団結ひろば 投稿コーナー

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週刊『前進』04頁(3340号04面05)(2024/04/15)


団結ひろば 投稿コーナー

「反核燃の日」の行動に参加
 東京 岡谷和美

 4月6~7日、青森で開催された39回目の「4・9反核燃の日」行動に参加した。
 「反核燃の日」とは、1985年、青森県知事が核燃サイクル施設の受け入れを表明した日のことだ。これによって、六ケ所再処理工場・東通原発・大間原発など原発・核施設が次つぎに計画・建設されてきた。これと一体で、大型弾薬庫の建設や演習の激化など青森の軍事化が急ピッチで進められている。これらを許さない行動として、青森市(6日)、六ケ所村(7日)での集会・デモを、青森と全国の労働組合や市民団体が闘った。
 青森の人びとは、怒りと危機感に満ちあふれていた。これは情勢が一変していることのあらわれだ。その一つは、能登半島地震に見られるように日本列島が地震の活動期に入っているということだ。「半島での地震では逃げることができない」「能登半島地震で起きたことは青森でも起きる」と、発言に立った人びとはみな「我がこと」としてスピーチしていた。
 二つには、原発再稼働の動きが切迫し、むつ市の中間貯蔵施設の事業開始が強行されようとしていることだ。この間、新潟県の柏崎刈羽原発の使用済み核燃料を7~9月に中間貯蔵施設へ搬入する計画が明らかになった。島根・女川などの原発再稼働が狙われているが、その最大のメルクマール(指針)が、柏崎刈羽原発の再稼働だ。
 事故の張本人である東京電力の再稼働など絶対に許してはならない。これは原発立地の県だけではなく、東京・首都圏の問題だ。原発再稼働は福島第一原発の汚染水放出と一体不可分の核政策を一挙に進めるための攻撃だ。闘いはこれからだ!
 ともに原発再稼働・核武装阻止の闘いに立とう。

組合が主催し婦人デー集会
 日教組香川三観地区教職員組合執行委員長 片山元久

 昨年12月のストライキで始めた24反戦春闘は、1月の星野絵画展、高松港軍港化反対デモ、ミサイル避難訓練反対の闘い、2月の軍港化を許さない県庁前行動とウクライナ反戦デモ、イージス艦の入港反対緊急行動と、闘い続けてきた。
 その中で3月10日、組合主催で国際婦人デー集会に初めて取り組んだ。集会の講師は、婦人民主クラブ全国協議会広島支部の伊豆ハルミさん。
 伊豆さんは最初に、「8・6広島暴処法(暴力行為等処罰法)弾圧を絶対に許してはならない。これこそ、まさしく戦時下だということをはっきりと示している!」「いまこそ戦争反対で立ち上がるときだ!」と訴えた。そして、「女性が立ち上がれば戦争は止められる」ことを、ロシア革命での女性の闘いを紹介しつつ明らかにした。
 戦時下では男性が戦争を担わされる。女性は社会を動かすための労働と次の世代を育てる家事労働の両方を担わされる。だから戦時下で女性は、この社会を止めることもできる存在になっていること、つまり戦争を止めることができる存在になっていることを私たちに分かりやすく話してくれた。
 「戦争を許すかどうかは自分たちにかかっている」と、新しく参加した女性が感想を述べた。また別の女性は、「この社会の主体となることと女性の解放がつながっていることがよく分かった」と語った。
 高松港軍港化で香川県知事は国の指定受け入れを表明した。しかし、闘いはこれからだ! 高松港を中国侵略戦争の出撃基地にしてはならない。24反戦春闘の後半戦を断固闘い抜くことを集会で確認して、集会を締めくくった。
 24春闘勝利に向けて、団結してともに闘おう!

許用皓同志を追悼する
 革共同兵庫県委員会

 3月22日、許用皓(ホゥヨンホ)同志が闘病の末、永眠した。85年の激動の生涯だった。
 許同志は、父親が植民地支配による生活苦ゆえに渡日し1939年に日本で生まれ、差別と貧困の中で育った労働者である。45年の日帝の敗戦後、60万人の在日朝鮮人は奪われた歴史・文化・言葉・文字を取り戻そうと民族教育を開始。48年にGHQによる学校閉鎖令・非常事態宣言、朝鮮人狩りの血の弾圧が降り注ぐ中、当時小学校2年生の許同志は官憲の目をかいくぐりビラ貼りをするなど、阪神教育闘争を闘った。
 53年朝鮮戦争の休戦後、北朝鮮は「在日朝鮮人は共和国の在外公民」と規定し、日本での階級闘争から分断し、日本共産党も国籍条項で在日を排除した。朝鮮総連の活動家だった許同志は59年の「帰国運動」の悲惨な実態や94年の金正日の世襲を見て、北朝鮮に対する信頼を大きく失っていく。95年阪神大震災で被災、仮設住宅で婦人民主クラブ全国協議会に出会い、人生が180度転換した。同胞からは「なぜ日本人のために活動するのか」と非難されたが、屈せず被災地労働運動の先頭に立った。
 2000年に、学校給食配送業務を4年間行っていたかねひろ運輸株式会社からうそとだましで解雇され、非正規職労働者として解雇撤回闘争を開始、その闘いは派遣労働者の森精機ストライキへつながっていった。
 港合同や動労千葉の階級的労働運動に学び、それを通した韓国・民主労総との結合は、「民族・国籍・国境を越えて労働者は一つ!」を体現する終生の闘いとなった。この闘いの中で、スターリン主義が労働者階級自己解放、国際連帯を否定するものであることを身をもってつかみ、革共同に結集する。さらに08年、塩川派が血債主義の立場から許同志を阪神教育闘争の生き証人として担ぎ上げる一方、かねひろ解雇撤回闘争を敗北させる裏切りを行ったことに対して、許同志は真正面から弾劾した。そして改めて革共同全国委員会に結集し、関西合同労組阪神支部を立ち上げ支部長となった。
 17年「朝鮮戦争危機」の中で78歳の許同志らに対して共謀罪先取りの弾圧がかけられた。しかし弾圧粉砕の闘いは拡大し、旭非正規職支会の仲間が判決公判に参加するなど日韓労働者の共同の闘いとなった。同年秋に「朝鮮戦争に反対する在日朝鮮人の会」を立ち上げて代表となり関西入管闘争の先頭に立った。
 関西合同労組の若い仲間は許同志の「あきらめない」「仲間を信じる」という言葉を守り、いまストライキに立ち上がっている。許同志の遺志を引き継ぎプロレタリア世界革命に勝利しよう!

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