■特集 エジプト・中東情勢 Ⅲ

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月刊『国際労働運動』48頁(0450号03面03)(2014/02/01)


■特集 エジプト・中東情勢 Ⅲ
エジプト革命の新局面と米帝の中東支配の危機
戦争的危機深める中東――米帝のエジプト・中東政策の破産

危機に瀕する中東・エジプト支配

 2011年のエジプト、チュニジア革命以降、米帝のエジプト・中東支配体制は深刻な崩壊の危機に直面している。当時すでに米帝はイラクの軍事支配体制の崩壊と、イスラム政治勢力・タリバンが急速に勢力を増大し始めたアフガニスタンの軍事支配体制の危機に直面していた。さらにその上に2011年のチュニジア革命とエジプト革命が勃発し、中東全域に拡大し始めたことで、米帝の中東支配の総崩壊は不可避的過程に突入した。両国での革命の影響は、周辺の湾岸産油国、リビア、シリア、パレスチナ、トルコにまで及び、それぞれの国の支配体制は急速に不安定化した。
 米帝はこの未曾有の危機をかつてのように米軍の軍事力で強引に突破する力を喪失していた。イラク、アフガニスタンの軍事的支配の破産の中で、米軍の軍事的制圧力の崩壊という現実が完全に露呈したのだ。
 こうした状況下で米帝はチュニジアにおいても、エジプトにおいても革命を粉砕するために直接米軍を介入させることはできなかった。とりわけ米帝の中東支配の要ともなっていたエジプトでは、ムバラク体制の崩壊を阻止する何らかの具体的措置さえ講じることができなかった。エジプト革命でムバラク体制が崩壊するなかで、米帝の中東支配の要であるイスラエルへの脅威を決定的に削減する意味をもった1979年のイスラエル・エジプト平和条約締結以来米帝の同盟国であり続けたエジプトとの同盟関係は、決定的に不安定化した。

軍とムスリム同胞団の共同支配

 他方、2011年のエジプト革命後、権力を簒奪したエジプト軍部も、労働者人民との力関係を軍事力の発動をもって根本的に変えることはできなかった。軍部は2月革命の後、最高軍事評議会が国家権力を掌握し、労働者階級の闘いを徹底的に弾圧した上で軍が管理する政府を形成しようとした。だが、軍による激しい弾圧をはね返して2月革命後もエジプトのブルジョアジーを最後的に打倒する第二革命を実現する闘いを継続していた労働者階級は、2011年11月、最高軍事評議会の即時退陣を求める連日のデモを爆発させた。同22日には100万人がタハリール広場に結集し、最高軍事評議議会のタンタウイ議長に、12年6月までに文民大統領に権力を移譲することを約束させた。11月28日には国会議員選挙が行われ、唯一の組織された民間政治勢力であったムスリム同胞団系の自由公正党が全議席の47%を獲得した。
 さらに2012年5月から6月にかけて大統領選挙が行われ6月17日の決選投票でムスリム同胞団のムルシが大統領に選出された。これによってムスリム同胞団の政権が確立された。
 これに対して、新政権の成立によって既得の利権が失われることを恐れた軍部は、7月8日、最高軍事評議会名で議会解散の命令を出し、大統領の持つ行政権限や立法権などを最高軍事評議会が掌握すると宣言した。これは事実上のクーデター宣言であった。
 だが、米帝は軍の単独政権によっては軍に対する激しい怒りを燃やしている労働者人民を制圧することはできないと判断し、軍とムスリム同胞団の間の摩擦や衝突を回避しつつ両者の共同支配体制を確立して革命情勢に対処する方針に転換した。
 この方針をめぐって米帝と軍部およびムスリム同胞団の間の調整が行われ、8月13日、7月に事実上のクーデターを計画したタンタウイ最高軍事評議会議長とナンバー2のエナン参謀総長が退任させられ、この共同支配体制が発足した。

米帝と協力関係を結んだムルシ

 この共同支配体制の発足と並行して、米帝はイスラエル・エジプト平和条約の維持とムルシ政権との新たな同盟関係の確立と強化のために必死となった。
 当時ムルシ政権は、資本家階級による過酷な支配と搾取からの解放を求める労働者階級の革命的闘いの圧力の下にあった上に、経済危機の深刻化に直面していた。ムルシ政権は、労働者革命を阻止し、危機的な経済の回復を実現するために、米帝の援助を必要としていた。このため、ムルシ政権と米帝の同盟関係は維持された。イスラエル・エジプト平和条約もとりあえず維持され、米帝のムルシ政権への年間13億㌦の援助も継続された。
 だが、パレスチナのガザ地区を実効支配するハマスとの協力関係を有するムルシ政権に対するイスラエルの不信と不安は解消したわけではない。イスラエルの不信を解消するために、ムルシ政権はエジプトからガザに武器や建設資材、食料などを密輸するトンネルを多数破壊したり、ハマスの対イスラエル軍事作戦の抑制を促したり、ハマスとパレスチナ自治政府の主導勢力・ファタハとの和解と統一政府形成を呼びかけたりした。それでも、イスラエルのムルシ政権への不信は解消しなかった。イスラエルは、レバノンのスンニ派武装組織ヒズボラやシリアなどとの緊張関係を常に抱えているため、ムバラク体制下で安定したイスラエルの友好国であり続けたエジプトが、イスラム主義者のムスリム同胞団の政府が支配する国家になったことに対する激しい危機感を払拭できなかったのである。
 だからこそ、米帝はムルシが大統領に就任した当時に4億5000万㌦の特別枠の財政支援を約束して、イスラエルとエジプトの良好な関係を維持するようにムルシ政権に要求した。この目的を貫徹するために、米帝はサウジアラビアやアラブ首長国連邦などの湾岸産油国に対し、ムルシ政権への緊急経済援助を行うことも要請したのである。ムルシは経済安定化によって支配体制を固めるためにこの援助を受け入れた。
 このようなムルシ政権取り込み政策を通じて米帝は、シリアのアサド政権を打倒する計画にムルシ政権を引き込み、シリアに送りこむイスラム民兵部隊の訓練や武装を委託することにも成功した。

ムルシ打倒に決起した労働者

 ところがこのような米帝のムルシ政権取り込み政策がようやく定着し始めた段階で、ムルシ政権に対するエジプト労働者階級の大反撃が爆発してしまったのだ。
 2012年6月以来のムルシ大統領とムスリム同胞団による統治の1年間は、労働者の生活の改善を放棄し、労働組合と労働運動を弾圧した1年間であった。増大する失業に対する対策は一切とられず、新自由主義政策によって教育や医療に関する予算は削減された。労働者が抗議のストライキやデモを行うとムスリム同胞団が支配する国営テレビやラジオは労働者たちを非難するキャンペーンを張った。その上で政府は労働者の闘いを暴力的に弾圧するために治安部隊を出動させた。
 ムルシは、独立労組連盟の勢力拡大に対抗するために、既成の御用労組であるエジプト労働組合連盟の幹部にムスリム同胞団の幹部を任命し、国営工場の労働者の闘いを抑制し、労働者を支配する道具として利用した。民間企業では、資本家がやくざを雇ってストライキに突入した労働者を襲撃するのを黙認した。
 ムスリム同胞団はムバラク時代の労働運動弾圧法をそのまま利用して労働組合を弾圧し、労働者の最小限の法的権利さえも奪い去った。さらにその上に、2012年11月に「革命を防衛する法律」を新たに発布し、この法律によって労働組合の指導者を次々と裁判にかけた。この法律ではストライキは革命に敵対する犯罪として処罰された。ストライキを呼びかけた者、ストを行った者は、革命を妨害し、「他の労働者の働く権利」を奪った者として、2年以下の投獄と100エジプトポンドの罰金を科された。しかも逮捕された多くの労働者は警察で数日間取り調べを受けた後、いったん釈放されるが、警察の集めた情報のみで裁判所が欠席裁判を行い、本人たちが知らないうちに数カ月の収監の判決を下し、突然その労働者たちを刑務所に放り込むという卑劣なやり方で弾圧された。
 2013年6月にはILO(国際労働機関)でさえ、このような状況を見過ごすことができず、エジプトを労働者の権利を守らない最悪の国としてブラックリストに載せたほどである。
 そして2012年11月22日、ムルシ大統領は新たな憲法宣言を出し、「革命の防衛」という口実であらゆる法律や政令を無効にする権限を獲得し、司法も独裁体制下に置いた。
 このような労働者革命に対するムルシ政権の弾圧の強化とムスリム同胞団による利権の独占と労働者階級への矛盾の転嫁に怒りを爆発させた労働者階級は、全国各地で一斉にストライキ闘争の嵐をたたきつけて反撃に出た。2013年に入るとムルシ政権だけでなく、エジプトの資本家階級すべてを打倒する闘いへと決起し始めた。
 こうした状況下で、米帝は第Ⅰ章で見たように、軍部やムバラク派ブルジョアジーと共謀してタマルド運動を組織し、この「民主化を求める国民運動」を支援する軍部の介入という形をとって軍部のクーデターを演出した。米帝はムルシ政権を支持し続けるならば、ムルシ政権もろとも米帝のエジプト政策が崩壊しかねないことを恐怖し、クーデターでムルシ政権を打倒することでエジプト第二革命を阻止しようとしたのだ。
 他方、軍部は、ムルシ政権の下で特権の一部を奪われ、国防分野でもムルシ政権の介入と統制を強制された。またムスリム同胞団系の資本家に軍部の既得の経済的権益も侵食された。軍部にとってはこれは死活にかかわる問題であった。だからこそ軍は一方でムルシ政権と共同で労働者階級と対決する姿勢を明らかにしつつ、他方で、ムルシ政権成立以後、ムスリム同胞団の政権をクーデターで転覆する機会を虎視眈々と狙っていたのだ。軍部は、タマルドの組織した6月30日の巨大なムルシ政権打倒のデモの日をその決定的チャンスと見たのである。こうしてクーデターは米帝と軍部の利害が一致するなかで実行に移されたのだ。

軍部と米帝の対立の激化

 米帝は軍部の7月のクーデターに対し、口では批判的言辞を弄した。クーデター直後、オバマは「ムルシ大統領を退陣させ、憲法を停止したエジプト軍の決定を深く懸念する」との声明を発表し、ムルシや支持者を不法に拘束せず、民主的な選挙で選ばれた政府に早急に権限を移行すること、平和的な集会や自由で公正な裁判の権利を保障することをエジプト軍に求めた。
 だが、オバマはこの明白なクーデターを、けっしてクーデターと呼ぶことはなかった。アメリカには軍事クーデターで成立した政府への援助の停止を規定した法律があるので、エジプトへの援助を継続するためにそういう立場をとっているのだ。
 米帝はエジプトに対して毎年15億㌦を援助し、そのうち13億㌦(約1300億円)が軍に供与されている。この金によって米帝は軍の政治的支配を支えてきたが、クーデター後もこの援助を継続することを確認したのだ。
 クーデター後のムスリム同胞団に対する大量虐殺に対しても、米帝は批判はしたが、非難はしなかった。オバマは8月15日、秋に予定している米軍とエジプト軍の合同軍事演習を中止すると発表したが、米国がエジプト軍に供与している年13億㌦の軍事援助の停止については言及しなかった。
 米帝は暫定内閣の安定を図るために、従来から行ってきたタマルドに対する財政支援も継続し、挙国一致体制を強化しようとしている。さらには、米帝は湾岸の反動王政諸国にもエジプト支援を要請した。その結果サウジアラビアが50億㌦、アラブ首長国連邦が30億㌦、クウェートが40億㌦の支援を表明した。
 米帝は、米帝とイスラエルによる中東支配を支える決定的に重要な役割を果たしているエジプトを労働者革命によって失うことを回避するために、軍部にクーデターを起こさせ、暫定内閣を何がなんでも維持しようとしているのである。
 ところが、米帝は10月9日、エジプトへの軍事支援を広範囲に停止すると発表した。戦闘機、戦車など大型装備供与や、2億6000万㌦(約253億円)の資金援助も停止する。オバマ政権当局者によると、供与を停止するのは、F16戦闘機、M1A1エイブラムス戦車、ハープーン対艦ミサイル、アパッチ攻撃ヘリコプターだ。
 この動きは米政府が「確固たる民政移行に関する進展」が見られるまで軍事支援を凍結すると述べているように、軍部の労働者階級に対する強硬姿勢と軍部とムバラク派ブルジョアジーによる独裁体制形成への動きが、再び労働者人民の反軍部闘争を活性化させていることに対する恐怖の表れだ。米帝は援助の停止を恫喝手段として、エジプト軍部に早く民政移行を行わせ、反軍部闘争の爆発を抑制しようとしたのだ。

軍部のロシアとの接近

 これに対して軍部は、シナイ半島のイスラエルとの隣接地域での警備活動を縮小し、この地域で活発に活動しているイスラム武装勢力への牽制行動をサボタージュした。イスラエルはエジプト軍のこの行動が、イスラエルへの脅威を増大させるとして米帝に猛烈に抗議した。また、エジプトへの援助の削減は、アメリカの中東に対する影響力だけでなく、米・エジプト・イスラエル間の軍事同盟を弱体化させるとして、米帝のエジプト援助中断を強く批判した。このため米帝は再びエジプトへの軍事支援再開を検討するとともに、11月3日ケリー国務長官をエジプトに派遣し、エジプト軍部に軍事支援停止の真意について説明させた。
 ケリー国務長官はエジプトのファハミ外相と会談し、エジプトとの関係は「極めて重要」だと強調した。会談後の記者会見では、「オバマ米大統領と米国民はエジプト国民の味方だ」と述べた上で、軍事支援の凍結は「制裁」ではなく、「非常に小さな問題だ」と説明した。ケリーはこの措置はオバマ政権の意思ではなく、米の法律にのっとった議会の措置であるとも弁明した。要するに、軍事支援凍結はあくまでポーズであり、オバマ政権がエジプトとの関係を決定的に重視していることをあらためて明らかにしたのだ。
 にもかかわらず軍部と暫定政権の米帝への不信は解消せず、ロシアとの軍事協力関係の強化をちらつかせて米帝に軍事支援再開を強く迫っている。
 11月13日、エジプトはロシアのラブロフ外相とショイグ国防相のエジプト訪問を受け入れ、ファハミ外相とシーシー国防相が会談した。ロシア国防相のエジプト訪問は1971年以来初めての出来事だ。エジプトの報道機関は、この会談はエジプト・ロシア両国の緊密な経済的・軍事的関係を形成する歴史的会談であると報道した。
 この会談では、両国が「テロリズムや海賊」と戦うために共同軍事演習を行うことに合意し、両国の海軍と空軍の間で代表を交換し、協力関係を拡大することが確認された。
 その上で、ロシアはミグ29戦闘機、攻撃ヘリ、対戦車ミサイル、長距離射程防衛システムなど総額20億㌦の武器の売却を提案した。エジプト側は、シーシー国防相が「両国の軍事面での新たな建設的な実り豊かな協力が開始された」と述べた。ファハミ外相は「われわれはかつてのソ連との関係のような高度な関係に戻すことを望んでいる」と述べた。
 だが実際にはこの会談で何らかの武器供与協定が結ばれたわけではない。したがってエジプト軍と暫定政権のロシアとの接近は、米帝の軍事援助再開を強く要求する茶番でしかないが、このような会談が行われたこと自体は、米帝のエジプトとの関係が大きな危機に直面していることを示している。

シリア攻撃をめぐるアラブ諸国の動き

 エジプト軍部と暫定政権のこのような動きは、シリアへの米帝の侵略戦争策動とその破産をめぐって暴露された米帝の中東制圧力の極度の低下に対するアラブ諸国の支配階級の危機感と焦りをも象徴的に示している。
 米帝は2013年8月20日にシリアの首都ダマスカス近郊で起きた化学兵器による民間人の虐殺事件をシリア政府軍によるものと一方的に断定し、NATO諸国と連携してシリア政府弾劾声明を出し、シリア空爆を直ちに決定するために国連安保理の緊急会議の開催を要求した。米帝は国連調査団の調査報告も発表されていない段階で強引にシリア攻撃を開始しようとした。
 この時期に米帝がシリア攻撃を性急に追求した直接の原因は、ヒズボラがシリア政府の側に立って参戦したことで、シリアの反政府勢力が一挙に敗勢に立たされたからである。とりわけ、レバノンとシリアの国境地帯で反政府勢力が敗退し、レバノンからの補給路が切断されたことで反政府勢力は重大な危機に直面した。2013年に入ると政府軍は優勢になり、各地で反政府派の拠点を奪還している。
 こうした状況から脱却し、反政府勢力を立て直すためには米帝やNATO軍などによる空爆でシリア政府軍に大打撃を強制するしかなかったのである。
 その上で米帝は、このシリアに対する新たな侵略戦争を仕掛けることで、アサド政権を支援しているイランやレバノンのシーア派武装勢力ヒズボラなどに軍事的打撃を与え、この地域全体に対する米帝の軍事的制圧力を強化しようとした。

シリア攻撃の撤回

 シリア攻撃の準備は急速に進められた。地中海東部には巡航ミサイルを発射できる5隻の駆逐艦が配備され、アラビア海には戦闘機を搭載した空母2隻も待機した。ヨルダンとシリアの国境地域には米軍とヨルダン軍が集結した。イスラエル軍は予備役を召集し、ミサイル防衛態勢を強化してシリアからの攻撃に対する反撃体制を整えた。イスラエル空軍によるシリア空爆やシリアを支援するイランや、レバノンから派遣されているヒズボラ部隊に対する空からの攻撃の準備も完了した。シリア国内のアルカイダ系の諸軍事組織はシリア政府の施設、重要拠点、情報機関等に対する攻撃を準備した。トルコも国境付近に地対地ミサイルを増強した。こうしてシリア攻撃の準備は完了し、あとはゴーサインが出されるのを待つのみとなった。
 だが、シリア軍による化学兵器の使用という情報のほとんどが反政府勢力やネット情報などの不確実な情報であり、アサド政権やシリア軍がどのようにそれに関与したかについての具体的証拠は何も挙げられていないしろものであった。
 このため労働者人民のシリア攻撃反対の声に追いつめられたイギリス議会はシリア攻撃に関する政府動議を否決してしまった。8月28日、キャメロン首相は武力攻撃への参加を断念せざるをえなくなった。フランスでは、世論調査の結果64%の国民がフランスの軍事介入に反対であることが明らかになった。ドイツは不介入を表明し、イタリアもシリア攻撃には否定的態度を示した。中東諸国のうち、シリア攻撃を支持したのはサウジアラビア、カタール、トルコのみであった。国連安保理でもロシア、中国などが反対し、シリアへの軍事攻撃の承認は不可能になった。米帝は安保理の承認なしに単独でシリア攻撃に踏み切るしかなかった。
 しかし米国内でも、シリア空爆に反対する労働者人民の声が急速に高まっていった。こうしたなかで、8月31日、オバマは、軍事行動の正当性を議会に承認させようと最後のあがきを行ったが、この時点ですでに米帝のシリア攻撃の可能性はほとんどなくなっていた。議会内ではシリア攻撃に反対する勢力が多数派であったからだ。
 そもそも米帝は対中国と対日帝争闘戦の強化の観点からアジア重視の軍事体制に移行しつつあり、中東における新たな戦争に対応する能力を低下させていた。米帝単独では、シリアやイラン、ヒズボラなどとの戦争で必要となる膨大な戦力を投入することは極めて困難であった。
 結局、オバマは議会での決議採択先延ばしを要請する一方で、シリアの化学兵器廃棄を国連の管理下に置くとするロシアの提案を受け入れて米ロ合意を結び、シリア攻撃を回避する道を選択せざるをえなくなった。
 いったん決断した戦争をなし崩し的に外交的解決に転換したオバマ政権のこのようなジグザグは、米帝の中東制圧力が極度に低下していることを暴露し、その威信を全面的に低下させた。その結果、シリアおよび湾岸諸国において劇的な変化が起きている。

シリア反政府勢力の解体的危機

 まず何よりも米帝のシリア攻撃が行われなかったことによって、米帝に全面的に依拠していたシリア国民連合の影響力が急速に低下し、シリア反政府勢力の内部に重大な分裂が生じたことである。国民連合は、米帝の支援を得て2011年夏に亡命シリア人を中心として形成された国民評議会が、シリア国内の反政府勢力に影響力を持たず、政権の受け皿としては脆弱であることから、2012年11月11日に新たに創設された統一的反政府組織だ。米帝や湾岸の反動王政諸国の全面的支援を受けたこの組織は、これまでの国民評議会や自由シリア軍、ムスリム同胞団や地域連絡委員会などのシリア国内外の広範な反政府組織を結集した組織であった。しかし、この組織もシリア攻撃中止後に大分裂した。
 9月24日、2011年7月にシリア軍から脱走して反政府勢力に合流した自由シリア軍に所属していた13の反政府派民兵組織が、「シリア国民連合とアーメッド・トーメに代表される暫定政府はわれわれを代表しない」という声明に署名してアルカイダ系グループに合流した。10月には国民連合から離脱することを表明した反政府勢力は80団体に達した。
 自由シリア軍とアルカイダ系グループはこれまで協力関係にあった。だが、国民連合が米帝の軍事介入を引き出すことに失敗したことを契機にして、自由シリア軍内のイスラム勢力のかなりの部分が独力でもアサド政権を打倒し、イスラム政権を樹立するためにアルカイダ系グループとともに行動することを選択したのだ。この分裂によって自由シリア軍の戦力は急減した。
 他方、このアルカイダ系グループには、これらの民兵組織のほかに、イラクのアルカイダ組織であるアルナスラ戦線も合流し、急速に勢力を拡大した。
 この事件に先立って、アルカイダ系グループのひとつである「イラクとシリアにおけるイスラム国家」(ISIS)は、自由シリア軍に対する戦闘行動開始を宣言し、9月18日にはシリア北部のトルコとの国境の町アザーズで自由シリア軍と激しく交戦し、この町を占領した。
 10月3日には、同地でISISは、自由シリア軍の一翼をなし、シリア北西部に拠点を持つ「北の嵐大隊」という密輸や人質作戦で資金を稼いでいる地方軍閥と交戦している。両者の間の緊張関係は軍事的衝突にまで高まっているのだ。
 この過程で明らかになったことは、米帝がアサド政権打倒後の政権の受け皿としていた「穏健派」のシリア国民連合の勢力と影響力が急速に衰退したことである。たとえ米帝が軍事攻撃によってシリア軍を解体しても、彼らにはアサド政権に取って代わる力さえなくなりつつある。これらの勢力に対するシリア人民の支持もいまやほとんどない。
 軍事的力関係に関しても、シリア国内では、10月以降、反政府勢力の敗勢がいっそう顕著になった。とりわけ11月に入ると、長期間反政府派のイスラム民兵によって占領されていたダマスカス南部のフジェイラや、北部のシリア第二の都市アレッポの郊外の戦略的軍事基地をめぐる戦闘で政府軍が勝利したことは反政府勢力に重大な打撃を与えた。
 敗勢に追い込まれた反政府派イスラム民兵組織は、ダマスカス郊外などで非スンニ派居住地域に無差別砲撃を行い、学校やスクールバスまで攻撃してますます労働者人民の支持を失っている。

(写真 「イラク・シリアイスラム国」の武装部隊)

アルカイダの勢力拡大

 他方で米帝による統制のきかないアルカイダ系の武装組織が勢力を急速に拡大し、シーア派やアラウィー派の住民に対する宗派戦争を仕掛けて無差別的に虐殺したり、クルド人の居住地域に攻撃を仕掛けたりしている。アルカイダの目的は、アサド大統領の出身母体であるアラウィー派やシーア派との宗派戦争であり、イスラム国家の樹立だ。シリアの民主化や、ましてやシリアの労働者人民の解放は彼らの目的ではない。アルカイダのシリアでの軍事行動は、シリアの労働者人民を難民化させたり、虐殺や地域社会の崩壊をもたらすものでしかない。こうした勢力がシリア国内で力を持てば持つほど、シリア社会は宗派間戦争と内戦の激化のなかにたたきこまれるのだ。
 このような事態をもたらしたものこそ、米帝や反動王政諸国によるアルカイダへの資金や武器の供与であり、米軍やCIAによるアルカイダ民兵部隊の育成政策だ。
 米帝は、自由シリア軍やアルカイダを利用してアサド政権を弱体化させた上で、空爆を実施し、最終的にシリア国民連合を主軸として傀儡政権を樹立するという戦略を立てていたが、以上に見たような状況で、このような戦略は破産状態になっている。
 米帝がシリア攻撃の拠点に設定しているシリアの北部国境地帯で米帝の統制を離れたアルカイダが勢力を拡大し、自由シリア軍やクルドの武装勢力と激突していることは、米帝の対シリア作戦計画にとって大きな阻害要因になっている。

米帝の不安定化政策

 だが他方で、米帝はシリアでアルカイダが勢力を拡大し、政府軍や反政府軍との三つ巴の内戦の中にシリアがたたき込まれることを敢えて促進しようともしている。エジプト革命の影響を受けて2011年夏にシリアでアサド打倒の労働者人民の反乱が開始されたことに対し、米帝はアルカイダなどの介入を促し、シリア社会を分裂と混乱の中にたたきこむことで革命を防止しようとさえしてきた。軍事力でシリアを制圧することができない以上、米帝はこのいわゆる「不安定化政策」で革命を予防しようとさえしているのだ。
 たとえば、米帝やEU帝国主義が全面的に反政府勢力への軍事的支援を行ってカダフィ体制を打倒し、新政府を樹立したリビアでは現在、アルカイダなどのイスラム政治勢力や軍閥が割拠し、法によって制約されずに勝手気ままに行動している。その結果、政府は正常に機能しておらず、2013年10月10日にはゼイダン首相がイスラム民兵組織によって拉致されるという前代未聞の事件さえ起きている。
 さまざまの利権をめぐる軍閥間の衝突や、政府への攻撃、政府の役人の暗殺、政府軍と民兵組織の交戦などは頻繁に起きており、今日リビアはきわめて不安定な分裂状態にたたき込まれている。
 政府機能の麻痺と、民兵勢力による油田地帯の占拠が続くなかで、GDPの半分を占め、唯一の輸出品である石油の生産は2011年の米帝やEU帝の侵略戦争以前の10分の1に低下しており、労働者人民はどん底の生活を強いられている。
 米帝はリビア社会を敢えてこのような不安定な状態にたたきこむことでチュニジアとエジプトにおける労働者革命のリビアへの波及を阻止しようとしたのである。
 米帝は、軍事力によって制圧するのが困難な場合にはこの不安定化政策によって革命が不可避と予測される社会を混乱の極致にたたきこみ革命を予防するという政策を各地でとっているのである。
 米帝がこのような政策に訴えざるをえないことの背景には、やはり米帝がシリア攻撃を単独で実施する力を喪失しているという現実があるのだ。その意味では、不安定化政策は米帝の世界支配力と中東制圧力の低下を反映する政策なのだ。

サウジアラビアの危機感

 米帝がシリア攻撃を実施できなかったことに対し、サウジアラビアも、米帝の中東支配を揺るがしかねない独自の動きを開始している。
 サウジアラビアは、10月に入って、米帝が9月にシリア攻撃を撤回したことと、イランの核開発問題に関する国際討議に米帝が関与して外交的解決を図ろうとしていることに不満を表明した。サウジアラビアの支配階級は、米帝が軍事力によってシリア問題やイランの核開発問題を解決できないことに激しい焦燥感を表明し、米帝に対し、軍事力によって中東全体を支配する政策を強化することを要求しているのだ。それはサウジアラビアが、労働者人民の決起によって自国の支配体制がいつ打倒されるかもしれないという状況にあり、米帝が本気でそれを阻止しようとしているのかという危機感を強く持っているからである。
 サウジアラビアは、エジプト革命の際に米帝がムバラクを見捨てたばかりか、2011年のバーレーンでの王政打倒のデモ弾圧にサウジアラビア軍が出動した際に米帝がそれを批判したことに対して米帝を非難してきた。サウジアラビアは王政の安全に関わる問題に米帝が本気で関わらないのではないかという危機感を2011年のエジプト革命以後一貫して持ち続けてきたのだ。その危機感は米帝によるシリア攻撃の撤回ととともに一気に噴出した。
 サウジアラビアはこの間、今後は米帝とではなく、ヨルダンやフランスなどと協力して行動すると考えており、米帝との協力関係を後退させることを示唆している。具体的には米帝からの武器の購入や米帝への原油の販売を含む「広範な変動」がありうると示唆している。さらには、今後米国債や他のドル建て債権の購入も減少させることまでも示唆した。サウジアラビアは6900億㌦を外国に資産として保有しているが、その大部分がアメリカの財務省債権に投資されている。これがサウジアラビアによって引き揚げられたり、大幅に削減されたりすれば米経済に重大な打撃を与えることは火を見るよりも明らかだ。
 サウジアラビアはイランの核開発問題についても、11月にイランが核開発計画の停止を約束すれば、イランの制裁を緩和するという合意を米帝が結ぼうとしたことに反発し、イスラエルによるイランの核施設攻撃に全面的に協力することを表明している。サウジアラビアは、イラン攻撃にイスラエルが踏み切った場合、イスラエル軍の攻撃機のサウジアラビア領空の通過を許可し、空中給油機やヘリコプター、無人偵察機の提供も示唆している。

安保理非常任理事国のポストも辞退

 サウジアラビアは、10月17日に国連総会で選出されたばかりの安保理非常任理事国のポストを辞退することで米帝への不満を噴出させた。サウジアラビアは、シリアの化学兵器問題で国連がシリアに制裁を下さず、イランの核開発も外交的手段でコントロールするなどという生ぬるい措置をとっていることに不満を表明しているが、これは国連批判というよりも、米帝批判だ。サウジアラビアはこのような刺激的手段に訴えてでもオバマ政権への不信感を表明したかったのだ。
 以上に見たように、エジプト革命以降、労働者人民による王政打倒の危機に絶えずさらされているサウジアラビアの危機感はきわめて大きい。
 だからこそサウジアラビアは、アラブ首長国連邦とクウェートに呼びかけて3国で総額120億㌦もの援助(米帝のエジプトへの年間援助額13億㌦の9倍以上)をエジプトの暫定政権に供与し、第二革命の防止のために必死になってきた。
 米帝がこのサウジアラビアの危機感に応えることができないほど、中東の支配力を喪失していることが、サウジアラビアの支配者が悲鳴を上げざるをえない原因なのだ。

(写真 イスラエルによるシリア空爆【2013年4月2日】)

イスラエルの独自行動

 米帝がシリア攻撃を中止したことに対して、イスラエルも激烈に反応した。
 イスラエルは10月30日、シリア西部のラタキア近郊のシリア軍基地とダマスカス郊外のジャラマナに対して空爆を行った。この軍事行動は、シリア軍からレバノンのシーア派組織ヒズボラに輸送されるロシア製ミサイルの破壊が目的であった。イスラエルは、アサド政権が保有するロシア製やイラン製の高性能兵器や化学兵器などがヒズボラの手に渡り、イスラエルを脅かすことを警戒していた。この空爆は今年に入って4回目の空爆である。
 イスラエルは、イランの核開発を当面は外交的手段で管理するという米帝の方針にも不満を持っており、イランの核施設に対する独自の空爆作戦も具体的に検討し、空爆対象まで決めていつでも空爆できる態勢を整えている。
 このようなイスラエルの独断的軍事作戦は、米帝がシリアやイランに対する空爆作戦を実行する決断を下せなくなっていることに対する焦燥感の現われだ。イスラエルの凶暴化と独断的軍事作戦は、シリアやイランとの戦争を引き起こしかねないし、レバノンなどの周辺諸国を巻き込んだ広域戦争に発展する可能性さえある。米帝が中東を軍事的に制圧する力を失っていることで、このような予測不可能な戦争が勃発する可能性が増大しているのだ。
 だが、もちろんわれわれは米帝が中東を制圧する力を失っているからといって中東で戦争的手段に訴えることを米帝があきらめたというふうに理解してはならないであろう。確かに米帝は現在は不利な諸条件があまりに多すぎるため、外交的手段で時間稼ぎを行っているが、シリアやイランに対する軍事的手段による攻撃を完全に放棄したわけではなく、選択肢として保持し続けている。
 帝国主義は自らの権益が決定的に脅かされた場合、一定の有利な条件がそろわなくても、軍事的手段に訴えて石油資源などの既得権益を守ろうとする。エジプトでの第二革命を始めとするアラブ諸国におけるプロレタリア革命が新たな発展局面を迎えた時には、米帝はさまざまな形をとって中東地域に対する絶望的な軍事的介入に突進するであろう。
 われわれはこのような米帝の中東政策の凶暴化を徹底弾劾する。そして、今こそ、エジプトを始めとする中東諸国の労働者人民とともに、米帝の中東支配を根底的に打倒する、世界の労働者の国際連帯の闘いを実現することを呼びかける。