南京大虐殺87年 再びの中国侵略戦争許すな アジア人民と連帯し日帝打倒へ
週刊『前進』04頁(3375号03面01)(2024/12/16)
南京大虐殺87年
再びの中国侵略戦争許すな
アジア人民と連帯し日帝打倒へ
1937年7月7日の盧溝橋事件をもって中国全土への全面侵略戦争に突入した日本帝国主義(旧大日本帝国)は、本国から増派した兵力で同年11月に上海を攻略し、続いてこの上海派遣軍を中心に編成された20万もの大軍で12月13日に当時の中華民国首都・南京を占領した。その際日本軍は、捕虜または無抵抗の状態となった中国軍兵士、難民、一般市民を大量に殺害した上、略奪、放火、女性の強姦(ごうかん)など残虐行為の限りを尽くした。この南京大虐殺(南京事件)から87年——侵略と虐殺の歴史を居直る日帝は、極右勢力を動員して「南京大虐殺はなかった」などとデマキャンペーンを繰り広げ、排外主義をあおって再び中国侵略戦争に突き進もうとしている。反戦を貫き闘い抜く決意をこめ、今あらためてこの歴史を直視したい。
消し去れない歴史の真実
現在の中国では、南京陥落の日=12・13が大虐殺の被害者への「追悼の日」とされる。これに対して日本政府は、自国の犯した戦争犯罪に真摯(しんし)に向き合う姿勢など一片も示さず、そればかりか「反日感情が高まる日なので注意が必要」(外務省HP)などとあたかも日本人の方が不当な逆恨みをされているかのような転倒した言い方で、中国人を危険視するよう在留日本人に呼びかけるという悪意に満ちた排外主義的宣伝を行っている。他方、日帝の侵略戦争を美化し正当化しようとする極右勢力は、戦後一貫して南京大虐殺を「なかったこと」にしようと画策し、ありとあらゆるデマや学問的に成り立たない非科学的暴論を叫び散らしてきたが、今日再びの中国侵略戦争が迫る中で、この動きは日帝権力中枢と結びついてますます強まろうとしている。だが、血の文字で刻まれた歴史の真実を墨で塗り隠すことなどできない。そもそも南京大虐殺はその発生直後から、現地にいた外国メディアの特派員らによって伝えられ世界に知れ渡っていた。今日においても、ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺の象徴としての「アウシュビッツ」と並んで、人類史上空前の残忍極まる戦争犯罪として全世界にあまねく知られている。事件当時に記録された数多くの一次史料をはじめ、無数の証拠・証言や埋葬された遺体の数が、恐るべき大虐殺の事実を論駁(ろんばく)の余地なく証明しており、今も調査のたびに虐殺を裏付ける証拠が発見され全容解明が進められているのだ。これを「なかったこと」にしようとか、「多少の残虐行為はあったが犠牲者は数万人程度なので大虐殺ではない」などというデマ・歴史歪曲の暴論が大手を振って政界や言論界でまかり通る状況など、日本以外では考えられない。
そもそも日帝は、公式には極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決を受け入れ、そこに明記された南京大虐殺についても認めていながら、文部省(現・文部科学省)の教科書検定などを通じて歴史教科書からその記述を削除または縮小・あいまい化しようと一貫して圧力をかけてきた。この大虐殺こそ、日帝の中国侵略戦争の悪逆非道の正体を示しているからである。
占領下で無数の戦争犯罪
当時の南京特別市の行政区域は南京城区(市部)と周辺の6県(県部)から成り、市部の人口は37年3月の調査で101万9667人、県部は約130万人で計230万人以上を擁した(右翼などが「当時の南京には20万人しかいなかった」と言うのは、南京城内の一区画にすぎない「難民区」に収容された難民数約20万人を南京の全人口とすり替える低劣なペテン)。日本軍(中支那方面軍)は37年12月4~12日にかけてこの全域を対象に包囲殲滅(せんめつ)戦を行った。南京大虐殺とは、日本軍が南京戦から翌年3月28日の傀儡(かいらい)政府設置までに、この全域で行った残虐行為(歴史学などで定義する際の基準としては、戦時国際法・国際人道法違反に相当するもの)の総称である。それは第一に、捕虜となった中国軍兵士・軍夫の虐殺である。中国の南京防衛軍約15万人のうち戦闘で死亡した数は約1万人にとどまり、約6万人が生きて南京から脱出。残る8万人余りが捕虜または無抵抗の状態になったが、日本軍はこれをことごとく虐殺した。第16師団長・中島今朝吾の陣中日記は「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ」同師団だけで捕えた中国兵2万4千~5千人を「処理セシ」と記録、また中支那方面軍司令官・松井石根(いわね)は戦後、「捕虜に食わせる物もない。……それでちょん切ってしまうということになった」、相手が降服し武器を捨てても「戦闘中」とみなして「シャーシャーと撃ってしまった」などと平然と語った。他にも無数の命令書や陣中日記などの一次史料が、一旦収容した捕虜を軍の命令・指示で不法かつ組織的に殺害したことを克明に記録している。
第二に、「敗残兵掃討」「便衣兵の剔出(てきしゅつ)」の名で行われた虐殺である。南京陥落後、日本軍はその戦果を誇示するため17日に皇族・朝香宮鳩彦を迎えて入城式を行うことを決め、これに備えて14~16日に難民区を含む市内全域を掃討。「青壮年ハ凡(すべ)テ敗惨兵又ハ便衣兵」とみなす(歩兵第6旅団命令書)という方針のもと、成年男子は武器を持たず平服を着ていても「便衣=軍服を脱いだ」兵士とみなし、日本軍が記録を残しただけで1万5千人以上の無抵抗かつ戦意のない相手を3日間で殺害した。
「連帯し内乱へ」の闘いを
第三に、南京大虐殺の最大の核心は、一般市民に対する日本軍のおびただしい残虐行為である。略奪、放火、殺人、さらに女性を強姦した上に証拠隠滅のため殺すなどの凶悪犯罪が南京全域で繰り広げられたことは、日本軍の多くの記録や被害者、第三者(外国人)の無数の証言で明らかにされている。当時の外務省や陸軍参謀本部もこれらを把握しており、国際的な非難の高まりを恐れて現地司令部に兵士を取り締まるよう繰り返し勧告したが、松井司令官らは何ら有効な手立てをとらず、略奪も強姦も「多少ハ已(や)ムナキ実情ナリ」(松井の陣中日記)などと容認した。そもそも日本軍は、南京戦で苦戦した場合は「南京市街ニ対シ徹底的ニ空爆」を加え、毒ガス兵器イペリット弾も使って「南京市街ヲ廃墟タラシム」(第10軍司令部「南京攻略ニ関スル意見」、37年11月30日)と計画しており、南京市民の命など何とも思っていなかった。また同年8~11月の上海戦で日露戦争以来の大損害を出すほど苦戦を強いられたことで、兵士の多くは中国人民への敵意や復讐心を増幅させ、その精神は荒み切っていた。こうした状況で、日本軍は何の準備もなく現地司令部の独断で上海~南京の約300㌔の行軍を開始。補給を無視した無謀極まる強行軍は食糧などを「現地調達」するほかなく、行く先々で略奪を繰り返すこととなった。農村を荒らし回り、家屋を焼き払い、女性を見つければ強姦して殺害した。「南京への道」で常態化していたこの光景が、南京の地獄絵となって再現され、その後も中国各地で繰り広げられたのである。
中国政府の発表で30万人以上、多くの研究者や調査団の報告でも十数万~20万人以上の虐殺が確実視されている南京大虐殺と、中国各地で繰り返された同様の戦争犯罪は、まさに日帝の行った戦争が中国人民の民族解放闘争の圧殺を最大の目的とした帝国主義的侵略戦争だったがゆえに引き起こされたのである。なお南京大虐殺を凶行した中支那方面軍には、後に沖縄で日本軍(第32軍)の司令官となる牛島満、同参謀長となる長勇もそれぞれ歩兵第36旅団長、情報主任参謀として参加しており、第32軍の主力も中国大陸から転戦した部隊で構成された。中国人民を虐殺した同じ侵略軍隊によって、沖縄は地獄の戦場へと変えられたのだ。
今日われわれは、この虐殺と戦争を二度と繰り返さないという誓いを、帝国主義打倒の闘いと切り離された単なる倫理的確認にとどめてはならない。流された血への償いを、米日帝国主義の中国侵略戦争絶対阻止の反戦闘争として貫徹しなければならない。アジアと世界の人民に対する日本プロレタリアートのこの歴史的責務を果たすべく、「連帯し、侵略を内乱へ」の旗のもと2025年の闘いへ総決起しよう。
(水樹豊)