原爆の地獄絵を繰り返すな 帝国主義侵略戦争の帰結

週刊『前進』04頁(3353号02面02)(2024/07/15)


原爆の地獄絵を繰り返すな
 帝国主義侵略戦争の帰結

(写真 1945年8月6日に原爆が投下された後の広島市)

 1945年8月6日午前8時15分、米軍は広島市中心部上空からウラン型原子爆弾を投下し、人類史上初の核攻撃を行った。続いて8月9日午前11時2分、長崎にプルトニウム型原爆を投下した。
 広島の上空600㍍で爆発した原爆は、直径280㍍、表面温度5千℃の火球をつくり、周辺の地表は3千~4千℃に達した。すさまじい熱線と爆風によって7万6千戸の建物の68%が全焼・全壊、約24%が半焼・半壊した。さらに原爆の炸裂は大量の放射線を放出した。爆心地から半径2㌔以内では50%以上の人々が即死・即日死した。
 「原爆の熱線は屋外にいたすべての人の皮ふをとかし」「広島市がきえさり死体とくるしみの声でうまっていた」——漫画『はだしのゲン』に描かれた、阿鼻叫喚の原爆地獄が現出した。巨大な火の玉はきのこ雲となって広がり、放射能で汚染された「黒い雨」が広範囲に降り注いだ。約35万人の広島市の人口のうち、放射能の影響も含めて年内に約14万人が亡くなった。長崎では45年末までに約7万4千人が亡くなった。
 計20万人を超える死者の中には推定4万人の朝鮮人など、日帝の植民地支配によって渡日を余儀なくされたり、強制連行されてきた朝鮮・中国・アジアの人々が多く含まれていた。日本が「唯一の被爆国」という時、多くの場合これらの人々の存在は抹殺されている。
 原爆にあって生き残った人、さらに後に肉親探しなどで市内に入った人も放射能のちりを吸い、水を飲むなどして内部被曝した。被爆した人は56万人に上るとされる。原爆症の急性症状は、「熱が出はじめ、からだのあちこちに紫色の斑点が現れ、下痢・鼻血・血便が続くようになった。頭の毛が抜けはじめ、最後は大量に血を吐いて亡くなった」(肥田舜太郎・鎌仲ひとみ『内部被曝の脅威』)というもので、外傷のない人が突然発症し死んでいった。被爆から5年間でさらに10万人が死亡した。
 生き残った被爆者も、がんや白血病、また重度の全身倦怠(けんたい)感などの後障害や、それがいつ発症するかわからない恐怖、さらには差別に苦しんだ。原爆症・放射能との闘いは、被爆から79年が経った今でも続いている。

被爆者ふみにじり謝罪拒否する米帝

 8・6ヒロシマ—8・9ナガサキの地獄絵は、米日帝国主義が植民地・勢力圏の強奪と支配を争った侵略戦争の帰結だった。
 日帝の中国侵略戦争、アジア・太平洋戦争を指揮した昭和天皇ヒロヒトは、敗色が濃厚になっても「国体」(=天皇を頂点とする国家体制)の存続を唯一の目標とし、降伏を拒否して戦争を継続した。対する連合国は45年7月26日、日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言を発表。鈴木貫太郎内閣がこれを黙殺し戦争完遂を宣言したことは米帝の想定通りだった。ソ連を押さえて戦後世界の支配を狙う米帝は、核の威力を見せつけるために原爆で広島と長崎を壊滅させたのだ。
 当時の広島は、三菱など軍需産業資本が兵器を製造するアジアへの侵略戦争拠点=軍都だった。1894~95年の日清戦争時の大本営は広島に置かれた。その後は西日本最大の軍事都市として整備されてきた。1937年には宇品に陸軍船舶司令部が置かれ、全国30万人を超える人員を指揮した。まさにこれを理由に、広島は米軍による人類史上初の核攻撃の対象とされたのだ。
 また、長崎市にも大きな兵器工場や部品工場が林立しており、日本軍による真珠湾攻撃で使われた爆弾はすべて長崎製だった。「リメンバー・パールハーバー(真珠湾攻撃を忘れるな)」と日本への敵愾心(てきがいしん)をあおられてきた米兵は、何のためらいもなく原爆を投下したのである。
 当時の米大統領トルーマンは、生涯にわたり原爆投下を正当化してきた。原爆による被害への謝罪と償いを求める被爆者の訴えを、歴代米政府は一貫して無視し、踏みにじり続けた。米帝はこの立場を現在も貫いている。
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