団結ひろば 投稿コーナー

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週刊『前進』04頁(3301号04面04)(2023/07/04)


団結ひろば 投稿コーナー

広島現地で奪還闘争に決起
 全学連 吉田 耕

 5月17日〜21日にわたって広島現地で闘われたサミット粉砕闘争に対し、国家権力が行った逮捕・弾圧は打ち砕かれ、全ての不当逮捕された仲間が奪還されました。むしろ弾圧によって新たに運動に合流する人々が生まれました。今回、私も参加した広島現地での奪還闘争は「攻めの奪還闘争」とも言える広がりを感じる闘いになりました。連日、広島市内中心部の本通や広島地裁前で街宣をやり、警察署や検察庁前での抗議行動を行う中でさまざまな出会いがありました。
 逮捕のことを知り怒る人、不当逮捕の動画を見たという人など、老若男女さまざまな人々と議論になり、怒りと支援が広がっていくのを肌で感じることができました。特に被爆者の方の激励は一つや二つではなく、ある男性は「自分は『はだしのゲン』のゲンと同じ年齢の時に被爆した。気合の入った学生が反戦を訴えているのはうれしい」と話してくれました。
 他にも街宣中に「前進」の定期購読をしたいと申し出る人など、書ききれないほどの反応がありました。
 こうした闘いに追い詰められた広島県警は、最初のうちは警察署前での行動に対して弾圧をしていましたが、日に日に意気消沈していき、最終的には姿すら見せなくなりました。連日新たな学生が街宣や抗議行動に決起するのを目の当たりにしたことによる動揺です。サミットに違和感や怒りを持つ広島の人々の怒りと結びつくことで切り開いた勝利でした。広がった団結の力で、8・6広島―8・9長崎の反戦反核闘争も成功させましょう。

国鉄集会で勇気をもらった
 全学連 今井治郎

 6月18日に行われた国鉄闘争全国集会に参加しました。全国の現場で闘う仲間からの決意表明では、奈良市従業員労組の吉谷宏子さんの懲戒解雇撤回を求める裁判での逆転勝利判決やコンビニ関連ユニオン・河野正史委員長の労働委員会での勝利など、階級的労働運動の実践が具体的な勝利に結びついていることが報告されました。昨年11月の全国労働者集会で動労千葉・関道利委員長が語っていた「階級的団結・階級的労働組合をつくることは絶対に可能だ」という言葉を体現する闘いに本当に勇気をもらいました。
 「官製春闘」の下、連合は実質的には賃上げ闘争すら闘わず、連合を支持基盤とする立憲民主党も、今国会で「防衛装備品生産基盤強化法」に賛成するなど許しがたい戦争推進勢力としての正体をあらわにしました。一方で、戦時下インフレで生きられない労働者が膨大な数生み出され、今年の春闘では全国にストライキの波が広がりました。
 立ち上がった労働者に明確な回答を示せるのは、国鉄闘争を軸とする階級的労働運動だけです。かつて国鉄分割・民営化の首謀者・中曽根康弘が「行革でお座敷をきれいにして立派な憲法を安置する」と語ったように、労働者への弾圧と戦争政策は一体です。
 岸田政権の改憲攻撃が強まっている今こそ、「あと一歩」まで近づいている国鉄運動の勝利が決定的です。

続発する警察官の拳銃自殺
 東京 田宮龍一

 1月16日、板橋区の警視庁高島平署のトイレで、同署地域課の男性巡査部長(40)が拳銃自殺した。
 1月27日、千代田区永田町の自民党本部隣のビル内で、警視庁特科車両隊の男性機動隊員(39)が拳銃自殺した。
 3月20日、福島県警二本松署の更衣室で女性巡査長(34)が拳銃自殺した。
 3月23日、岐阜県警加茂署坂祝(さかほぎ)駐在所のトイレで、同署地域課の男性巡査長(26)が拳銃自殺した。
 4月11日、福島県警福島警察署東分庁舎のトイレで交通一課の男性係長(45)が拳銃自殺した。
 5月5日、永田町の首相官邸守衛所トイレで、警視庁第4機動隊の男性巡査(25)が拳銃自殺した。
 5月13日、警視庁新宿警察署の13階から、地域課の30代の男性巡査長が飛び降り自殺した。
 今年に入ってこれだけの若手警察官が拳銃を用いて、あるいは自らの職場で命を絶っている。原因は間違いなく警察職場の暴力支配、パワハラであろう。警視庁や警察庁は原因究明や対策にのり出す素振りもなく、華々しくサミット警備や対テロ訓練などを行うことで隠ぺいを図ってきた。
 2015年10月に寮の自室で自殺した兵庫県警の機動隊員(当時24)は、複数の先輩から激しい暴力、いじめを受け続けていた。両親が起こした賠償請求訴訟で父親は、生前に息子が「警察組織は腐っている」と憤っていたと語った。
 そして昨年の全国警察職員の懲戒処分者数276人のうち、千葉県警が35人で1位(女性に暴行、盗撮、賭博、火事の実況見分中の窃盗、大麻所持など)。
 岸田政権が戦争政策を進める中で、われわれへの政治弾圧に差し向けられる暴力装置・国家権力は、とてつもない危機と腐敗を深めている。

宮里勝博同志を追悼する 
革共同東京南部地区委員会

 5月30日、5年半にもわたってがんと格闘してきた宮里勝博同志が、その生涯を階級闘争・革命闘争に注いで逝去した。享年67。
 G7広島サミット粉砕闘争勝利の報告が、病床での〝最後の会議〟となった。病床で口癖のように訴えていたことは、南部地区党の青年指導部建設だったが、その大きな手掛かりをG7サミット闘争でつかんだ。宮里同志は、いよいよ青年指導部建設に着手できると満面の笑みで喜んでいた。
 宮里同志は、在本土沖縄青年委員会の責任者として奮闘した。「沖縄県民は既成事実・反動に負けず何度でも決起する」と語り、その不屈の精神を宮里同志は自ら体現し、沖縄県民に深い信頼を寄せた。
 宮里同志は、「沖縄の闘いを本土に」「本土の闘いを沖縄に」と奮闘し、マルクス主義を貫く労働者の階級的団結論をもって変革・飛躍した。その転換点が、訪韓闘争で民主労総との国際連帯闘争を学び、実践したことだと語っていた。旭非正規職支会を始めとする日本遠征闘争には、必ず宮里同志の姿があった。
 宮里同志は沖縄・宮古島で生まれ、1967年10・8羽田闘争から始まる70年沖縄・安保闘争の息吹の中で反戦高協に参加。以来〈戦争反対〉〈国際連帯=労働者の国際的団結〉に全エネルギーを注ぎ、革命家として人生を全うした。
 宮里同志は、人生の後半をなんぶユニオン委員長として指導力を発揮した。独特のけんか口調であるが、決断力があり、人に人として向き合う姿勢と思想は終生変わらなかった。労働相談・争議の先頭に立ち、労働者の組織化に全力を挙げた。がんとの格闘中も労働相談のユニオン旗を掲げて大井・大森・蒲田駅街宣の先頭に立ち続けた。
 宮里同志は、命の限りを尽くして沖縄の解放戦士として闘い、革命家として生涯を全うし、死して再び沖縄・宮古島に戻り、米日帝による中国侵略戦争を阻止する最前線で檄(げき)を飛ばしている。
 同志宮里! 私たちは宮里魂を受け継ぎ、8・6広島―8・9長崎反戦反核闘争を全力で闘うことを誓い、追悼の言葉とします。

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