十亀弘史の革命コラム-25-革命をやり抜く意識性を

週刊『前進』04頁(3378号04面04)(2025/01/13)


十亀弘史の革命コラム-25-
革命をやり抜く意識性を

 俳句界の保守派の頭目だった高浜虚子は嫌いな俳人です。ただ、年越しの頃にいつも思い出す次の句には強い迫力を感じます。「去年今年(こぞことし)貫く棒の如(ごと)きもの」。年が変わろうが、何があろうが、一貫した太い棒のような何かが現存するというのです。この「棒の如きもの」が何かについては、「作者の信念」「不動の自我」「時間の本質」などといろいろに解釈されていますが、それらは無視して読む人それぞれが自由にイメージすればいいのです。
 私は、大きく、『共産党宣言』第1章の冒頭の「これまでのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」こそそれじゃないかと思ったりしています。原始共産制期は除いて、これまでの人間社会のあらゆる歴史を貫いているのは、まさに搾取し抑圧する階級と搾取され抑圧される階級との対立・衝突・闘争です。そう考えると、社会の過去・現在・未来(プロレタリア独裁期の終了までの未来)を貫く太い「棒」とは、具体的には戦争と革命を含む階級的暴力そのものだとも思えてきます。
ところで、「不確実さ増す時代に」という副題を付けた朝日新聞の元日の社説は、次のように書き出されています。「胸騒ぎがする。波乱が起きる予感が。それが何かはわからない。いつにも増して先が見えない年が、明けた」。なんという腰の引けた姿勢でしょう。時代は「不確実さを増」しているのでは全くないし、この先の「波乱」が何かは明白です。米日の帝国主義による中国への侵略戦争の進展と、帝国主義の打倒によってその戦争を止める闘いこそが、かつてない「波乱」として「確実」に眼前にあります。
 本紙新年号の「革共同政治局の2025年1・1アピール」から引用します。「いまやわれわれは『本物の世界革命情勢』のただ中にある」「革命をやる客体的条件は十分すぎるほどに満ちている」「一切は革命主体としての階級の形成と、革命をやり抜く意識性をもった党の飛躍にかかっている」。革命の主体すなわち党と労働者階級の側から言えば、常に貫くべき「棒の如きもの」は、「革命をやり抜く意識性」そのものともいえそうです。侵略戦争を絶対にやらせず、貧困など労働者のあらゆる苦しみをなくすために、個々の課題をばらばらに解けばいいとする改良や抵抗ではなく、帝国主義体制総体を打ち倒す革命をこそ前進させましょう。
(そがめ・ひろふみ)
2025.1.13

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