許さんどー戦世(いくさゆー) 沖縄からの声 再録 戦場がどれほど悲惨か、沖縄戦の真実伝えたい 元ひめゆり平和祈念資料館館長の証言
許さんどー戦世(いくさゆー) 沖縄からの声 再録
戦場がどれほど悲惨か、沖縄戦の真実伝えたい
元ひめゆり平和祈念資料館館長の証言

本紙に掲載したシリーズ「許さんどー戦世」からひめゆり証言者・宮良ルリさんのインタビュー(2002年7月15日付2061号、抜粋)を再録します。「復帰30年」の沖縄では小泉政権の有事立法攻撃に対し「戦争はダメ!有事3法案の廃案をめざす県民大会」が開かれ、怒りの声が巻き起こっていた。(編集局)
----宮良さんは、「ひめゆりの塔」の壕(ごう)の生存者のお一人です。1945年6月18日突然、部隊解散命令があり、翌19日未明に壕を脱出しようとしていた時に米軍に包囲され壕にガス弾を撃ち込まれた。
「生きていたか!」
ひめゆりの壕は第三外科壕でした。あの時、壕の中には96人がおりました。そのうち11人が助かった。学徒隊が5人、看護婦が5人、そして住民が1人です。私はその時なぜ自分が生き残っていたのか、分からないんです。
死体の下敷きになっていて、首をもたげたのを、先に生き返っていた引率の玉代勢(たまよせ)先生が「生きていたか!」と引き寄せてくれた。「水、水」という私に岩しずくを脱脂綿で吸い取って、私の唇に含ませてくれました。そのまま3、4日ほど壕の中で過ごしました。見ると地面が真っ白。真っ白い花が咲いたと思ったら、それは全部ウジでした。
死臭で臭くて耐えられませんでした。壕を脱出することになり、足をケガした安谷屋(あだにや)さんと組んで板はしごを登りました。壕周辺は美しい琉球松林だったのに、焼き尽くされていた。匍匐(ほふく)前進でしたが、腐った死体にさわってしまうと手がぶくっと沈むんです。
時間の感覚はなく、方向も見失ってしまい、とうとう米軍に見つかってしまった。いよいよ最後だと、安谷屋さんが持っていた手りゅう弾の信管を抜いて、二人の間の地面にたたきつけました。でも不発でした。死ねなかったことがとても恥ずかしかった。
豊見城(とみぐすく)の仮収容所に着くと、誰が助かったのか、皆がトラックに寄ってくるんです。その中に女子師範の人が3人いました。それで捕虜は私一人だけでなかったとほっとしました。
収容所で最低限の衣食住を与えられ、それからです、「出て来い、出て来い」と米軍に言われた時に出ていけば、みんな死なずにすんだと分かったのは。
私たちは命を捨てることは教わったけれど、命の尊さ、大切さは知らなかった。沖縄は戦争で命を失った代わりに、たった一つ命が一番大事だということを知ることができたんです。
----同じ石垣出身で師範学校の宮良英加(えいか)さんは、現地入隊が決まった壮行会で「戦争のない時代に生まれたかった」と。
私は、国のために死ぬのは当然のことじゃないかと、師範学校の優秀な男子生徒がね、こんなことを言うのかと憤慨したんです。
----でも亡くなられた。
そうです。負傷して陸軍病院に運ばれて来た。右手を切断することになった。右手切断ぐらいは治るんですが、ガス壊疽(えそ)菌に冒されて、最後は石垣の方言で「あっぱー(お母さん)、あっぱー」と言って亡くなったと聞きました。
----師範学校は官費なんですか。それを理由に疎開が阻止されたんですか?
「スグ帰校セヨ」
44年の7月に「戦争になりそうだから、もう学校に戻らなくてもよい」と言われて帰省しました。家では「台湾にでも疎開しようか」などと話していたんですが、9月になると学校から「スグ帰校セヨ」との電報が何度も届いたのです。
師範学校は官費でした。私たちは国からお金をもらって学校に通っていたのです。1カ月25円、私たちの時から急に支給額がふえた。もし学校に帰らなければ、お金を返さなければならない。父亡きあとの母一人の力では返せるわけがありません。何より教員免許が、卒業証書がもらえないと、そう言われたもので。
あの当時であっても、戦争は絶対やっていけないという人はいたと思うんですよ。だけどもメディアは規制されるし、ことに憲兵隊がおりますでしょ。がんじがらめの社会だったんです。今度の有事立法も罰則が付くから、ものが言えないようになるんです。そうして戦争に放り込まれていくんです。
教え子に戦争語り
戦後、小学、中学で教えましたが、すぐには戦争体験を話すことはできませんでした。何年かたって、教え子たちが戦場とはどういうものか、どれほど恐ろしい悲惨なものであるかを知らないから、少しずつ話し始めました。歴史の真実を教員であれば教えることができる。真実を言える社会をつくらんといけない。
ひめゆり平和祈念資料館ができたのは89年6月23日です。ここでは一日3人で交代して話をしています。
私は「命(ぬち)どぅ宝〔命こそ宝〕」という言葉を知らなかったんです。国のため天皇陛下のためなら命は惜しまない、桜の花がぱっと咲いてぱっと散る。そのいさぎのよいのが大和魂であり、大和なでしこはそうでなければならないと教え込まれ、信じ込んでいました。
----若い人たちに一言。
当時は1938年に国家総動員法がつくられ、戦争への道を歩み始めました。有事法制案は、戦争に国民を巻き込もうとする法律のように私には感じられる。どうしても阻止しなければいけない。
戦争は勝っても負けてもけっしていいことはない。日本がしかけた戦争で沖縄でもアジアでも罪のない人たちが殺された。二度とこういうことをしてはいけない。仲良く手をつないでいかなきゃなりません。みんなが安心して住める社会をつくっていくためには真実を学ぶことです。歴史から学ぶことなんです。
小泉首相は「備えあれば憂いなし」とか言うけれど、備えある所が攻撃されたんです。慶良間列島では集団自決がありました。ところが慶良間列島の前島には基地がなかった。だから爆弾一発も落とされなかったんです。基地がない所には絶対に敵は来ません。
今の若い人たちはパソコンのゲーム感覚でいるのかしら。ゲームでは撃たれても生き返ってきますよ。でも人間は死んだらおしまい。戦争では多くの人を殺すんです。一般の世界で人を殺したら殺人罪、戦争だって殺人罪なんです。
今声を上げて有事法制反対と叫ばなければならない時なのです。国民が反対の声を上げなければ、日本は戦争への道を歩むことになると思います。
(聞き手・永田朋実)
--------------------------------------------------------------------------------------------------
◎沖縄戦に動員された学徒
44年12月、日本軍と沖縄県学務課は中等学校生徒戦場動員計画を作成。沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校を始め、県下の13~20歳の女子生徒391人を45年3月以降、戦場に動員。少女たちは負傷兵の看護から死体処理まで献身的に働いたが、日本軍は6月18日に解散命令、投降を許さず米軍包囲下にほうり出した。ひめゆり学徒と職員は計219人が死亡した。
また、師範学校男子部や中学校の男子生徒は1780人が「鉄血勤皇隊」や通信隊として動員され、890人が犠牲になった。
--------------------------------------------------------------------------------------------------
宮良ルリさん
1926年8月16日、石垣市生まれ。41年沖縄県女子師範学校入学。45年3月23日、ひめゆり学徒隊として南風原陸軍病院に配属。戦後は石垣市で教職。ひめゆり平和祈念資料館運営委員・証言員、2010年6代目館長。21年8月12日逝去、享年94
