人、34年には147万人に激増した。
ブルジョアジーは、NIRA第7条a項を平気で無視し、労働組合弾圧のためにあらゆる手段を採った。探偵というスト破りを雇い、あらゆる武器を買い込んで武装した。労働組合のストライキは、警官隊・探偵社との内戦的な闘いになった。34年から36年の争議で少なくとも88人の労働者が虐殺されている。
▼ILWU結成をかちとった港湾労働者のゼネスト
1934年7月のサンフランシスコ・ゼネストは、大恐慌下で、港湾労働者の権利と賃上げを求めるストライキに、全市の労働者が連帯してかちとった偉大な闘いだった。
当時、港湾労働者は「沖仲仕」と呼ばれていた。その仕事は、沖に停泊した貨物船に艀を着けて荷を降ろし、さらに艀を桟橋につけて荷揚げする。また、当時の船はいつ着くか分からなかったので長時間、岸壁で待ち、入港1分前に手配師が招集をかけた。手配師は招集した労働者の中から気に入った者を雇うシェイプアップと呼ばれる奴隷市場のようなやり方が行われていた。これが港湾労働者の憎しみの的だった。
こうした時にNIRA第7条a項が出され、沖仲仕たちはこぞってAFL傘下の国際沖仲仕労組(ILA)に加盟した。海運業者は組合を否認し団体交渉を拒否し続けた。沖仲仕たちはハリー・ブリッジスを指導者に34年2月、ランク&ファイル(現場労働者)の大会で、「時給1㌦で週30時間の1日6時間労働、すべての雇用は組合のハイヤリングホール(就労斡旋所)を窓口にする」という要求を決めた。
5月9日に沖仲仕1万2千人が、5月23日までに海運労働者3万5千人が太平洋沿岸のすべての港でストライキに突入した。
サンフランシスコの資本家団体「産業協会」は太平洋岸で最も強力な団体で、知事、市長、官庁、国会議員、マスコミなどのあらゆる権力を集中していた。「共産主義者の反乱」「赤軍がこの街に進軍しつつある」とスト破壊の大キャンペーンを張った。
この反動を突き破り、7月3日、サンフランシスコの12万7千人の大ストライキが敢行された。
7月5日、警官はストライキのピケラインに催涙弾と拳銃で襲いかかり、完全装備の州兵も出動し、戦時戒厳令下の状態になった。2人の労働者が虐殺されたこの日は「血の木曜日」と呼ばれた。闘いは資本家と労働者の階級対階級の大激突となった。
サンフランシスコの労働組合は、ゼネストを決議し、16日から18日まで60万都市サンフランシスコ全市がゼネストに突入した。労働者が労働しなければ社会は止まってしまうこと、労働者こそが社会の主人公だということを支配階級に見せつけた。
この闘いは、37年にハイヤリングホールを始め要求のほとんどを獲得し、太平洋西海岸全港湾を管轄する労働組合ILWU(国際港湾倉庫労働組合)結成に結実した。
▼チームスターズのミネアポリス・ゼネスト
34年春、AFL傘下のトラック運転手組合(チームスターズ)・ローカル574は団体交渉を申し入れた。資本はこれを拒否し、5月12日、労働者はストライキに立ち上がった。
非和解的な対立が進み、5月22日、ストライキの労働者と警官隊との激突が起こった。しかし決着はつかず闘いは再び膠着状態が続いた。
労働者は7月16日、再度ストライキに突入した。これを阻止しようとした警官隊が、ストライキ労働者と支援の労働者大衆に対して無差別銃撃を加え、2人の労働者が虐殺された。街は革命と反革命が対峙した。労働者の怒りは日に日に高まり、ついに8月21日、資本は連邦政府の妥協案を呑んだ。労働者は資本に労働組合を認めさせ、勝利をかちとった。
・ワグナー法
ブルジョアジー側のNIRA第7条a項への反発が強まり、州議会の権限に対する不当介入だとする最高裁の違憲判決が出された。
そこでルーズベルトはNIRA第7条a項を強化した全国労働関係法(ワグナー法)を出した(35年5月~8月)。NIRAでは資本が組合結成を妨害したり、団体交渉に応じなくても罰したり訴追することができなかったが、ワグナー法は、資本がこれらの不当労働行為を働いた場合にこれを訴追する権限を全国労働関係委員会に与えた。これは労働運動を活気づけた。
失業者から雇用労働者に引き継がれた「生きさせろ」の闘いは、アメリカ労働運動を一変させた。熟練工の職業別労働組合に基礎を置くAFLから非熟練工の産業別労働組合会議(CIO)への転換が起きた。
AFLは1886年に結成され、以後アメリカ労働運動の中心であった。熟練工の組織で労働者をその職能別(大工・石工・紡績工・織工・機械工・鍛冶屋・陶器工など)に産業・企業を横断する形で組織していた。一つの企業の中に多くの職能別組合があり、団結するのが困難であった。また労働者の中では高給とりで、資本と闘う労働組合というより互助組織的であった。非熟練労働者をあらかじめ排除していた。
AFL傘下の例外的な産業別組織であった統一炭鉱労働組合(UMW)の指導者であったジョン・L・ルイスは、33年から35年にかけてNIRA第7条a項をテコに非熟練労働者の産業別組織への組織化に全力を挙げ、130%の組織拡大に成功した。
35年10月、アトランタで開かれたAFL大会でルイスは統一炭鉱労働組合(NMW)、自動車労働組合(UAW)、ゴム労働組合(ACW)などの産業別労働組合を率いて職能派と激突した。その後ルイスはAFL内に産業別組織委員会(CIO)を立ち上げたが、38年11月にAFLから独立した組織として産業別労働組合会議(CIO)を結成した。42の全国組合を軸に371万8千人でAFLと拮抗する勢力だった。
▼UAWがGMフリント工場でストライキ
アメリカ最大の製造業GM(ゼネラル・モーターズ)で、1936~37年に巨大なストライキが闘われた。
組合承認を要求していた全米自動車労組(UAW)に対抗して、GMを始めとする自動車産業の大企業が組合員を差別解雇したことが発端だった。36年暮れ、オハイオ州クリーブランドやアトランタのGM工場で座り込みストが開始され、他の工場にも波及していった。12月30日、ついにGM体制の心臓部であるミシガン州フリントの工場で数千の労働者が座り込みストに突入した。
アメリカの支配階級にとってこの闘いは共産主義革命そのものだった。
ストライキ35日目には、フリント市当局が数百人の自警団員に武器を与えて特殊警官を編成した。しかし座り込みの労働者たちは知事に対し「われわれの死の責任を負うのは知事だ」と不退転の決意を通告する。
スト突入から44日目、2月11日未明、GMはついに降伏、組合を承認した。
このシットダウン・ストの勝利によって小さな組合UAWは一挙に数十万人の労働者の組合加入をかちとった。
労働者は、警察や州兵との実力闘争を貫き、弾圧を受けたが闘いの中で団結を拡大し勝利をもぎりとった。
(以上第3回)