安保・沖縄闘争の爆発で日帝倒せ 日米安保=侵略戦争同盟粉砕を 4・27渋谷-5・15沖縄闘争へ
週刊『前進』04頁(3390号03面01)(2025/04/07)
安保・沖縄闘争の爆発で日帝倒せ
日米安保=侵略戦争同盟粉砕を
4・27渋谷-5・15沖縄闘争へ

(写真 1971年11・14渋谷闘争。全学連、反戦青年委員会と共に数万の民衆が道玄坂で機動隊と対峙し、実力で闘った)
3月29日に都内で、昨年に続き3回目の「反戦学習討論集会」が「安保・沖縄闘争論」をテーマに行われた。中国侵略戦争の切迫の中、集会は4・27渋谷デモ―5・15沖縄闘争に向けて新たな仲間を迎えて成功をかちとった。集会で革共同東京都委員会の深田力同志が行った基調講演の要旨を紹介します。(編集局)
アジア―日本の戦後革命圧殺し日米安保体制確立
今、日米安保同盟についてキャンパスや職場、街頭で徹底討論になるかというと、あまりそうではないと思います。日米安保が粉砕対象であるという政治党派は、少なくとも国会内にはゼロです。だから、当たり前のようになっている。なのでまず、日米安保がいかに巨悪であるかをはっきりさせる必要があります。第2次世界大戦は、一方における米英仏と、他方における独日伊という帝国主義ブロック同士の争闘戦にソ連も巻き込まれ、世界戦争となりました。
アメリカ帝国主義が第2次大戦の最終局面でやろうとしたことは、①帝国主義本国、特にドイツと日本における戦後プロレタリア革命を止めること、②植民地人民の民族解放闘争を帝国主義的戦後処理の枠内に収拾すること、③ソ連スターリン主義に対抗すること、そして④これらすべてを通じて、米帝基軸の戦後帝国主義世界体制をつくることです。
ソ連は、この過程の中で自らのスターリン主義的利害を一定認めさせようとして、労働者人民の闘いにとって最悪の裏切りを行いました。たとえば1928年の「社会ファシズム論」でナチスよりも社会民主主義勢力と闘った。ナチスが政権奪取すると、あわてて「人民戦線戦術」という形でブルジョアジーの一部とも連合してファシズムに対抗する。しかし39年には「独ソ不可侵条約」でナチスと手を結び、独ソ戦が始まれば米英の側に立った。革命を裏切り、とんでもないジグザグを繰り返しながらソ連の延命のために国際階級闘争を引き回した。
その歴史の上に米帝は、ドイツ東西分割と東欧の緩衝国化を条件にソ連の「協力」を取り付け、47年のトルーマン・ドクトリンやマーシャルプランという形で西欧帝国主義の復興に踏み出す。ソ連は、自らの延命のために東欧を勢力圏として「共産化」し、米帝を基軸とした帝国主義戦後世界体制に対してスターリン主義を存続させようとします。こうして、戦後革命は収拾されたかのようになります。
しかし、アジアで革命が大爆発していった。その頂点が49年の中国革命です。蒋介石・国民党政権のもとで米帝の勢力圏になるはずだった中国を、中国共産党がひっくり返す。さらにベトナム人民がホーチミンを先頭に立ち上がって、フランスをたたき出す。中国とベトナムを頂点として、アジア全域にすさまじい戦後革命の嵐が吹き荒れたことに対して、米帝は重大な方針転換をします。その最初の発動が50年の朝鮮戦争でした。米帝は超軍事的な帝国主義アジア支配体制構築に乗り出し、その中核としての日本の軍事的・兵たん的役割を期待した。日本帝国主義は、この米帝の方針転換を全力で支え、米帝の世界支配の一環として自らを帝国主義的に再建する基本政策を採用します。
こうして、いわゆる「逆コース」が進みます。戦前の治安維持法を引き継ぐ団体等規正令が49年に発布され、レッドパージが始まる。朝鮮戦争下で自衛隊の前身・警察予備隊が発足し、51年9月のサンフランシスコ講和条約とともに日米安保同盟が成立します。
ここに日帝と労働者人民との間に憲法9条を焦点とする非和解的対立が生まれ、戦後日本の政治を規定する対立点となったのです。日米安保は帝国主義の戦後支配と戦後革命の激突の中で生まれ、日帝が延命するならば日米安保しかなかった。日帝はアジア全域での民族解放・革命戦争をたたきつぶす反共のとりでになることを決断して日米同盟に踏み出したのです。その最大の実体は米軍が沖縄を支配することでした。
まとめると、①米帝の圧倒的力量を基礎とした帝国主義戦後世界体制ができる、②その中で反帝民族解放闘争が爆発してアジア植民地支配体制が危機になる、③韓国や台湾、南ベトナムのような米帝の超軍事的アジア支配体制の構築の中で、④日帝は戦後革命の圧殺と引き換えに労働者人民への妥協を行い、⑤米帝占領軍の力を背景に治安弾圧と再軍備に踏み出し、⑥日米安保を再建のために必要不可欠な政策として採用した、ということです。
労働者階級との関係で、日本が本格的な軍隊を持つことはありえなかった。だからアメリカの戦争を全力で支え、日本の国土を基地として差し出す。その中で帝国主義として再建を果たす。これが日米安保でした。日本帝国主義の実質は日米安保体制にあり、安保粉砕は日帝打倒なのです。それは米帝と仲良しということではなく、日米貿易摩擦のように激しく対立もする。しかし、日帝は死活的に安保にしがみつかざるをえない関係にあります。
「連帯し、侵略を内乱へ」切り開いた70年安保決戦
安保条約改定の動きに対して60年安保闘争が大爆発しますが、敗北します。安保を粉砕するためには日帝を打倒しなければならないと総括し、革命的共産主義運動が本格的に始まっていく。革共同は70年安保・沖縄闘争をどう闘ったのかを振り返りたい。そもそも70年安保・沖縄闘争は、ベトナム反戦闘争から始まった。有名な67年10・8羽田闘争は、当時の首相の佐藤栄作がベトナムに行くのを阻止するための実力闘争でした。日本がベトナム侵略戦争に基地を供与する形で参戦することに真っ向から反対して、全学連を先頭に闘いをつくっていった。単純に70年安保だからということではなく、まずベトナム反戦闘争があり、その上で70年安保をどう闘うかが問われました。
その中で安保問題=沖縄問題だとつかんだ。60年安保闘争では沖縄はテーマになかった。本土の闘いの中に沖縄が位置付いてこなかったことを、革共同は68年に自己批判します。沖縄人民の基地の島への怒りが本土復帰要求として表現され、日帝はあたかもその要求をのむかのようにして、沖縄の願い=「基地のない沖縄」を踏みにじろうとしている。この現実を打破することを誓った。そして沖縄の現実こそが日米同盟の最大実体であり、同時にその最大の矛盾・弱点だと暴き、本土人民の側として「基地撤去・永久核基地化阻止」の意志をこめて「沖縄奪還」を掲げ、「安保粉砕・日帝打倒」の路線を結合して「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」をスローガンとして、革共同は70年安保・沖縄決戦を闘った。
70年安保・沖縄決戦は同時に「日帝のアジア侵略を内乱に転化せよ」というスローガンを掲げ、国際階級闘争の高揚の中で戦後最大の大衆闘争として爆発的に発展しました。それは日本革命の現実性を開示し、「連帯し、侵略を内乱へ」の闘いの原型を切り開いた不朽不滅の闘いです。この路線は、今こそ問われていると思います。
われわれは中国侵略戦争阻止闘争を安保と沖縄をめぐる内乱的闘いに発展させなければならない。どれだけ矛盾があろうと、米帝は安保と沖縄を使って日帝を中国侵略戦争にフルに動員しようとする。日帝もどれだけの困難があっても、それをテコに戦後の制約をすべて突破しようとしている。その矛盾を徹底的に突くことが必要です。そのうえで、沖縄現地の闘いの重要性はますます高まっています。いま沖縄を含む南西諸島(琉球弧)がミサイル基地化・軍事要塞(ようさい)化されている。ここに戦争の現実がある。中国侵略戦争阻止闘争の成否は、本土―沖縄を貫く沖縄闘争の爆発にかかっています。
日米安保の矛盾の集中点=沖縄こそ革命の火薬庫
今、中国侵略戦争情勢の中で沖縄県民の怒りは充満している。戦争を必要とする帝国主義の基地の存在そのものを否定しない限り、とりわけ沖縄においては人間が人間らしく生きていくことすらできない現実がある。その最大の矛盾の集中点は米兵による性暴力です。まさにこれが侵略戦争に突き進む帝国主義の腐りきった現実です。綱紀粛正で解決する問題ではない。歴史的に見れば、沖縄戦――住民を動員した凄惨(せいさん)な地上戦があります。日帝がとりわけ天皇制の延命のために沖縄を犠牲にし、軍隊のみならず住民を大量に犠牲にした現実が厳然としてあるのです。米帝の対日戦後処理指針は、①日帝の完全非武装化、②天皇制の存続、③沖縄の分離・軍事拠点化でした。これに飛びついたのが昭和天皇ヒロヒトです。ヒロヒトは前述した趣旨の米占領軍の声明が出た47年9月に、側近を通じて米占領軍に「米国による25年から50年ないしそれ以上の長期にわたる沖縄の軍事占領を希望する」「日本に潜在主権を残したままでの長期租借の擬制」をとって「(基地の使用手続きは)日米2国間条約によるべき」と後の日米安保につながる内容のメッセージを送っています。この79年に発見された「天皇メッセージ」では、さらに鋭角的に「沖縄の提供・供与は共産主義に懸念を感じている日本国民の賛同を必ず得られる」とも言っている。共産主義と対決するために日米安保を結び、沖縄を売り渡したのが天皇だったのです。
米帝は同時期に、アジア全域に反共軍事同盟の網を張り巡らせています。その真ん中に沖縄がある。だから米軍は沖縄を「要石(キーストーン)」と呼んでいた。そういう位置を持っていたのです。しかし米軍支配に対する沖縄人民の闘いが高揚し、これに追い詰められた日帝が60年代後半に「沖縄返還」を打ち出す。
革共同はこの過程で沖縄の闘いに肉薄し、沖縄闘争を70年安保闘争の最大課題として闘うと決断した。沖縄こそ安保の矛盾と犠牲の集中点であり、労働者人民の怒りの集積点=「革命の火薬庫」であり、その爆発の中に日帝打倒・日本革命勝利の道があると訴え、69年4・28沖縄デー闘争では初めて全学連だけでなく反戦派労働者が武装して街頭に登場したのです。
沖縄においては全駐留軍労働組合、とりわけ全軍労牧港支部青年部=牧青という形で沖縄労働者階級本体が大量に基地の中から立ち上がりました。70年3月に、基地で働いていた太田隆一さんが解雇され、彼のほかに解雇された女性労働者が自殺を図った。そのことを受けて翌日、太田さんが基地の前で「死すべきは基地だ。労働者は死んではならない」というビラを配り、これが爆発的な基地労働者の共感と決起を呼び起こしていく。全軍労は「一切の軍事基地撤去」のスローガンを決定し、71年に2度の全島ゼネストを貫徹します。基地内決起でベトナムへの爆撃機を止め、労働者が帝国主義打倒へ本気で決起すれば巨大な軍事力すら無力化できることを歴史に刻印した。
これに本土で応えたのが、星野・大坂・奥深山同志を先頭に闘われた11・14渋谷暴動闘争です。それは「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」の革命的路線のもとで可能になったのです。
95年の少女暴行事件への10万人決起など、復帰後も変わらぬ基地の島の現実への根底的怒りが繰り返し沖縄で爆発してきた。辺野古新基地建設阻止の不屈の闘いが続き、再び沖縄の戦場化が迫る中で新たな安保・沖縄闘争の爆発の条件は広範に生み出されている。既成潮流の屈服をのりこえる闘いが、いま沖縄で改憲・戦争阻止!大行進沖縄を先頭に始まっています。
中国侵略戦争阻む革命的反戦闘争の爆発へ闘おう
以上のことを踏まえ、最後に六点強調したい。一つは「革命的祖国敗北主義」です。労働者階級は帝国主義戦争に協力しないだけでなく、自国政府・軍隊が敗北するように闘わなくてはいけない。自国軍隊の敗北をもテコに革命的反戦闘争に決起しなければならない。それは言い過ぎでしょうという意見はあると思いますが、革命的祖国敗北主義こそが第1次大戦下、ロシア革命を勝利に導いた「歴史の教訓」です。
二つに、戦時下の差別・排外主義攻撃と断固対決することです。過去、現在と一貫してアジア唯一の帝国主義である日帝が、再びのアジア侵略に手を染めていることを弾劾し、日帝打倒こそが闘うアジア人民への最大の連帯であることをはっきりさせることです。
三つに、実力闘争の論理、労働者民衆の武装の論理を実践的に復権させなければならない。マルクス主義者は、ブルジョア国家権力の支配・抑圧に抵抗する人民の暴力を正義であると考えます。「暴力反対」のイデオロギーは実際には国家暴力を擁護し、闘う労働者人民を武装解除させる「奴隷の論理」です。
四つに、自国帝国主義打倒の反戦闘争に敵対する日本共産党スターリン主義を思想的・運動的に打倒しなければならない。彼らの新聞「赤旗」を見てもわかるように、「脅威は中国、ロシア」「ハマスの暴力に反対」と完全に帝国主義と同じ立場です。これを打ち砕かなければなりません。
五つに、「プロレタリア自己解放=全人間解放の論理」としてのマルクス主義を貫くことです。私たちは戦争反対を主要な焦点にして闘っていますが、それはどういう生き方を人間はなすべきなのかという一人ひとりの主体的歴史選択として、人間関係が金を媒介とした関係におとしめられる資本主義の価値観をのりこえようという生き方を賭けたものとしてあります。
六つに、総じて反帝・反スターリン主義世界革命―共産主義社会の建設にまで責任を取りきる強烈な目的意識と歴史的使命感で武装された革命的労働者党の建設こそが一切を決する鍵です。革共同は第34回全国委員会総会を開催し、「青年・学生・女性の党」へ決定的一歩を踏み出しました。
最後に、革共同の初代書記長・本多延嘉さんの「70年安保闘争と革命的左翼の任務」(本多著作選第4巻)は青年・学生にぜひ今読んでほしい。日帝打倒の革命的反戦闘争を共に闘い、4・27渋谷デモ―5月沖縄現地闘争に全力で決起することを訴えます。
