侵略の歴史くり返すな 盧溝橋事件87年 日帝は中国で何をしたか

週刊『前進』04頁(3352号03面01)(2024/07/08)


侵略の歴史くり返すな
 盧溝橋事件87年
 日帝は中国で何をしたか


 日本帝国主義が中国全土への侵略戦争に突入する発端となった1937年7月7日盧溝橋事件から87年。今、日帝はアメリカ帝国主義と共に、再び中国に侵略戦争を仕掛けようとしている。かつての戦争は朝鮮半島、台湾、中国東北部などへ侵略と植民地支配を拡大してきた日帝が、これに抵抗する中国政府を完全に屈服させると同時に、何よりも中国人民の民族解放闘争を血の海に沈めることを目的に仕掛けた侵略戦争だった。今日の中国侵略戦争は、「米帝の大没落と世界支配の危機からの巻き返しをかけた中国スターリン主義体制転覆のための侵略戦争」(革共同9回大会第2報告)であり、日帝もそれに全面参戦しようとしているのである。今度こそ、絶対に阻止しなければならない。

明治以来絶えず朝鮮・中国を侵略

 1868年明治維新によって成立した天皇制国家・日本(旧大日本帝国)は、当初から近隣諸国への侵略を第一の国家戦略とし、ただそれを通じてのみアジア唯一の帝国主義国家としてのし上がることができた。
 74年台湾出兵に続く75年江華島事件で朝鮮を攻撃し「開国」を強制した日帝は、94~95年に朝鮮を主戦場に日清戦争を展開し、朝鮮農民の蜂起(甲午農民戦争)を圧殺、戦後は清国に巨額の賠償金を支払わせ遼東半島、台湾、澎湖(ほうこ)諸島の日本領有を認めさせた(遼東半島は後に英仏ロの干渉を受け放棄)。1900年義和団事件(中国人民の反帝民族蜂起)に際しては、その鎮圧に出動した8カ国連合軍で最大の2万2千人を派兵、鎮圧後も「支那駐屯軍」と称して駐留を続けた(「支那」は中国の蔑称)。04~05年日露戦争後は遼東半島南部を「関東州」とし、06年に南満州鉄道(満鉄)を設置。10年「韓国併合」で朝鮮を植民地化し、第1次大戦では山東半島とミクロネシアの権益をドイツから奪い、15年にはさらなる権益拡大のため21カ条要求を中国政府に突きつけた。19年には満鉄付属地の警備を名目に「関東軍」を配備した。
 だが12年辛亥革命とその後の中国人民の民族解放闘争は、17年ロシア革命の衝撃を受けて歴史的高揚を迎え、19年には朝鮮の3・1独立運動に続く中国の5・4運動が爆発した。他方、日帝の大陸権益の拡大に危機感を募らせた米英は海軍軍縮条約(22年)などで日帝への対抗措置を強めた。この状況に焦った日帝は、20年代を通じて3度の山東出兵、28年には軍閥指導者・張作霖爆殺を強行するも、事態は打開されず中国人民の抗日闘争の激化と日帝の国際的孤立化をもたらすだけだった。
 日帝はこの時すでに「南満州」と内蒙古に対外投資の約7割を集中させ、この「満蒙特殊権益」を自らの生命線とみなしていた。その北方には豊富な天然資源が埋蔵されており、これらの独占的確保に大陸侵略の成否、すなわち日帝の存亡がかかっていた。こうしてついに日帝は31年9月18日柳条湖事件をもって中国東北部侵略戦争(満州事変)を開始、45年9月の降伏文書調印まで足掛け15年にわたる侵略戦争に突入した。

抗日闘争の撲滅を目的に大虐殺

 32年3月に「満州国」をでっち上げた日帝は民族解放闘争を徹底弾圧し、その撲滅のために侵略戦争を拡大、華北5省に「自治政府」をでっち上げ中国から分離した。関東軍は抵抗する者すべてを「匪賊(ひぞく=強盗や盗賊)」とみなし「討伐」の対象としたが、関東軍参謀・河辺虎四郎が「匪賊は地方住民と常に密接なる関係を維持しているから捕捉せん滅ができない」と認めたように、幾億もの人民に支えられた民族解放闘争を撲滅することなど不可能だった。
 追いつめられた日帝は、中国全土へ侵略戦争を拡大する機を伺った。そして37年7月7日夜、北京郊外盧溝橋付近の中国軍駐屯地の数百㍍前で挑発的な夜間軍事演習を行っていた日本軍が中国軍と衝突した。演習中に部隊からはぐれた日本兵が誤って中国軍駐屯地に近寄ったため警告発砲されたのを、日本軍は「不法射撃」とみなし、「膺懲(ようちょう=こらしめる)」と称して中国軍への攻撃を開始したのである。日本政府は直ちに増援部隊の派兵を決定、日本軍は同月中に北京・天津を占領し、8月14日には「支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲する」との帝国政府声明が出され、その翌日には南京への渡洋爆撃に踏み切った。
 こうして始まった中国への全面侵略戦争において、日本軍の「最大の敵」は実は中国軍ではなく、日帝の侵略に抗して不屈に戦う中国人民だった。しかも日本軍は当初から食糧や軍馬を現地住民から徴発する方針をとり、進軍先で食糧の強奪やそれに抵抗した人々の虐殺を繰り返し、捕虜もことごとく殺した。37年12月の南京陥落に至る行軍過程から陥落後にかけて引き起こされた南京大虐殺は、「天皇の軍隊」とその侵略戦争の本質的性格からして必然となったのである。
 「二、三日前捕虜せし支那兵の一部5000名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺す、其の後銃剣にて思う存分に突刺す」「年寄りも居れば子供も居る、一人残らず殺す、刀を借りて首をも切ってみた」----これは当時南京に入った日本軍兵士の陣中日記だ(清水潔著『「南京事件」を調査せよ』)。同様に恐るべき虐殺を記録した証拠は無数に残されている。日帝は8年間で百万もの軍隊を大陸に送り、南京と同じ光景を全土に広げた。特に中国共産党軍(八路軍)や抗日ゲリラの拠点とみなされた地域で、日本軍の「治安戦」と称する放火・虐殺・略奪は苛烈(かれつ)を極めた。中国人民はこれを「三光作戦(焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす)」と呼び、さらなる抗日闘争の爆発をもって応えた。さらに関東軍731部隊による細菌戦や毒ガス兵器の使用まで日本軍は平然と行った。
 だが中国人民の民族解放・革命戦争は、想像を絶する苦難の果てに、ついに日帝をはじめ全帝国主義の侵略と支配を中国大陸から一掃したのである。再びの中国侵略戦争を絶対に許してはならない。
(水樹豊)

日帝の中国侵略関連年表
1894~95年 日清戦争、台湾を植民地化
1900年 日本が義和団蜂起鎮圧のため中国に出兵
04~05年 日露戦争
06年11月 南満州鉄道株式会社設立
10年8月 日本が朝鮮を植民地化
12年2月 辛亥革命で清朝が崩壊
14年8月 第1次世界大戦勃発
15年1月 日本が中国に21カ条要求
17年11月 ロシア十月革命
19年5月 中国全土で五四抗日運動
25年5月 5・30上海ゼネスト
27~29年 日本軍が山東出兵
28年6月 関東軍が張作霖を爆殺
31年9月 柳条湖事件
32年1月 天皇が関東軍支持の勅語
  2月 関東軍が満州全土を占領
  3月 「満州国」建国宣言
  9月 日満議定書調印
33年3月 日本が国際連盟を脱退
37年7月 盧溝橋事件
  12月 南京大虐殺
39年9月 第2次世界大戦勃発
41年12月 アジア・太平洋戦争開戦
45年8月 ソ連軍が対日参戦、日帝が無条件降伏
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