揺るぎなく党を牽引 厳しくも温かい指導者
揺るぎなく党を牽引
厳しくも温かい指導者
3・14反革命当時20歳だった青年は、今70歳になる。本多さんを知っている人、生の本多さんに接したことのある人は今や圧倒的に少数派になっている。本多さんの指導を受けた者の一人として、彼のことを伝えていく義務があるかと思い、つたない一文を寄せることにした。
私は前進編集局員として20代から30代にかけて、近い距離で本多さんに接した。よく叱られた。原稿の中身があいまいだったり、的外れだったりすると、厳しく指摘してくれた。
本多さんは革共同の最高指導部として、革命に必要なあらゆることに責任をとってわれわれみんなを牽引(けんいん)したが、早稲田大学新聞編集長を経験していたこともあり、機関紙の編集、印刷、経営にも細心の注意を払って指導した。革命運動における機関紙の役割について特に重視していた。
1974年に「前進」を印刷していた外部の印刷所にカクマルが武装襲撃をかけ、発行体制が危機に陥った時、独自の印刷所建設に向かって本多さんを先頭に党として全力を挙げた。
その秋にかちとられた独自の印刷所での「前進」復刊に際しての本多さん執筆の政治論文は、「武装し自立した革命的印刷所の建設万歳! 武装し、戦う革共同に栄えあれ!」と結ばれ、彼自身の達成感、高揚感が伝わってくるものだった。
「前進」の編集過程は、かなり編集局の自主性に任せられていたが、出来上がった紙面について手厳しく批判することがあった。それは的確でぐうの音も出ないものだった。自ら見出しを提案することもあった。「勝利にむかっての試練」(68年新年号)、「歴史の分岐点としての69年」(69年新年号)などのフレーズに、70年安保闘争を切り開こうとする並々ならぬ決意を込めていた。
本多さんの特質は、何よりも原則的で厳格で容赦なくそれを貫くことだったと思う。彼の文章はかっちりと構成され、一分の隙もないものだった。物事を筋道立てて考え、揺るぎない論理で説き明かすという作風だった。
厳しい人だったが、しかし怖い人ではなかった。むしろ明るく朗らかで、包容力のある温かい人だった。冗談も活発に飛び出すし、常任の仲間や学生たちにあだ名をつけるのが好きだった。
昔話もよくしてくれた。「家を出るとデカ(公安刑事)が待ってて尾行してくるんだ」と高校時代のことを語っていた。授業に出るより県立図書館で学習する時間が長かったそうで、高校には「教師をオルグに行った」と言っていた。10代のころから革命家になるために生きてきた人生だったのだと得心した。
気がつけば本多さんの生きた41年を倍する歳を重ねたことに驚くが、いまだに彼が仰ぎ見る師匠のような存在だというのはどういうことだろう。私が成長していないということでもあるが、本多さんのつくって来たものが確固としたものだからだと思う。基本戦略、総路線、レーニン主義的党組織論は、いま現在の闘いの指針となっている。
不肖の弟子だが、50年間節を曲げずに頑張って来たことは、本多さんの前に誇りを持って報告できる。「連帯し、侵略を内乱へ」の闘いはこれからが本番だ。年は関係ない。本多思想を学んで決起する青年労働者、学生と共に全力で闘いたい。
(高田隆志)
本多延嘉同志の略歴 | |
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1934年 2月 | 東京の下町、神田和泉町に生まれる |
1946年 4月 | 埼玉県立旧制川越中学入学。高校卒業前に日本共産党入党 |
1953年 4月 | 早稲田大学入学。早くから「早稲田大学新聞」編集長、日本共産党早大細胞のリーダーに |
1955年 7月 | 日本共産党第6回全国協議会に疑問を抱く |
1956年10月 | ハンガリー革命に衝撃を受ける |
1957年12月 | 革命的共産主義者同盟の創成に参加 |
1959年 8月 | トロツキー教条主義派と決別し革共同全国委員会を創設、書記長に |
1960年 | 60年安保闘争の先頭に立って闘う |
1961年 | 共産主義者同盟の解体・吸収に指導的役割 |
1962年 9月 | 第3回全国委員会総会(3全総)で政治報告。直後から黒田寛一の卑劣な分裂策動。黒田=カクマル派との分裂 |
1966年夏 | 革共同第3回大会で第3報告を提起。70年安保決戦の方針をうち出す |
1967年10月 | 佐藤首相の南ベトナム訪問阻止の10・8羽田闘争を指導 |
1969年 4月 | 4・28沖縄闘争の前夜、破防法40条で逮捕。71年3月まで2年間勾留 |
1971年 | 沖縄返還協定阻止の11月決戦を指導。カクマルの武装襲撃に、対カクマル戦を決意 |
1973年 9月 | 戦略的防御から対峙段階へ革命的報復戦を決断 |
1975年 3月 | カクマルにより虐殺される。享年41 |
