十亀弘史の革命コラム-5- 何が「最も卑劣な暴力」か

発行日:

週刊『前進』04頁(3294号04面04)(2023/05/15)


十亀弘史の革命コラム-5-
 何が「最も卑劣な暴力」か

 岸田首相に鉄パイプ爆弾が投げつけられてからしばらくの間、またもや「暴力は民主主義の敵」といった言論がテレビや新聞に氾濫(はんらん)しました。しかしもちろん、少数者による階級支配を維持しようとする現状の「民主主義」は、巨大な暴力によってこそ支えられています。軍隊と警察と監獄がその「合法的」な暴力のための典型的な実力装置です。どの「民主主義」国においても、軍隊は、戦争を準備し、戦場で殺戮(さつりく)を続け、核兵器によって無差別に市民を殺しさえします。警察は、実弾やガス弾を発砲し、人を殴りつけ、でっち上げによってでも人の自由を奪います。監獄は、刑務官による暴言や暴行を常態化させ、奴隷労働を強制し、医療放棄などによって人を死に至らせます。人の命と身体に行使される直接的な暴力そのものです。
 「合法的」とされるそのような暴力こそが、最も広範囲に及ぶ、最も冷酷な暴力であり、また、その結果に誰も責任を取らないという点で、最も卑劣な暴力です。「暴力は民主主義に敵対する」などと平然と口にしている人たちは、民主主義も暴力も何一つ知ろうとしていません。
 先日、ストックホルム平和研究所が、〈22年の世界の軍事費は総額約300兆円で過去最高〉と発表しました。0が14個もつく天文学的な巨額です。しかも、その人殺しの予算が、年々増え続けています。階級社会がグロテスクな暴力にまみれた「人類の前史」でしかないことが露(あら)わに実感されます。
 しかし、大いなる希望もあります。国家の最大の暴力装置である軍隊の兵士たちは、ほとんどが労働者階級に属しています。すなわち、階級支配を覆すために、自らの銃口を、戦争を強いる国家に向け返すことができるのです。例えば、戦艦ポチョムキンの水兵たちがオデッサの労働者や学生と共に、実力によって専制支配を打ち倒そうとしたようにです。反乱に参加したフェリドマンが書いています。「今日のところ、ポチョムキン号は前衛部隊にすぎない。だが、明日は、この戦艦に守られて革命軍の数百の大隊が結成され、専制政治の砦(とりで)を強襲するにちがいない」(『ポチョムキンの水兵たち』三一書房)。
 戦争の時代には、同じ反乱がどこにでも起こり得ます。そして、その先にこそ、暴力や、暴力を伴う「民主主義」などが消え去る世界、階級支配のない「人類の本史」が開かれます。
(そがめ・ひろふみ)

このエントリーをはてなブックマークに追加