団結ひろば 投稿コーナー

発行日:

週刊『前進』04頁(3362号04面04)(2024/09/16)


団結ひろば 投稿コーナー

自衛隊の「戦争式典」に反対
 3・11反原発福島行動実行委員会 安斎則夫

 9月7日、陸自福島駐屯地創立71周年記念行事で、自衛隊車両などによる市中パレードが福島市内で強行された。これまでの市中パレードは、2013年の60周年、昨年70周年の「節目」の記念行事だけであり、71周年での実施は異例と言うべきものだ。ここに日本帝国主義・自衛隊の明確な踏み込みがある。日帝は中国侵略戦争に向け全土出撃基地化を一挙に進めている。今回の記念行事・パレードもそのためのものだ。絶対に容認できない。
 3・11反原発福島行動実行委員会は、8・23反戦・反核集会デモに続き敢然と決起した。5日から7日まで3日間の連続行動をやり抜いた。「中国侵略戦争への『戦争式典』開催反対」「福島駐屯地を中国侵略戦争の出撃基地にするな」「自衛官は侵略の銃を取るな」と明記したビラを多くの市民に手渡した。
 式典で来賓あいさつに立つ内堀県知事、木幡市長への弾劾を込めて、5日に県庁、6日に市役所へのビラ入れ情宣を行った。自治体労働者のビラの受け取りは良く、それぞれ用意したビラは瞬く間になくなった。
 7日のパレード当日は、まず福島駅東口で右翼の妨害を粉砕して街宣をかちとった。そして、パレード時刻に合わせて駅西口に移動し、参加者に「戦争式典反対」を訴え、多くの市民にビラを渡した。
 3日間、権力の弾圧を許さず勝利的に闘い抜き、秋の反戦闘争、11・3労働者集会6千人結集へ確実な一歩を踏み出した。

狭山再審せよと高裁に迫る
 部落解放東日本共闘会議事務局長 徳永健生

 8月26日、全国水平同盟と部落解放東日本共闘会議は、今年4回目の東京高裁要請行動を行いました。正午から高裁前でアピール行動を行い、全国水平同盟の久原正子委員長が、「8・6広島の大勝利が岸田打倒を切り開いた。この勝利をテコに、労働者人民の狭山闘争への総決起をかちとり再審をこじ開けよう」と訴えました。高裁前を行く人々の反応はよく、狭山署名が多く集まりました。
 要請行動では全国水平同盟4支部、広島解放共闘、動労千葉、動労総連合水戸、全学連、東京の各地区労組交流センターなど13団体が要請文を第4刑事部の家令和典裁判長に突きつけました。
 要請行動では今年50年を迎える寺尾無期判決への批判が強く訴えられました。「かつて東京高裁の寺尾正二裁判長は『自分は部落差別のことを勉強している』と言い、弁護側の部落問題専門家4人の証人申請を『そこまで要りません』と却下した。そして『楽観論』をあおって無期判決を下した。はらわたが煮えくりかえる思いだ。絶対許せない」(西郡支部要請文)
 さらに参加者は、「家令裁判長も狭山を理解しているかのようなポーズを取りながら、いっこうに証拠調べを決定しない。寺尾裁判長と同じだ!」と怒りをたたきつけました。
 総括集会では、全国水平同盟の平沼和典事務局長が「戦争攻撃の中で部落差別が激化している。もう一度狭山を軸にして闘おう。10・31狭山闘争に総決起し、11・3集会6千人決起へ攻め上ろう」と訴えました。

大坂さんと秋山さんが面会
 東京 新谷洋介

 大坂正明さんは獄中から「11月全国労働者集会への組織化の勝利」を強く訴えています。「反戦闘争、沖縄闘争の強化・発展で政治的に圧倒する中にこそ対裁判所闘争の発展もある」とも。獄中にあって、外にいるわれわれを鼓舞してやまない大坂さんに真っ向から応えて立ち上がらなければと改めて決意しました。
 「大坂さん救援会ニュース」を武器に大坂さん奪還の闘いを強めましょう。最新の第47号には、元全学連委員長の秋山勝行さんの文章が載っています。1967年の佐藤首相南ベトナム訪問実力阻止の10・8羽田闘争を始めとする闘いの先頭に立った秋山さんが今、「大坂救援会事務局」の肩書きで「再登場」していることは、感慨深いものがあります。
 その中で、秋山さんは8月に大坂さんに初面会したことを書いています。その面会で、大坂さんが秋山さんを最初に見たのが、68年6・15闘争だったことを聞き、その闘争がいかに重大な闘いだったかということなどを書いた上で、秋山さんが8・6広島決戦の勝利の経験を大坂さんに情熱的に報告したことが記されています。そして広島の勝利の実感は、「10・8羽田闘争(など)で獲得した勝利の実感と並ぶくらい大きなものであった」という「私の主観的実感も付け加えました」と言っています。
 再び歴史を塗り替える闘いを闘い抜いた勝利の地平から11月集会の成功に向かって、獄壁を越えて闘う決意を共にしたことが伝わってきて、とても感動しました。よし、闘うぞ!と。

反戦に生きた奈良洋子さん
 東京南部 井上道子

 4月23日に奈良洋子さんが亡くなりました。享年78でした。1978年に慶応大学スクーリングの32歳の時、後に夫となる活動家から狭山闘争署名を求められ、それに応じたことをきっかけに活動を始めました。目立つ存在ではなく、静かに、穏やかな立ち位置でした。
 その彼女の夫が今も強く思い出すのは、2001年9・11の中東人民の同時多発反米ゲリラ戦のあと、彼女が彼の前で「これから革命運動をやるので私は働きません。よろしくお願いします」と言ったことです。彼女の中には熱い熱いものが秘められていたのです。
 9年前の戦後70年の8・6広島に行った時の会話を思い出します。彼女は日本帝国主義が敗戦した1945年生まれ。彼女の歴史も戦後70年でした。だから8・6広島には絶対参加したかったと言っていました。反戦の思いも並々ならぬものがありました。
 そのあと8・9長崎闘争に行きました。長崎では原爆投下時、自身も被爆しながら最後まで被爆者の手当てをした永井隆教授の家を、熱い陽射しを受けながら、長い時間をかけて探しあてました。私は、市井の人を大事にする彼女の思いの深さに驚きながら、後をついていきました。
 その後、彼女は「とめよう戦争への道!百万人署名運動」の南部の責任者となり、頑張りました。
 奈良さん、今年の8・6広島は、偉大な闘いを実現しましたよ。権力の規制をものともせず集会とデモを貫徹し、岸田打倒まで上り詰めました。あなたの百万人署名運動が実を結びました。あなたの9・11の決意が正しかったのです。
 あなたがいなくなってすごく悲しく寂しいけれど、私は反戦・反核=革命の道をまっすぐ進みます。

このエントリーをはてなブックマークに追加