3・14反革命から50年 本多思想を継承し世界革命へ 反帝・反スタの真紅の旗のもと本多同志と共に勝利まで闘おう 前進編集局
3・14反革命から50年
本多思想を継承し世界革命へ
反帝・反スタの真紅の旗のもと本多同志と共に勝利まで闘おう
前進編集局

日本における反スターリン主義・革命的共産主義運動の創始者、革共同全国委員会の創設者、そして機関紙「前進」の創刊者でもある不世出のプロレタリア革命家、革共同初代書記長・本多延嘉同志の死去から50年を迎えた。1963年にわが同盟から逃亡し、70年安保・沖縄闘争を前後して本格的にファシスト集団へと転落・転向した反革命カクマルは、警察権力の庇護(ひご)と容認のもとで革命党と革命勢力に対する極悪非道の白色テロ襲撃を繰り返し、ついに75年3月14日、言語に絶する卑劣な手段をもって本多同志を虐殺したのである。この憎みて余りある「現代のナチス」に対し、革共同は全党を挙げて猛反撃し、カクマルの武装テロ部隊を徹底的に壊滅・無力化させるまで闘い抜いた。警察=カクマル連合による革命党破壊の全攻撃を敢然とはね返し、動労千葉や三里塚闘争などの日本階級闘争の戦略的拠点を守り抜いたのである。そして今日われわれは、本多同志から受け継いだ反帝国主義・反スターリン主義の真紅の旗を日本と世界の階級闘争の先端に高々と翻らせ、帝国主義の最末期=「本物の世界革命情勢」の到来というべき時代を迎えている。米日の中国侵略戦争を阻止し、日本帝国主義打倒への内乱的総決起をつくりだしていく上で、本多同志の闘いの足跡とその思想をあらためて学ぶ意義は絶大である。ここでその一端を紹介したい。
スターリン主義と決別し新たな革命党創成を決断
「日本における革命的共産主義運動は、国際共産主義運動のスターリン主義的な変質にたいするプロレタリア的な自覚と、それをバネとした革命的共産主義の現代的な復権の闘いとしてはじまった」(「革命的共産主義とスターリン主義の歴史的分裂」、前進社刊・本多延嘉著作選第5巻)
傑出したマルクス主義的理論家であり、天性のオルガナイザーと言われた本多同志が、その生涯を通じて最も心血を注いで取り組んだことを一言で表現するなら、それはレーニン主義に基づく革命党の創成・建設とその指導であったと言えよう。レーニン主義に基づく革命党とは、プロレタリア独裁をめざす労働者階級の党であり、現代においては反帝・反スターリン主義の党にほかならない。
だが、本多同志ら革共同創成期の人々が、その最初の一歩を踏み出した1950年代中期----まだソ連が「共産主義の国」として絶大な権威をもって存在し、日本共産党が日本で唯一の革命党とみなされていた時代に、これら公認の「国際共産主義運動」と決別して新たな革命党創成への闘いを開始することは、けっして容易なことではなかった。当時、早稲田大学の学生で早大新聞の編集長であり、日本共産党早大細胞の指導部でもあった本多同志は、56年10~11月のハンガリー労働者の蜂起(ハンガリー革命)と、これを戦車で踏みつぶし血の海に沈めたソ連の犯罪的暴挙(さらにはそれを一斉に支持した各国共産党)に衝撃を受け、人間として悩み抜いた末に、日本共産党と決別して反スターリン主義の闘いに踏み出すことを決意する。後に本多同志は、全学連の主催する講演集会で次のように振り返っている。
「強大な権威と勢力をもった日本共産党を内側からも闘い、外側からも闘ってうち破っていく......それはじつに大変な仕事だということを当時考えざるをえなかった。しかしながら、もとよりわれわれは、一人ひとりをとってみればまだ非常に弱い、まだ本当に未熟な力でしたけれども、しかしこのような闘いをやりとげることなしに、われわれの前進はありえないという唯一の確信、自分の心のなかにあるその魂の叫びしかわれわれが対置することはできない、この状態からわれわれの闘いがはじまったわけです。......この叫び、どんな状態のなかでも、われわれはこの道を進まなければならないというふうに確信したら、その道を断固としてつき進んでいく、これが革命的共産主義運動のなかでわれわれが最初につかみとった真実である、ということをまず諸君に申しあげたいと思います」(「革命的共産主義運動の歴史について」、著作選第5巻)
本多同志の語る「最初につかみとった真実」は、今日もなお革命的共産主義運動とその担い手一人ひとりのなかに共同の決意として引き継がれているものだ。
こうして本多同志は、後に脱落・転向し反革命カクマルの頭目となる黒田寛一を含めた当時の先駆的言論人や活動家らと共に、革命的共産主義運動の創成に加わった(革共同の結成は57年12月)。続いて58~59年にかけてのトロツキー教条主義者との党内闘争を経て、59年8月、「反帝・反スターリン主義」を掲げる革共同全国委員会を創設、本多同志はその書記長に就任した。
安保闘争の敗北のりこえ革命党の建設・強化を主導
「革命的理論なくして革命的運動もありえない」とはレーニンの言葉だが、それは本多同志の揺るがぬ信念であり、一貫した指導理念であったと言えよう。
60年安保闘争は、周知の通り全学連の数次にわたる国会突入闘争を経て大きく高揚するが、社会党・共産党の裏切りと闘争放棄のもとで闘いは行き詰まっていく。当時、全学連執行部を握っていた共産主義者同盟(ブンド)もこの状況を何ら突破できず、そればかりか「反スターリン主義」を欠落させたその思想的・綱領的なあいまいさゆえに、安保闘争敗北後には組織として崩壊してしまう。この過程で本多同志は、安保闘争をブンドと共に闘った革共同の立場から渾身(こんしん)のオルグに乗り出し、現・革共同議長の清水丈夫同志をはじめとした多くの旧ブンド活動家を革共同に結集させていった。その際に本多同志は、ブンドのメンバーのほとんどが、日本共産党出身であるにもかかわらず自らのスターリン主義的なあり方を十分に自己批判していないこと、あるいは国会突入などの戦術的エスカレーションの単純延長線上に「社共に代わる新たな革命党」がつくれるかのように安易に考えていたことを、厳しく批判した。スターリン主義と根底的に決別し、マルクス主義の労働者自己解放の思想と反帝・反スターリン主義の立場を自己の中にしっかりと打ち立てる、その七転八倒の苦闘なくして「社共に代わる革命党」などありえないということだ。
「論をこねくり回してもダメ」とか「大事なのは議論よりも実践だ」といった〝実践至上主義〟的な姿勢は一見「戦闘的」にも見えるが、それは実際には、共産主義者とその党がブルジョア・イデオロギーと徹底的に闘い、真に革命的なイデオロギーで自らを不断に武装しつつ、その内容的な深化を絶えずかちとっていくという、最も困難な闘いからの日和見主義的逃亡にほかならないのである。本多同志は、理論におけるどんな小さな不一致も見逃さず、目の前の相手と一致をかちとるまで、夜を徹することもいとわずとことん議論したと言われる。その際の本多同志の非妥協的な姿勢と厳しさ、温かさは、彼のことを直接知る多くの同志たちが口々に語るところである。そこには、レーニン主義的党組織における指導者の役割、そして職業革命家のあるべき姿が示されていると言えるだろう。
ともかくも、本多同志の主導で革命的左翼の基軸的統一をなしとげた革共同は、62年9月に第3回拡大全国委員会総会(3全総)を開催し、社共に代わって日本階級闘争全体に責任をとる革命的労働者党への飛躍を誓った。本多同志による3全総政治局報告は、当面する同盟の任務として、①「戦闘的労働運動〔の防衛〕と反ダラ幹闘争」、②「米ソ核実験に反対する」反戦闘争、③「産別委員会と地区党の建設」、④機関紙(誌)活動の変革と飛躍を提起。総会の討論は特に「戦闘的労働運動の防衛」と「地区党建設」の二点に集中した。だが、本多同志が提起し主導した3全総路線とは、言うまでもなく、単なる「労働運動路線」ではない。革共同が労働運動をはじめとした大衆闘争の現場に飛び込み、現実の階級闘争の前進を切り開くことと一体で、何よりも「革命党の建設・強化」という課題を基軸中の基軸に据えているのである。
「労働者階級の内部における反幹部闘争と反戦闘争の成果をうち固め日本革命の大道をきりひらく唯一の集約点が、革命的労働者党のための闘争であることを、こんにちふたたび明白に確認しなければならない。このような革命的労働者党のための闘争ときりはなされて、もし戦闘的労働運動の意義や反戦闘争の重要性が語られるならば、それはあきらかに別な命題に転化するであろう」(3全総報告、著作選第1巻)
このような3全総路線の実践は、革共同が必然的に国家権力、資本、社共や既成労組幹部などとの間で厳しい対峙・対決関係に入ることを意味した。それに恐怖して革共同から脱落・逃亡したのが、黒田寛一、松崎明ら反革命カクマルにほかならない。
70年闘争‒破防法弾圧下で育まれた現代革命の理論
66年の第3回大会で「戦後世界体制の根底的動揺の開始」を確認し、「安保粉砕・日帝打倒」を掲げて70年決戦を闘うことを決断した革共同は、67年10・8羽田闘争を突破口に階級闘争を一変させ、権力・機動隊を粉砕する大衆的実力闘争の巨大な高揚と、青年労働者・学生の丸ごと一世代が革命に向かって陸続と決起する新たな時代を切り開いた。この決戦の渦中で本多同志は比類なき指導力を発揮、これに恐怖した国家権力による破壊活動防止法(破防法)の適用を受け、69年4・28沖縄デー闘争の前日に逮捕された。彼の代表作というべき論文「レーニン主義の継承か、レーニン主義の解体か」(著作選第1巻、前進社新書『反帝国主義・反スターリン主義とは何か』にも収録)と論文「戦争と革命の基本問題」(著作選第2巻)は、いずれもこの2年間の獄中闘争の最中に書かれた。
「もともとプロレタリアートは、自己解放の闘いをとおして人類の全人間的な解放を達成する世界史的使命をもった階級であり、またそれゆえにこそ、プロレタリアートの革命的独裁は、他のいっさいの階級独裁とことなり、独裁の実現、維持が同時に独裁の廃絶の条件を準備するという構造をとるのである。このような意味において、プロレタリアートは、その特殊利害の貫徹のうちに普遍的利害の実現を準備するともいえるのである」(「レーニン主義の継承か、レーニン主義の解体か」)
このようなプロレタリア自己解放=全人間解放の原理をはじめとして、本多同志は、多くの論文の中でマルクス主義・レーニン主義の原理的内容に繰り返し論及し、自分たちが血みどろになって闘っている運動の人類史的意義と、その到達すべき終局目標を明確にさせる理論的営為を一時も怠らなかった。この本多同志の卓越した理論水準と尽きることのない革命的パトスが、どれほど多くの人々を奮い立たせ、革命の戦列に決起させたことだろうか。
このほかにも本多同志は、マルクス主義国家学説を駆使して天皇制の階級的本質を初めて解明した天皇制ボナパルティズム論、暴力の社会史的本質の究明に基づく暴力革命論、戦後世界体制の分析を基礎とした日米安保同盟論、日本共産党などの他党派への根底的批判、大学闘争論など多くの領域で輝かしい理論的功績をのこしているが、それらはすべて、本多同志自身が終生その指導者であった革命的共産主義運動の前進のなかで育まれたのだ。
本多同志の思想は、革共同9回大会路線のもとで生き生きと自己解放的に決起する青年・学生・女性たちの荒々しい闘いのなかに、確固として受け継がれている。新書『反帝国主義・反スターリン主義とは何か』に収録された2論文も若き同志たちに熟読されている。中国侵略戦争阻止の反戦闘争の爆発をかちとり、反帝・反スターリン主義世界革命へ、本多同志と共に最後の勝利まで闘おう。
