新たな天皇制攻撃粉砕を ヒロヒトの戦争犯罪は消せない

週刊『前進』04頁(3400号03面01)(2025/06/16)


新たな天皇制攻撃粉砕を
 ヒロヒトの戦争犯罪は消せない


 硫黄島、沖縄に続き広島、長崎にも行われようとしている天皇の「戦没者慰霊」と称する訪問は、天皇の戦争責任をなかったことにして、天皇と天皇制国家のもとに再び全人民をひれ伏させ、新たな戦争―中国侵略戦争に向けた「挙国一致」をつくり上げるための政治的策動にほかならない。だが、この攻撃は、再び天皇を国家の頂点に押し上げる以外に新たな侵略戦争もできず、国内統治も維持できない日帝支配階級の最大の弱点を示すものだ。血の文字で歴史に刻まれた天皇の戦争責任・戦争犯罪を今こそ徹底的に暴露し、断罪しなければならない。

「大元帥」として軍に指揮・命令

 戦前の天皇は大日本帝国の唯一最高の統治者、陸海軍の「大元帥」=最高指揮者であり、軍への指揮・命令は天皇とその直属の軍令機関(大本営、陸軍参謀本部、海軍軍令部)の絶対的な専権事項とされた。軍部が先走って戦争を開始した場合でも、天皇が裁可し推進することなくしては戦争の継続は不可能だった。
 とりわけ1931年9月18日の柳条湖事件に始まる中国東北部侵略戦争(満州事変)から45年8月の第2次大戦終結に至るまで、足掛け15年にわたって日帝が行ったすべての戦争における、昭和天皇ヒロヒトの極悪の戦争犯罪人としての責任は明白である。中国侵略戦争は、直接には陸軍の出先機関である関東軍の謀略で始まったが、ヒロヒトは独断で軍事行動を始めた現地の司令官らを一切とがめず、そればかりか32年1月8日に発した「勅語」で関東軍の行動を「自衛の必要上」「匪賊(ひぞく=強盗や盗賊)」を討伐したものと断定し、「皇軍の威武を中外に宣揚せり」と絶賛した。天皇が公式に「皇軍」という言葉を使ったのはこれが初となる。中国侵略戦争は天皇の名で「自衛」という大義名分を与えられ、これへの疑問や批判は一切許されなくなり、日本軍のあらゆる残虐行為が「匪賊討伐」として正当化されることとなった。
 37年7月7日の盧溝橋事件から日帝の侵略戦争は中国全土に拡大、同年11月には大本営が設置された。以後、陸軍・海軍への軍令は天皇自身の命令として「大陸命」「大海令」と呼ばれるようになり、敗戦までに発令された大陸命・大海令はそれぞれ1392件・361件にのぼった。
 41年12月の太平洋戦争開戦も、やはりヒロヒト自らが参加する「御前会議」で決断し、自らの名で対米英宣戦の「詔書」を発し、戦争完遂を命令した。そして自ら戦況を把握して作戦を指揮し、戦況が悪化するとしきりに陸海軍を叱責(しっせき)するようになる。例えば、43年5月にアリューシャン列島アッツ島守備隊が米軍の攻撃で全滅した際には「こんな戦をしては中立、第三国は動揺し支那(しな=中国への蔑称)は調子に乗り、大東亜共栄圏諸国に及ぼす影響は甚大である。何とかしてどこかの正面で米軍をたたきつけることはできぬか」(6月8日)と迫った。以後、ヒロヒトは同様に「どこかであと一撃」を連呼するようになり、これが軍に無謀極まる「玉砕」を繰り返させることになった。そして「国体護持」の観点から戦争の早期終結を求めた45年2月の元首相・近衛文麿の上奏文に対しても、「もう一度戦果を挙げてから」と一蹴し、それから沖縄戦、東京など各都市への空襲、広島・長崎への原爆投下、ソ連軍満州侵攻を経て8月に至るまで天皇自身の意思で戦争を継続した。

アメリカに沖縄を売り渡し延命図る

 敗戦後、ヒロヒトは、連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサーにすがりつき、アメリカ帝国主義の対日占領政策にとっての自らの利用価値を積極的に売り込むことで、極東軍事裁判(東京裁判)での訴追を免れて延命した。そして47年9月のGHQへのメッセージで、「米国が25〜50年ないしそれ以上の長期にわたり沖縄を軍事占領し続けることを希望している」と伝え、沖縄を売り渡した。
 75年10月31日、米国訪問を終えて帰国したヒロヒトは、記者会見の場で「いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか」との記者からの質問に対し、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」と述べた。さらに、同じ記者会見で「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています」と発言した。
 自らの戦争責任を生涯認めず、問われれば「言葉のアヤ」とはぐらかし、原爆投下は「やむをえない」と言い放ったヒロヒトを断じて許すことはできない。だが、2018年8月に発見された元侍従・小林忍の日記で、晩年のヒロヒトは「長く生きても戦争責任のことを言われる」(1987年4月7日)と吐露し、戦争責任追及の声に脅えきっていたことが明らかになった。これに小林は「(戦争のことは)歴史の一こまにすぎない」と言ってなぐさめたというが、アジアと日本の人民はかつての戦争とその最大の戦争犯罪人ヒロヒトを未来永劫(えいごう)許すことはないのだ。
 新たな天皇制攻撃を粉砕し、米日帝の中国侵略戦争を阻む反戦闘争の巨大な爆発をかちとろう。


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昭和天皇ヒロヒトの発言
満州において事変の勃発するや自衛の必要上関東軍の将兵は......各地に蜂起せる匪賊を掃蕩し......皇軍の威武を中外に宣揚せり。朕深くその忠烈を嘉(よみ)す(1932年1月8日の勅語)
大日本国天皇は......汝(なんじ)有衆に示す。朕ここに米国及び英国に対して戦を宣す。朕が陸海軍将兵は、全力を奮て交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は、各々その本分を尽し、億兆一心、国家の総力を挙げて、征戦の目的を達成するに遺算なからんことを期せよ(41年12月8日、宣戦の詔書)
(国体護持を含む講和は)もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思う(45年2月、近衛上奏への解答)
原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っていますが、こういう戦争中であることですから、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないこと(75年10月31日の記者会見にて)

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