被爆者の闘い引き継ぎ 今夏8・6―8・9闘争へ
被爆者の闘い引き継ぎ
今夏8・6―8・9闘争へ
第2次大戦末期におけるアメリカ帝国主義の広島・長崎への原爆投下は、未来永劫(えいごう)消し去ることのできない歴史的大罪にほかならない。戦後一貫して「核と人類は相いれない」と訴え続けた広島・長崎の被爆者は、原爆投下をもたらした帝国主義と帝国主義戦争に対する最も根底的な怒りの体現者である。日本と世界の労働者階級人民を絶えず鼓舞してきたその闘いの歴史を振り返り、今夏8・6広島―8・9長崎闘争の歴史的決戦性を明らかにしたい。
非合法下で命がけの決起
米帝による広島・長崎への原爆投下の目的は、戦争の早期終結ではなく、核兵器の威力を全世界に誇示することだった。だが同時に米帝は、「ファシズムの脅威から民主主義を守るため」と称した戦争で、自らもナチスや日本帝国主義と同様の恐るべき人民大虐殺に手を染めた上、戦争終結後もなお何十万もの人々を原爆症で殺し続けていること、そのような被害をもたらす核兵器の非人道性とそれを使用した米帝への全世界的弾劾が巻き起こることを恐れ、原爆被害の実相を隠すことに全力をあげた。日帝もこれに手を貸した。
1945年9月6日、米軍マンハッタン管区調査団指揮官のファーレル准将は記者会見で「広島・長崎では死ぬべき者は死んでしまい、原爆放射能で苦しんでいる者は皆無だ」と発言、原爆症の被害を全否定した。
さらに連合国軍総司令部(GHQ)は9月21日に「日本に与うる新聞準則(プレスコード)」を発表、日本国内のあらゆる言論活動や出版・報道を規制し、特に原爆に関するものを徹底的に取り締まった。また米帝は、被爆者を診察した医者にカルテを残すことすら禁じる一方、トルーマン大統領の調査命令に基づき47年に原爆傷害調査委員会(ABCC、現・放射線影響研究所)を広島・長崎両市に設置、後に「被爆者モルモット化」と断罪される被曝影響調査を(治療は一切せずに)行い、これに日本政府・行政権力が被爆者リストの提供などで協力した。
だが、被爆者はこの極限というべき状況下で全存在をかけて決起を開始した。栗原貞子、峠三吉、原民喜、大田洋子、正田篠枝らは過酷な弾圧を覚悟で詩や小説を発表し、ヒロシマ・ナガサキの真実を暴いた。
「当時はGHQの検閲が厳しく、見つかりましたらかならず死刑になると言われました。死刑になってもよいという決心で......秘密出版をいたしました。無我夢中で、ひそかに泣いている人、ひとりひとり差し上げさせていただきました」(正田篠枝『耳鳴り』)
この被爆者の闘いは、決して孤立してはいなかった。戦後革命のただ中、49年6月には日本製鋼広島工場での解雇をめぐる全日本金属労組広島支部日鋼分会の争議・工場占拠闘争が爆発。広島全市の各職場から労働組合員約1万人が、広島電鉄労組の仕立てた無料の「人民バス」に乗って支援に駆けつけた。峠三吉の義姉であり、当時は広電労組婦人部長だった小西のぶ子は次のように語る。
「日鋼争議は戦後初めて大量首切りが発表されたのを契機に起こった。広島は大騒ぎになった。義弟の峠三吉はそれまで体が弱く、抒情(じょじょう)的なものばかりつくっていたが、広島が沸き立つような騒ぎの中で、初めて怒りの詩を発表して労働者の闘いを理解するようになった」(小西のぶ子遺稿集『炎の巡礼者』)
49年10月には小西・峠らを議長団とする平和擁護広島大会が開催され、日本の反核運動の公然たる第一声と言うべき「原子爆弾の廃棄」を明記した大会宣言を採択した。そして翌50年6月に朝鮮戦争が始まると、GHQは広島に「8月5日以降の一切の集会禁止」を通達、平和祭や慰霊祭すらも不許可とした。この年の8・6は「一日中警察のトラックが警官を満載して広島市中を走りまわり、あらゆる集会を開かせまいと〝戒厳令下の状況〟をつくりだした」(広島県労働組合会議編『広島県労働運動史』)。だが被爆者らはこの弾圧を打ち破り、市内2カ所で非合法集会を開催、福屋デパート屋上からは反戦ビラがまかれた。
51年8月6日には、警察権力の包囲下で開かれた全国労働者平和大会に2千人が結集、その中心を担った広島県教職員組合(広教組)青年部のアピール文から、「教え子を再び戦場に送るな」のスローガンが生まれた。52年には初の被爆者団体である「原爆被害者の会」が結成された。
そして54年3月1日に米軍がマーシャル諸島ビキニ環礁で行った水爆実験で、第五福竜丸などの日本漁船が大量の放射能を含む「死の灰」を浴びたビキニ事件に対し、東京・杉並区の母親らが原水爆禁止署名運動を開始、翌55年8月6日には広島で第1回原水爆禁止世界大会が開催された。56年には日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成された。
社共のりこえ70年闘争へ
だが原水禁運動はその後、日本共産党と社会党の醜悪な抗争で多くの被爆者を失望させる。とりわけ61年9月のソ連核実験再開後、これを支持すると主張した日本共産党への被爆者の怒りは激しかった。63年第9回大会前の予備会議の様子を、ある被爆者は次のように証言している。
「『共産党としては、〈いかなる国の核実験にも反対〉という考えには賛成しかねる。なぜならソ連の核実験はアメリカとはちがって、戦争を防止するためのものだからである。したがってソ連の核実験による死の灰は甘んじて受けます』。この発言は私をはじめ被爆者の代表を激怒させた。......被爆者の代表の一人が口をはさんだ。『私たち被爆者の願いは、いかなる国であっても、核実験そのものに反対なのです』。するとやはり共産党の代表が、この被爆者にむかって怒鳴りつけた。『被爆者づらをするな』。このののしりにその被爆者は涙を流して退場していった」(高橋昭博『ヒロシマ、ひとりからの出発』)
このようにスターリン主義の正体をあらわにした日本共産党が、第9回大会で「ソ連核実験支持」を押し通した結果、原水禁運動は分裂し、多くの被爆者が離れていった。だが、反帝国主義・反スターリン主義を掲げ、社共に代わる革命的労働者党建設の闘いに踏み出した革共同は、61年秋から「米ソ核実験反対」を掲げる新たな反戦反核闘争を開始していた。それは「まさに日本(世界)原水禁運動の混乱をうち破り、日本労働者階級の革命的魂をふるいおこす新しいいぶきとして登場」(革共同第3回全国委員会総会報告)し、「帝国主義とスターリン主義の二重苦にあえぐ全世界のプロレタリアートの国際的に結ばれた反戦闘争こそが、核実験をはね返し、核戦争を阻止しうる唯一の力であること」(同)を鮮明にさせたのである。
さらに65年以降、米軍のベトナム侵略戦争が激化し、その最前線の出撃基地であり核兵器貯蔵庫とされた沖縄で「基地撤去・本土復帰」を掲げる巨万の闘いが高揚する中、本土においても全学連・反戦青年委員会を先頭に70年安保・沖縄闘争が始まった。
68年1月には佐世保港(長崎県佐世保市)への米原子力空母「エンタープライズ」寄港阻止の実力闘争が爆発し、全学連を先頭とする革命的左翼と長崎の被爆者との感動的な大合流がかちとられた。ある被爆者はその光景を、「全学連がああいうふうに、機動隊相手に自分たちの血を流してまで、エンプラ入港に反対し、核兵器の持ち込みに抗議した。......私としては考えさせられたね。ほんとうなら、私たち被爆者が、佐世保橋で機動隊とたたかっていなければならなかった」(西村豊行『ナガサキの被爆者』)と述懐している。
70年安保・沖縄闘争は被爆者・被爆2世の広範な怒りを解き放ち、71年には被爆2世の闘争組織として全国被爆者青年同盟(被青同)が結成された。そして沖縄永久核基地化を狙う返還協定の批准を前にした71年8月6日、広島の平和記念式典に参列した佐藤栄作首相(当時。首相の式典参加はこの時が初)への実力糾弾闘争が闘われた。この日、被青同を先頭とするデモ隊は機動隊の阻止線を突破して式典会場に突入、この決起に応えて会場内の被爆者が佐藤を傘で殴り、次々と椅子を投げつけ、ついに佐藤は車に乗せられて平和公園から逃亡するはめになった。以後、式典への抗議デモは毎年被爆者・被爆2世を先頭にあらゆる弾圧や規制をはねのけて闘われ、8月6日を「闘いの日」として歴史に刻むことになったのである。
反戦反核貫き日帝と対決
広島大学の学生や被青同と共に70年闘争に決起し、多くの闘う労働者・学生から「ヒロシマの母」と慕われた小西のぶ子は、77年6月に「侵略戦争と対決し、自己解放をたたかう被爆者の会」(反戦被爆者の会)を結成、87年に亡くなるまで三里塚をはじめ全国の反戦闘争のあらゆる現場に駆けつけ、動労千葉のジェット燃料貨車輸送阻止闘争には熱烈な支持のアピールを送った。米軍中距離核ミサイルの欧州配備に抗議する82年3・21広島反核行動では、警察権力の規制を粉砕して20万人が平和大通りを埋め尽くす中、反戦被爆者の会もその先頭で体を張って決起した。核戦争の元凶=帝国主義と対決し非妥協的に闘い抜く精神は、99年に始まる8・6ヒロシマ大行動へと引き継がれた。
2003年に始まった原爆症認定集団訴訟では、多くの被爆者が法廷で原爆症の実相を訴え、自らの被爆体験と原爆症に苦しんだ生活史を語った。その根底にあったのは、被爆者を見殺しにしながら核・原発政策を推進してきた日帝政府への怒りに加えて、「原爆被害を過小評価することは再び戦争への道につながる」(原告・荻沢稔さん。広島で被爆)という危機感だった。この時すでに米帝は、イラクなどで放射能兵器・劣化ウラン弾を使用し、人民が生活する土地と大気を汚染し、子どもたちをはじめ無数の人民にがん、白血病、脳腫瘍(しゅよう)、先天性形成異常などの被害をもたらしていた。被爆者の闘いは、この新たな侵略戦争を開始した米帝、そしてそれと一体化して戦争国家化へと突き進む日帝と真っ向対決する反戦反核闘争として貫かれた。
原爆症認定訴訟は、自身も被爆者である肥田舜太郎医師らの尽力もあり、放射能の内部被曝による健康被害を初めて司法の場で認めさせた。だが日帝政府はその後も内部被曝の影響について公式に認めず、ついには11年3・11福島原発事故を引き起こした。そして日帝が広島・長崎に続いて福島原発放射能の健康被害をも闇に葬ろうとする中で、この年から8・6朝の式典弾劾闘争は、福島の怒りとも固く結合した原爆ドーム前での反戦反核集会をもって始まるようになった。以後、ドーム前集会は広島市当局、警察権力、それと呼応した極右勢力の妨害を敢然とはねのけ、実力で闘いとられてきたのである。
戦後の被爆者の闘いは、合法性など1ミリたりとも与えられない状況下で、国家権力のあらゆる弾圧を打ち破る命がけの実力闘争として始まり、今日まで絶えることなく続いてきた。米欧日帝国主義によるロシア、中国を相手とした世界戦争が現実に始まり、新たな核戦争が着々と準備される中で、今こそ「ヒロシマ・ナガサキを繰り返すな!」の叫びと荒々しい反戦反核の実力闘争を全世界にとどろかせなければならない。国家権力による平和公園入場規制を実力で粉砕し、8・6朝のドーム前集会をかちとろう。
〔水樹豊〕