十亀弘史の革命コラム-27- 弾圧は階級的怒りの源泉
十亀弘史の革命コラム-27-
弾圧は階級的怒りの源泉

人生で初めて手錠をかけられたのは1969年11月16日、25歳の労働者だった時です。佐藤訪米阻止闘争で、蒲田駅近くの現場での逮捕。留置場から巣鴨の拘置所に送られ独房に落ちついた時に私が感じたことは、弾圧への怒りの外に大きく二つありました。一つは、権力はつまるところ物理的な暴力じゃないか、ということ。鉄扉と鉄格子とコンクリートの箱に閉じ込めるのは、監禁という直接的な暴力行使そのものです。水平にも垂直にも連なっている多数の独房は、見れば見るほどむきだしの暴力の迫力を示していました。端的に〈国家って暴力じゃん〉です。
もう一つは、自分には失うものなど何もないんだ、という強い実感です。思いを広げて、『共産党宣言』の結びの言葉を借りれば、「プロレタリアは、この革命において鉄鎖以外に失うものは何もない」です。とりわけ獄中者が失うのは、文字通りの「鉄鎖」でしかありません。そして「獲得すべきは全世界」なのです。この実感は、獄中の気分をずいぶん楽な解放的なものにしてくれました。さらに、同じ時にパクられ、同じように失うものなど何もないと感じとっている数百の獄中同志との団結ほど強いものはないはずだという確信も、猛然とわいてきました。このとき弾圧と監獄こそが、遅咲きの反戦派労働者だった私を、もう一歩党と革命の側へ踏み出させたのです。弾圧は革命の糧というささやかな一例です。
3・1ビキニ被爆71年/反戦・反核・反原発集会での「戦争の時代、反戦反核は犯罪か?」と題した講演で、森川文人弁護士が戦時下の政治弾圧の本質を鮮やかに説き明かされました。聞きながら、あらためて次のことを胸に刻みました。
〈戦争の時代は弾圧の時代。外に向かっての極限的な暴力としての戦争、それと一体の内に向かっての暴力が政治弾圧だ。政治弾圧は、何かの間違いによる「冤罪(えんざい)」ではなく、初めから反戦運動に的を絞った狙い撃ちの弾圧だ。それに対して、われわれは反戦を貫き弾圧を逆に力に変えている。裁くのはわれわれなんだ〉
現に集会では、広島暴処法弾圧当該からの勝利感に満ちた発言、京大弾圧7人の奪還と関生弾圧完全無罪の報告などがなされ、会場が拍手と歓声に満ちました。弾圧は階級的な怒りの源泉、団結を促す強力な動因に外なりません。戦争と一体の弾圧を、真正面から打ち砕きましょう。
(そがめ・ひろふみ)
2025.3.24
