西田よ、戦場の血の泥水を飲んでから言え 辺野古に座り込む 島袋文子さんに聞く

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週刊『前進』04頁(3399号03面03)(2025/06/09)


西田よ、戦場の血の泥水を飲んでから言え
 辺野古に座り込む 島袋文子さんに聞く

(写真 島袋文子さん 辺野古在住、96歳。16歳で沖縄戦を体験する。1997年以来、辺野古新基地反対運動を闘い続けている。)

(写真 辺野古の米軍キャンプ・シュワブのゲート前に座り込み、資材搬入を実力阻止【5月19日 名護市】)


 5月19日、全国から集まった労働者・学生・女性が名護市辺野古のゲート前での座り込みに合流、総勢400人の団結した力で工事車両の搬入を阻止した。その場から改憲・戦争阻止!大行進沖縄の和田邦子さんの案内で、辺野古集落の島袋文子さんを訪ねた。「工事車両は全く来ない、警察も右翼も来ない。完全勝利です」と和田さんが報告すると、島袋さんは「あら、すごいねえ」と満面の笑みで応えてくれた。96歳になった島袋さんは、辺野古の最長老として頻繁に基地の前のテントやゲート前の座り込みに車いすで駆けつけ、基地建設を阻んでいる。
 インタビューの冒頭、島袋さんは「新聞で見てる。日本軍は沖縄人を殺してないというのか! 西田というやつが、ひめゆりのこと言う権利はない。言いたいなら戦場に出て、ウジ虫の湧いている水を飲んでから言いなさい、どんな味がするか。私たちは、人が死んだ血の泥水を飲んで生かされてきたんだからね。絶対に許さないよ」と力を込めた。

天皇はどの面下げて沖縄に来るか

 私は目の前で子どもが死ぬのを見た。日本軍が、民間の壕(ごう)に逃げてきて隠れて、子どもが泣いたら、アメリカが来るから口にタオルを押し込めと母親に言った。どこの親が自分の乳飲み子に、泣くからと口にタオルを押し込めるか。その母親は子どもを抱いて壕から出たが、爆弾の破片で親子とも亡くなった。こういうことしてさ、日本軍が沖縄住民を殺してないって言えるか。
 ----フミさんも火炎放射で焼かれて、死にそうだった?
 (ケロイドが残る肩を出して)見てごらん。私の半身は全部これ、死ぬところだった。西田はなんで今ごろ、ひめゆりを批判したり、沖縄人を殺してないと言うのか?
 ----また戦争をやる気だから。
 私もそう思う。絶対二度と沖縄でね、血の雨を降らすようなことをやってはいけない。沖縄だけじゃなくて、どの国ででも。
 誰が何のために戦争をやるのか。日本は、あんな大きなアメリカに負けたんじゃないの。(県民12万人という)それだけの人の命を落とさせたのは、誰だと思う? 昭和天皇がやったんだ。日本本土に戦争が来ないように、もう少し沖縄で戦争を長引かせなさいと言ったのが昭和天皇。謝罪の一言もしないで死んでいった。
 だから、今の天皇が、子どもや孫であっても沖縄に対して謝罪一つしないのは、私はおかしいと思う。天皇が、自分の命と引き換えに沖縄をアメリカにやったでしょ。やった後、いまだに沖縄はどうなっているの? 天皇は今度も、どの面下げて沖縄に来るのか。
 80年前も「沖縄を守る」ということで兵隊が来た。守らなくてもいいから、自衛隊も来ちゃいけない。軍がいなかったら戦争はないんだから、あるがゆえに戦争をする。だから八重山にもどこにも自衛隊基地もいらない。撤去してほしい。

親子3人、死体をまたいで糸満へ

 ----フミさんは、ずっと山原(やんばる)にいたんですか?
 私は生まれ育ちは糸満。東風平(こちんだ)にあった母の実家に避難していた。戦争がひどくなっておじさん、おばさんが「私たちは真壁(まかべ)に移動するけど、あんたたちはどうするの?」と言う。私の母は目が見えないし、16歳の私が母と10歳の弟を連れて移動するなんてとてもできない。「どうぞ、行ってください。元気だったらまた会えますから」と別れたけれど、おばさんたちは喜屋武(きゃん)岬で命を落とした。
 残された私たちは、同じ死ぬんだったら糸満に行って、父の眠っているお墓の中で死のう、と。普段だったら東風平から糸満まで子どもの足でも1時間で行けるけれど、昼間は艦砲射撃が来るでしょ、その間を抜けて、一晩かけて行ったわけ。
 逃げるのも簡単ではなくて、死人の上をまたいで歩くもんだから、弟は歩かしても、母には、いちいち「ここ死体ですよ」とまたがせながら歩いて、一晩では糸満に着かない。岩の下に親子3人座って、翌日まで待とうということになった。そこで弟が「水飲みたい」と言ってね。おなかはすくし、のどが乾いて。いつも母から「夜光って見える所は水があるよ」って言われていたわけ。岩から出てみたら、光っている所がある。そこに行って、自分で飲んでから、ツワブキの葉っぱでコップを作って、何回も歩いて、親にも弟にも水を飲ませた。
 翌朝早く、飛行機がまだ飛ばないうちに、少しでも糸満に近い所まで行こうと、行く前にもう少し母と弟に水を飲ませてから行こうと、振り返ったら、そこに死んだ人が浮いているわけ。
 その人の死んだ、血の泥水を飲んで生かされた。それは戦後、弟が死ぬまで、母が死ぬまで、一言も「ああだったよ」とは言えなかった。

8歳で子守奉公、教科書を焼かれ「約束が違う」

 ----そうして糸満にたどり着いたんですね。
 父が亡くなったのは、私が8歳の時でした。小学校1学期で私は学校行けなくなったわけ。自分が働かないと、弟も目の見えないお母さんもご飯が食べられないでしょ。
 ----8歳で働いたの?
 想像してごらん! 子どもに何ができるか! 子守奉公以外に何の仕事もできないでしょ。
 雇った人に教科書を持って行っていいかと聞いたら、その人は「子守しながらならいいよ」って。それで教科書を持って行ったけど、私を雇った人のお父さんが、「人に雇われた人間が学問をする必要はない」と言って、教科書を全部かまどに入れて燃やしてしまった。それで私は約束が違うって、糸満に逃げ帰って、約束が違う、絶対戻らないと。
 私は子守奉公に20歳まで80円で売られていたわけ。学校に戻ってもみんなは2年生、落第生といじめられて学校もだめ。また自分で探して子守奉公に行った。お金で困って、小さい時から哀ればっかり。
 ----大変でしたね。
 生き延びたのは、根性が悪かったんじゃないの。強情っぱりはいまだに直らないもんだけどね。これから先、どこまで生きられるか知らんけど、目標は100歳。その先は生きられるだけ生きる。問題は100歳まで生きて、どれだけ人のためにできるかどうかが問題であるわけ。
 ----辺野古の座り込みでものすごく人のためになっています。
 どんなかね? でもまた戦争が始まるかもよ。私はそう思っている。辺野古も戦争の前触れ、できもしない軟弱地盤を埋めて飛行場を造ろうとやってるさね。沖縄住民全部そろって政府まで行って抗議して、止めないといけない。 
 ----沖縄の離島から12万人を避難させるという計画、そして沖縄本島は避難もさせずに自宅待機だと。
 何を言ってるの。昔も避難させたけど、食料はない、ヤマトは寒いし、とても苦労した。八重山ではマラリアの土地に移動させたでしょ。糸満からは山原に移動させたけど、食べ物はないしとても苦労した。戦争は、絶対やってはいけない。

避難した壕を火炎放射で焼かれて

 ----避難していた糸満の壕で米軍から火炎放射を受けたんですね。
 壕の中には、何家族かいたわけ。アメリカが「出て来い、出て来い」って言うけど、誰も出ていく人がいない。それで鉄砲を撃ち込まれて、うちの兄貴はお尻に貫通した。
 それでも誰も出ていかないから、火炎放射で火攻めされたわけ。「アメリカに捕虜にされたら、女は辱めを受ける、男は裸にして戦車でひき殺す」と日本軍に言われていたから、死んだほうがましと思ったけど、とてもじゃないけど火の中では息ができない。それで外に出たら、アメリカ兵が銃を構えていた。
 弟は母がかばっていたから無傷だったが、その代わり母は背中の皮がむけ、だらだらになるまで焼けたのよ。兄貴もお尻に弾を受けていたけれど、アメリカは、けがをしている人はすぐに野戦病院に運んだわけ。そこで命拾いしたの。あんなにけがしていたら、日本軍だったら見捨てはしても、助けなかったと思う。
 ----その後、離れ離れになったお母さんと弟とも苦労の末に再会できたのですね。苦しい体験をお話しいただきありがとうございました。
 最後に、若い人たちにメッセージをお願いします。
 人間の血の雨を見るのは、一度だけでいいから。いかにすれば戦争をしないで済むか、どうすれば犬死にしないで済むかということを、今の若い人たちに考えてほしい。
 どういう人間を政治家にしたらいくさになるのか、いくさを止めることができるのか。それを考えて投票しないといけない。今の石破総理も役に立たない人間だと私は見るけどね。そういうことを昔は口に出せなかったわけ。だけど今は、もの言える住民になっているのだから、恐れず、総理であっても首根っこつかんで引きずり降ろさなきゃいけない。
 もう二度と血の泥水を飲まないようにしないとね。許せないことは、誰でも許さない。口で言う、態度で示さないとね。
(聞き手、編集局)

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