団結ひろば 投稿コーナー 訪韓闘争に参加して
団結ひろば 投稿コーナー
訪韓闘争に参加して
籠城闘争に勇気をもらった
全学連書記長 長江光斗
動労千葉訪韓団の一員として11月9日からの訪韓闘争に参加しました。
9日には入国してすぐに明洞の世宗ホテル前での解雇撤回の籠城(ろうじょう)現場を訪問し、道路を占拠しての集会で私は「資本を恐怖させる籠城闘争に勇気をもらいました。日本の労働者・学生は、韓国の仲間を搾取する日帝企業、原発汚染水を放出し戦争に突き進む岸田と徹底的に闘います」とアピールしました。
10日には、非正規職労働者による前夜祭に合流。建設労働者の事故死に責任を取ろうとしない元請け企業を追及する闘いは、不当な逮捕弾圧にも揺らいでいません。
11日の全国労働者大会には、想像していた数倍の規模の仲間が集まり、道路を埋め尽くしていました。
12日の理念交流会では、言語の壁を越えて重要な討論がされました。2003年にイラク戦争情勢下ではじまった韓日の労働者のつながりが、現在の戦争情勢の下で、米日韓軍事同盟を粉砕し世界戦争を止める力となって結実していることを感じました。
その他にも、日帝植民地時代の人民抑圧と抗日闘争、戦後の民主化闘争の歴史にも触れ、チョンテイル烈士が労働者の解放のために自己犠牲的に闘った精神を継承することの意味がよく分かり、その精神は星野文昭さんの生きざまにも重なると感じました。
次世代の全学連を担う学生とともにこれらの闘争を経験できたことが何よりの宝です。韓日の階級闘争の歴史を引き継ぎ、国際連帯で戦争を止めましょう。
殺された仲間の継承に感銘
中央大学 渡辺 良
11月9日から14日までの6日間、訪韓団の一員として韓国を訪れました。韓国の労働運動でまず衝撃を受けたのは、なによりもその規模の大きさです。
11日の労働者大会では片側4車線ほどの大通りをクレーン車で完全に封鎖。仲間から「ここからここまで人がいる」と地図で示されたときには、人の多さにただただ笑ってしまうほかないほどでした。
もう一つ印象的だったのは、闘いの中で資本・国家権力によって虐殺された仲間を追悼し、記憶し、継承することをかなり意識的に追求していることです。前夜祭のスローガンにも「労働中の死者をゼロに」が掲げられ、演壇と並んで大きなテントが建てられており、そこには黒く縁取られた労働者の写真と焼香台、記帳台が据えられ、過酷な労働現場の中で亡くなった下請けの労働者を追悼していました。
ソウル市内には焼身自殺したチョンテイル烈士や1987年6月の民主化闘争中に水平撃ちされた催涙弾によって虐殺されたイハニョル烈士、治安本部対共分室で拷問によって虐殺されたパクジョンチョル烈士の記念館もあります。直接・間接を問わず資本・国家権力によって命を奪われた仲間を運動全体で記憶し、継承する運動の在り方に私は(ある意味では単純な数の多さ以上に)感銘を受けました。
韓国のような数万、数十万規模の巨大な反戦闘争を日本でつくり出すため、訪韓闘争で得たものを明日からの闘争に生かしていきたいと思います。
戦争阻む力を肌身で感じた
京都大学 飯田駿介
私は11月9日から13日にかけて訪韓闘争に参加した。ここで感じたのは、闘争としてのスケールの大きさと、闘争を形作ってきた労働者階級の闘魂の力強さだった。
11日に参加した労働者大会は自分が感じていた限界を突き破るものだった。労働者5万人が4車線を占拠して集会を行い、労働者による「ユン政権退陣せよ」の声がとどろいていたことにまず圧倒された。5万人もの労働者が実力でユン政権退陣の闘いに決起していること自体が、普段(悔しながら)日本で感じているスケール感をぶち破るものだった。チョンテイル烈士の闘いや光州蜂起、民主化における闘いなど、権利とは自分たちでつかみ取るものなのだという労働者階級の強烈な階級意識を感じさせるものでもあった。
また、日本で闘う自分自身も展望をつかめる闘争だった。私が普段自分の大学で活動する時、一つ一つの闘いの一致をつくり、共に行動する仲間を決起させていくのはそう簡単なことではなく、一緒に活動する仲間とも路線を巡って激しく議論になることもある。当然、民主労総としても全てが順風満帆ではなかったはずである。しかし、自らの路線を貫いて韓国労働者階級の全体を獲得してきた民主労総の闘いは、日本で闘う私たちにも、闘う路線を貫けば労働者階級は獲得できるのだという展望を示してくれるものだった。
今回の訪韓闘争は労働者階級の国境を越えた連帯こそが資本主義を打倒し、戦争も止められるのだと改めて肌身で感じた闘いだった。韓国労働者階級と連帯し、戦争を止めよう! トゥジェン(闘争)!
韓国女子学生の言葉に同感
京都大学 大槻光莉
初めて訪韓闘争に参加してきました。滞在中の最も大きなイベントであった労働者大会では、数万人の労働者・学生が「ユンソンニョル退陣」を訴えてデモ行進をする様子にただただ圧倒されました。あれだけの数の人々を集めているのが、民衆の広い支持を得ている支配者でもポップスターでもなく、名もなき労働者たちであるということに、労働者の団結の力を感じました。
労働者大会の後、韓国の学生同志と交流する機会があったのですが、そこで私と同い年の女性で、運動に関わるようになってからまだ日が浅いという、私と共通点の多い方と出会いました。彼女は、既存のフェミニズム運動などが当事者の権利だけを守るものに収れんしてしまっていることに疑問を感じ、社会全体の構造を変える必要があると思って運動を始めた、と話していました。私が運動に関わるようになってからの約半年間でつかんできた内容が、その日初めて出会った異国の学生から出てきたことに、「労働者に国境はない」と肌で感じました。
今回私が訪れたソウルでは、街中の至るところに政治的な内容の横断幕や看板があり、中にはユン政権を批判するものもありました。大学に立て看板を設置することすら許されない日本とは違い、政治と日常が切り離されていないことに驚きました。戦前・戦後の朝鮮の民衆が命がけで権力と闘ってきたことの表れであり、自分も大学を反戦の砦(とりで)にするため、闘わなければならないと気が引き締まりました。
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一ノ瀬憲明同志を追悼する
東京 志村大地
9月26日早朝、一ノ瀬憲明同志が逝去しました。一ノ瀬同志は1947年長野県辰野町に生まれ、66年山梨大学工学部に入学。67年砂川闘争、10・8羽田闘争から佐世保、三里塚、王子野戦病院反対の激動の7カ月を闘った後、全学連中央執行委員に就任しました。
68年末の山梨大学バリケード封鎖闘争を闘い、69年1月東大闘争では安田講堂死守の闘いに決起しました。至近距離からガス銃の水平撃ちを受け顔面破壊・骨折の重傷を受けながらも最後まで闘い抜きました。
回復後は70年安保沖縄闘争を闘い、その後は山梨県反戦青年委員会運動建設の闘いの先頭にたちました。
70年闘争直後から、対カクマル戦争の激化の中で党本部防衛と党建設の闘いの最先端の任務を担い、75年3・14本多延嘉書記長の虐殺の中で嵐のような報復戦争を闘い抜きました。
狭山闘争を軸に据えた部落解放闘争、朝鮮・中国・アジア人民との国際連帯をかけた入管闘争、女性解放闘争などの課題を一ノ瀬同志は最先端・最重心で担い抜きました。その後白血病との格闘になりましたが革命にかける情熱は最後まで衰えず、今年9月の革共同集会にも参加しました。最後の会話は急死した前日ですが、山梨大学の3年後輩のW氏と11月集会への参加のことでした。
本当に一途に革命の勝利のために生涯を捧げきった一ノ瀬同志に心からの追悼の言葉を捧げます。彼の直ぐ側には星野文昭同志も眠っています。一ノ瀬同志とともに11月労働者集会の勝利を闘います。