沖縄を再び戦場にするな 連帯し中国侵略戦争阻止を
沖縄を再び戦場にするな
連帯し中国侵略戦争阻止を
6月23日、沖縄戦の「慰霊の日」に、平和祈念公園(糸満市)で行われた沖縄全戦没者追悼式に出席した岸田首相は、改憲・戦争阻止!大行進沖縄をはじめ沖縄人民のあふれ出す怒りの声に直撃された。この怒りに連帯し、「再びの沖縄戦」を前提として準備されている中国侵略戦争--世界戦争を絶対に阻止しよう。
6・23沖縄よみがえる「記憶」
人民の怒りが岸田直撃
「わったーうちなーんちゅは、むるわじとんどー(私たち沖縄の人は、みんな怒っている)」----式場内から岸田を直撃した怒りの声だ。外からは岸田の声にかぶさるように「岸田は帰れ!」「沖縄を戦場にするな!」と叫ぶ大行進沖縄のシュプレヒコールがたたきつけられた。式場となった公園内の一部区域はフェンスで囲まれ、入場者には金属探知機による身体検査などが実施されたが、怒りの声と行動はその規制を乗り越えて響き渡ったのだ。
式典後、岸田が乗る車列に対し「命(ぬち)どぅ宝」と書いたプラカードを掲げた女性(79)は、南部の土砂を辺野古新基地建設に使う計画について「遺骨の入った土砂を使うのは絶対にやめてほしい」と訴えた。沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さんも22日まで公園内にテントを張ってハンガーストライキ(当日は沖縄県によって禁止された)。「この地に眠る霊(みたま)の安らかなことを」とあいさつした岸田に、「首相はこの地に眠る戦没者の遺骨を土砂とともに海に埋める計画を進めようとしている本人であり、戦没者が安らかでいられるわけがない。計画を撤回し、謝罪すべきだ」と怒りを語った。
「国は有事をあおるように島の砦(とりで)化を進めているが、平和を望む県民感情は置いてきぼりだ」(沖縄戦で家族7人を亡くした85歳の男性)など、「まるで戦前だ」と沖縄戦の記憶がよみがえり、怒りの声となっている。今も2千㌧の不発弾が埋まったままの沖縄を、再び戦場にすることなど絶対に阻止しなければならない。
「命どぅ宝」「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓は戦後の沖縄闘争に貫かれてきた。米軍政下での二度の全島ゼネストを頂点とする70年安保・沖縄闘争を闘った沖縄の労働者人民は今また、中国侵略戦争阻止へ新たな闘いの扉をこじ開けようとしている。
「天皇の軍隊」賛美する自衛隊
HPに牛島「辞世の句」
「慰霊の日」に岸田にたたきつけられた沖縄の怒りの背景には、急ピッチで進む沖縄の軍事要塞(ようさい)化とともに、自衛隊による沖縄戦の賛美がある。
6月3日、那覇駐屯地(沖縄県)の陸上自衛隊第15旅団の公式ホームページに、沖縄戦を指揮した旧日本軍第32軍の司令官・牛島満の辞世の句が掲載されていることが暴露された。牛島は、追い詰められて自殺する直前に残存部隊に「最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」と命令。降伏して捕虜になることすら禁じて、全住民を巻き込みながら悲惨な戦闘を続けさせた張本人だ。「慰霊の日」=6月23日は牛島が自殺して日本軍の組織的抵抗が終わった日にすぎず、沖縄戦のさらなる地獄は9月7日に降伏文書に調印するまでの期間だった。その地獄も、「皇土防衛」を目的に沖縄を「捨て石」とする作戦(帝国陸海軍計画大綱)の一環だったのだ。この作戦を実行した牛島の辞世の句は「皇国の春に甦(よみがえ)らなむ」で締めくくられている。こんな辞世の句を掲げることに、沖縄の人民から激しい怒りが突きつけられるのは当然だ。
しかし5日、第15旅団は地元紙の取材に「削除する考えはない」「適切だと認識している」と回答。さらにその後、那覇駐屯地内の展示施設で牛島の軍服を陳列していたこともわかった。木原稔防衛相も第15旅団の姿勢を擁護し、削除や修正は一切求めなかった。
この件をきっかけに、全国で自衛隊によるアジア・太平洋戦争の賛美・正当化が立て続けに暴露されている。陸自幹部候補生学校では、沖縄戦を「日本軍が長期にわたり善戦敢闘し得た」と教育していたことが判明。陸自善通寺駐屯地(香川県)はホームページに、大日本帝国が侵略戦争を正当化した呼称である「大東亜戦争」を使っていることが発覚し、ただちに修正に追い込まれた。陸自だけでなく、海上自衛隊も展示施設で「旧海軍の誇り高い史実と伝統を後世に伝える」(舞鶴地方隊・京都府)などと記述し、例を挙げればきりがない。第15旅団の件が発覚する前にも4月には、今も「近衛連隊」を自称する陸自第32普通科連隊が「大東亜戦争」を公式SNSで使い、修正を余儀なくされた。これらについて沖縄国際大学非常勤講師の川満彰氏は、「過去の正当化を通じて次の戦争に備える動き」と警鐘を鳴らしている。
この動きは自衛隊にとどまらない。文部科学省は4月22日、中学校教科書の検定で、特攻隊の戦死を「散華(さんげ)」と美化し、学徒隊について「志願」と記載している歴史教科書2点を合格とした。これに、実際に学徒隊として動員された沖縄戦経験者から怒りが噴き出した。
しかし、これら中国侵略戦争へ向けた反動的動きは、うるま市での陸自訓練場新設計画が阻止されたように、沖縄人民を先頭に根底的な怒りを呼び起こしているのである。
加速する琉球弧の軍事要塞化
住民無視する戦争計画
2014年7月、安倍政権のもとでの集団的自衛権行使容認の閣議決定と、翌15年の安保・戦争法制定以来、沖縄での基地強化の攻撃、特に自衛隊の琉球弧(南西諸島)ミサイル基地化の攻撃は激しく進められてきた。
16年、与那国島に陸上自衛隊の駐屯地を開設して以来、宮古島、石垣島にミサイル部隊を置き、日米共同演習を繰り返してきた。
米海兵隊の「遠征前進基地作戦(EABO)」は、部隊を分散して宮古島や石垣島、奄美大島など有人島を含む南西諸島の約200の島々に展開して中国軍とミサイルを撃ち合うことを想定、島々を移動しながら中国軍を攻撃するものだ。島々は戦場となることが前提化され、住民の「生命と財産を守る」ことなどあらかじめ度外視されている。
政府は九州7県と山口県の知事に対し、宮古島や石垣島など5市町村の住民12万人を有事に避難することを受け入れるよう要請し、具体化を迫った。ミサイル基地を置いて中国を攻める戦争をやろうとしているからこその「避難計画」だ。12万人というが、12万人一人ひとりの生活があるのだ。人を何だと思っているのか。数字を右から左に動かすように簡単に言うが、EABOの作戦内容からしてもこんな計画は絵空事でしかない。
沖縄戦でも、「疎開」と称して多くの沖縄県民が本土や台湾へ強制移住させられた。学童疎開船・対馬丸は、1944年8月に鹿児島の海上で米軍の魚雷攻撃を受け撃沈、子ども784人を含む1484人が死亡した。学童疎開政策は、戦争遂行上、子どもの存在が足手まといになるから進められたものだった。
いま避難計画が練られているのはアジア・太平洋戦争時と同様に、戦争遂行に住民の存在が邪魔になるからだ。与那国島に自衛隊が駐屯を開始した際、政府は「住民の命を守るため」と言っていたが、いざ戦争となれば、守るのは住民ではなく軍隊であり、基地なのだ。それは、沖縄戦の全過程が教えている。
沖縄戦は、「国体」という名の天皇制を頂点とした帝国主義体制を守るために、そして本土への攻撃を遅らせるための時間稼ぎの戦争だった。あらかじめ本土防衛の捨て石作戦だったのだ。実際の戦争も、できるだけ長く米軍を引き止めておくことが目的化され、凄惨(せいさん)な地獄絵図が展開された。日本軍による住民虐殺や「集団自決」強制が随所で起こり、傷病兵は殺された。
沖縄戦の教訓は「軍隊は住民を守らない」だ。その沖縄で再び住民を犠牲にすることを前提に、今度は沖縄を前線基地にして構えているのである。「二度と沖縄戦を繰り返すな」「沖縄を戦場にするな」の闘いに全力で決起しよう。