ガザ地上侵攻=大虐殺を許すな パレスチナ人民と連帯し闘おう 11・19国際反戦大闘争へ

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週刊『前進』04頁(3316号03面01)(2023/10/24)


ガザ地上侵攻=大虐殺を許すな
 パレスチナ人民と連帯し闘おう
 11・19国際反戦大闘争へ

(写真 数千人がデモに参加し、イスラエルを支援するイギリス政府を弾劾。ガザへの爆撃をやめろと叫んだ【10月14日 ロンドン】)






 イスラム抵抗運動「ハマス」を主力とするパレスチナの武装解放勢力が決行した10月7日の蜂起に対し、イスラエルはパレスチナ自治区ガザへの無差別報復空爆を開始、220万人が生活するガザへの水・食料・燃料・医薬品などの供給を断つ暴挙に出た。民家、学校、支援施設、病院や救急車まで空爆の標的とされ、15日時点で100万人以上が避難民となり、17日にはガザ北部の病院が爆撃され471人(ガザ保健省発表)が虐殺された。さらに地上軍によるガザ全面侵攻と人民虐殺が準備される中、「ガザの人々を殺すな!」「侵攻をやめろ!」と叫ぶ反戦デモが全世界で一斉に爆発している。われわれ日本労働者階級は、パレスチナ人民の民族解放・革命戦争と固く連帯し、反戦闘争の巨大な爆発でこれに応えなければならない。

10・7蜂起はなぜ起きたか

 「アルアクサの洪水」と名づけられた10・7蜂起は、アメリカ式の最新兵器で武装したイスラエル軍と世界最高水準の諜報(ちょうほう)特務機関・モサドに空前の大敗北をもたらした。アメリカ帝国主義とイスラエルによるパレスチナ・中東支配は修復不可能な根底的大打撃を被り、今や歴史的な大崩壊の過程に突入した。
 10・7が突きつけたものは何か。75年におよぶ暴虐の歴史を通じて蓄積されたパレスチナ人民の根源的怒りと民族解放への不屈の意志であり、同時にまた、2007年以来封鎖状態にあるガザおよびヨルダン川西岸で現に行われている民族抹殺政策への怒りが、すでに臨界点を超えていたという事実である。この事実を無視して「ハマスのテロ」のみを非難し「イスラエルの自衛権」を擁護する米帝はじめ帝国主義やゼレンスキーらの発言は、最も卑劣な欺瞞(ぎまん)であり、イスラエルに対してさらなる大量虐殺(ジェノサイド)を促す極悪の犯罪的主張にほかならない。
 「天井のない世界最大の監獄」と呼ばれるガザでは、220万人を超す住民が封鎖壁の中に閉じ込められ、水、食料、燃料、医療品などの慢性的な欠乏と失業率50%超の極限的な貧困に追い込まれ、支援団体からの援助物資でかろうじて命をつなぐ状態を強いられてきた。これ自体が驚くべき人権蹂躙(じゅうりん)であり、民族差別的隔離政策そのものだが、さらにイスラエル軍はガザ地区を実効支配するハマスの掃討と称して08年、09年、12年、14年、21年に大規模な空爆ないし地上侵攻を行い、それ以外にも大小無数の軍事作戦を展開し、民間施設をも標的にした人民虐殺を繰り返してきた。だが、イスラエルの蛮行は何ら責任を問われることもなく、アラブ諸国が国連安全保障理事会に提出した非難決議や市民保護決議すらアメリカの拒否権でことごとく否決されてきた。
 このガザ封鎖と並行して、もう一つのパレスチナ自治区であるヨルダン川西岸地区へのユダヤ人入植地の建設が進められた。とりわけ極右政党との連立による第6次ネタニヤフ政権(昨年12月成立。「イスラエル史上最右翼の政権」と呼ばれる)のもとで急激な入植地拡大が進められ、抵抗した人々への暴行・逮捕・監禁・拷問そして虐殺が激増した。エルサレム旧市街の礼拝堂「アルアクサ・モスク」へのイスラエル武装警察の突入と大量逮捕に続き、7月には「過去20年で最大の軍事作戦」とされるジェニン難民キャンプへの大規模急襲作戦が行われた。極右政権と呼応して入植者らもパレスチナ人村落への武装襲撃を激化させ、暴行、略奪、虐殺、家屋・車・農地への放火など蛮行をほしいままにした。マスコミはハマスの攻撃で「罪のない民間人が殺された」などと報じているが、自治区への入植者らは事実上、軍や治安機構と一体の武装襲撃部隊であり、パレスチナ人民にとっては侵略者・殺戮(さつりく)者にほかならない。パレスチナ人の排除と土地強奪はイスラエル「建国」過程に限ったことではなく、現在進行形で続いているのである。帝国主義が好む言葉をあえて使うなら、これこそ明白な「国際法違反」であり、「力による現状変更」以外のなにものでもない。
 08年以来のイスラエル軍の攻撃や大小の衝突で発生した死傷者の数を見ただけで、イスラエルの圧倒的軍事力でどれほど多くのパレスチナ人が一方的に殺戮されてきたかは明白である(図)。イスラエル「建国」70年となる18年に起きたガザ住民のデモに対しても、イスラエル軍は武装勢力に対するのと同様の銃撃を含む徹底弾圧で応え、おびただしい死傷者を出した。これらの暴虐と侵略が極右ネタニヤフ政権下で一挙にエスカレートする中、米帝は中国に対抗するためイスラエルとサウジアラビアの国交正常化を仲介するなど、パレスチナ問題の無視・抹殺とパレスチナ人民への見殺しを意味する「イスラエルとアラブ諸国との関係改善」を進めた。
 この極限的な状況下で10・7蜂起は爆発した。封鎖下のガザで生まれ育ち、その生存と未来と人間的尊厳の一切を踏みにじられてきた青年たちがこの蜂起を決行したという事実が、すべてを物語っているのだ。

イスラエル建国と中東侵略

 「パレスチナ問題」の発端は、石油資源の強奪と中東支配のために、帝国主義がシオニストを先兵としてパレスチナを侵略し、2千年以上にわたり先祖代々その地に暮らしてきた人々を暴力的に追い出して「イスラエル」という軍事基地国家をでっち上げたことにある。したがってそれは帝国主義の中東侵略・中東支配の問題であり、「宗教対立」とか「アラブ人とユダヤ人の対立」といった問題では断じてない。
 そもそも今日のイスラエルの「建国理念」となっているシオニズム----すなわち『旧約聖書』の記述を唯一の根拠として、2千年前にユダヤ人がそこに住んでいたとされる「シオンの丘」=エルサレムに帰還して「ユダヤ人国家」を建設しようという荒唐無稽(こうとうむけい)な思想は、当初はユダヤ人・ユダヤ教徒の間でほとんど問題にもされない極少数派のカルト思想にすぎなかった。ところが中東で石油が発見された20世紀初頭、旧オスマントルコ帝国領パレスチナを委任統治下に置いたイギリス帝国主義が、ユダヤ人の大富豪でロンドン・ユダヤ人協会会長のロスチャイルドに「ユダヤ人の民族的郷土をパレスチナに樹立することに賛同する」との書簡(「バルフォア宣言」、1917年)を送り、中東侵略の手段としてユダヤ人の入植を推進。シオニズム運動はこの英帝の中東侵略政策と結びつくことで台頭し、巨額の援助と便宜供与を得てパレスチナ移住と土地の買い占めを進めた。さらに重要なことは、シオニズムが1930年代以降、ナチスと極めて密接な協力関係にあったことだ。
 ユダヤ人の圧倒的多数が自分の生まれた国・社会の一員として生きていくことを求める中、そこを出て「ユダヤ人国家」をつくるべきだと主張するシオニストはユダヤ人排斥を進めるナチスと進んで協力した。世界シオニスト機構(WZO)はナチスと通商協定(ハーバラ協定)を結び、裕福なユダヤ人が金と引き換えに身柄と資産をパレスチナへ移すことをナチスに認められた。さらにはナチス党員を船長とするドイツ客船でユダヤ人のパレスチナへの大量移民を進めた。
 そして第2次大戦後、基軸国・米帝にとって中東石油の独占的確保とそのための新植民地主義体制の確立が絶対的課題となる中で、米帝は「ユダヤ人国家」=イスラエルの建設に全面的に乗り出し、47年11月の国連総会でパレスチナ分割案=決議第181号を強行成立させた(ソ連スターリン主義は真っ先に賛成)。それは全人口の3分の1に満たないユダヤ人にパレスチナ全土の56%、それも灌漑(かんがい)された土地の83%を含む最も肥沃(ひよく)な土地を与えるものだった。これに暴動的決起で抗議したパレスチナ人民は徹底的に弾圧・虐殺され、48年5月のイスラエル「建国」前に40万人の難民が発生。そして第1次中東戦争でアラブ諸国がイスラエルに敗れた結果、パレスチナ人に残された土地は国連決議からさらに縮小され、ガザ(エジプト領)とヨルダン川西岸(ヨルダン領)のみとなった。さらに第2次、第3次中東戦争を通じて米帝はイスラエルを全面的に支援し強化した。
 だが、パレスチナ解放機構(PLO)を結集軸とする民族解放闘争は、「ファタハ」や「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」といった武装解放勢力のゲリラ闘争となって爆発し、人民の熱烈な支持に支えられて果敢に闘い抜かれた。これに対し、米帝=イスラエルは周辺国に圧力をかけてPLOの根拠地を破壊する内戦を仕掛けさせ、自らも侵略戦争に乗り出した。第4次中東戦争後のエジプトの屈服を挟んで、PLOは71年にヨルダンからレバノンへ、レバノン戦争(第5次中東戦争)後の82年にはチュニジアへ撤退。そのたびに大量のパレスチナ難民が虐殺され、新たな難民が発生した。
 だが不屈のパレスチナ人民はPLOの弱体化と屈服の後も闘い続け、87年12月には投石で戦車に立ち向かうインティファーダ(民衆蜂起)がガザと西岸地区で爆発、ゼネスト、イスラエル製品ボイコット、納税拒否など組織的な闘いを繰り広げた(ハマスはこの過程で運動の主導権を握り勢力を拡大)。この闘いは6年にわたって続き、イスラエルの占領統治が崩壊の淵に追い込まれる中で、93年にクリントン米政権がパレスチナ人民に譲歩するかのようなポーズをとって仲介に乗り出し、「パレスチナ暫定自治」をイスラエルに認めさせる「オスロ合意」を成立させた。だが、合意に基づく自治や将来の「パレスチナ国家」樹立へのプロセスなどは結局、イスラエルによって傲然(ごうぜん)と踏みにじられ、自治区への攻撃と入植地建設が推し進められた。

米帝の世界支配は大崩壊へ

 苛烈(かれつ)な弾圧と土地強奪を続けるイスラエルに対し、パレスチナ人民は第2次(97〜98年)、第3次(2000〜05年)インティファーダに決起。イスラエル軍の圧倒的な軍事力の前に一歩も引かず抵抗し、10代の少女が爆弾を抱えて戦車に飛び込む自爆戦闘を決行するなど、すさまじい死闘を繰り広げた。追い詰められたイスラエル軍はもはやガザ占領を維持できなくなり、05年にガザからの「撤退」とユダヤ人入植地の撤去を行った。だがその後もイスラエル軍はガザ周辺の包囲を続け、06年総選挙でハマスがガザ第1党となると、07年から全面封鎖を強行したのである。
 以上のような歴史的経緯と現状を見据えたとき、今日のパレスチナ解放闘争がどれほど激烈な形態をとろうと、またそれによってどんな結果が引き起こされようと、その全責任を負い徹底断罪されるべきは米帝=イスラエルとその同調者・擁護者どもであることは明白である。10・7蜂起は、パレスチナを蹂躙し続けた米帝=イスラエルと全帝国主義に対する渾身(こんしん)の弾劾であり、そしてまたパレスチナ人民の血の叫びを冷酷に無視してきた偽善まみれの「国際社会」への根底的告発にほかならない。10・7は起こるべくして起こったのであり、それは残忍極まる民族抑圧と侵略戦争によって成り立つ帝国主義とスターリン主義の世界支配の打倒----言い換えれば、今やその最後的崩壊が世界戦争へと転化し始めた戦後世界体制そのものを根底的に変革する世界革命を完遂すること、それ以外にいかなる決着もないということを全人類に突きつけているのだ。
 日本共産党スターリン主義は10日付の志位和夫委員長の談話で、ハマスの戦闘を「国際人道法違反」として「強く非難」する一方、イスラエルのとった措置は「正当化できない」「問題がある」などと述べるにとどめ、「双方は最大限の自制をすべき」と論じた。このような仲裁者気取りの傲慢な「どっちもどっち」論(というより明らかにハマスの方を非難しているのだが)は、結局のところ圧倒的な暴力を独占する支配者・抑圧者の蛮行を免罪し、被支配者・被抑圧者に対してはどんなささやかな抵抗も自制=放棄するよう要求するものでしかない。その規模も目的も階級的性格もまったく異なる両者の「暴力」を同列に置いて論じること自体が欺瞞であり支配階級の論理なのだ。
 日本帝国主義・岸田政権は中東情勢に対し「バランス外交」などという欺瞞的な対応をとりながら、イスラエルを全面擁護してきた米帝と一体となって中国侵略戦争を準備している。米帝の側からこの戦争策動を全力で進める駐日米大使エマニュエルは生粋のシオニストで、イスラエル軍の元軍人だ。絶対に許すことはできない。
 すでに世界中の労働者階級人民はイスラエル軍のガザ地上侵攻の切迫に対して人間的怒りに燃え、猛然と反戦闘争に決起している。日本においてもイスラエル大使館への徹底抗議闘争をはじめ10〜11月反戦闘争のさらなる爆発をかちとり、11・19国際反戦大集会の歴史的な大成功を実現しよう。ウクライナ、中東、東アジアの3正面で火を噴く世界戦争をプロレタリア世界革命へ転化しよう。
〔水樹豊〕

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パレスチナ問題関連年表
1918年  英、パレスチナ占領統治を開始
47年11月 国連でパレスチナ分割決議
48年5月 イスラエル「建国」
     第1次中東戦争(~49年4月)
56年10月 第2次中東戦争(~57年3月)
64年5月 パレスチナ解放機構(PLO)創設
67年6月 第3次中東戦争
70年9月 ヨルダン内戦
71年7月 PLO、ヨルダンからレバノンへ撤退
73年10月 第4次中東戦争
75年4月 レバノン内戦(~76年10月)
82年6月 第5次中東戦争(レバノン戦争)
  8月 PLO、チュニジアへ撤退
87年12月 第1次インティファーダ(~93年)
93年5月 オスロ合意
94年5月 パレスチナ暫定自治政府発足
97年   第2次インティファーダ(~98年)
2000年  第3次インティファーダ(~05年)
01年9月 9・11反米ゲリラ闘争
  10月 アフガニスタン侵略戦争(~21年8月)
02年3月 イスラエル軍、ヨルダン川西岸侵攻
03年3月 イラク侵略戦争(~11年12月)
07年6月 イスラエル、ガザを全面封鎖
08年3月 イスラエル軍、ガザ侵攻
  12月 イスラエル軍、ガザ侵攻(~09年1月)
12年11月 イスラエル軍、ガザ空爆
14年7月 イスラエル軍、ガザ空爆
21年5月 イスラエル軍、ガザ空爆

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