5・15沖縄 怒りのデモ、岸田を直撃 米日の中国侵略戦争を阻め
5・15沖縄
怒りのデモ、岸田を直撃
米日の中国侵略戦争を阻め
5月14〜16日、「復帰」50年の5・15沖縄闘争が青年・学生を先頭にかちとられた。日米帝国主義は5・15を「祝賀」の日に変え、中国侵略戦争へのステップにしようとしたが、積み上げられた沖縄の怒りと固く連帯した15日の記念式典弾劾デモを頂点に、その狙いを完全に打ち砕いた。14日に国際通りデモと「復帰」50年沖縄集会、15日の夕方には青年労働者集会、学生集会、星野全国交流集会がそれぞれ行われ、16日は辺野古現地闘争が闘われた。(関連記事3面)
全学連・青年労働者を先頭に式典会場に迫る
マスコミの連日の宣伝と天皇まで動員したキャンペーンが張られても、5月15日の沖縄の街には「復帰50周年」を祝うムードは皆無だった。地元紙は「復帰」当時の記事を引用し、基地の島の変わらない現実を訴えた。岸田が出席する記念式典会場(コンベンションセンター)は警備のために多くの機動隊を割くはめとなり、辺野古の基地建設は直前の数日間止まった。70年安保・沖縄闘争の歴史を引き継いで積み重ねられた沖縄の怒りと闘いは、日帝・岸田を直撃したのだ。
この日、「改憲・戦争阻止!大行進」の呼びかけで集まった沖縄現地を始めとする全国の労働者・学生は宜野湾市の上大謝名さくら公園に結集し、今年の5・15沖縄闘争の意義を改めて確認して式典弾劾・岸田打倒のデモに出た。公園はフェンス1枚を隔てて普天間基地と隣接し、周辺は基地被害の象徴となっている地域だ。デモには多数の飛び入りがあった。ベランダなどから顔をのぞかせて手を振る人も多く、「ビラを受け取るな」という右翼の街宣車の言葉など誰も耳を貸さず、多めに用意したビラはほぼなくなった。世界戦争情勢と対決し結集したデモ隊の士気は高く、その活気は、沖縄の怒りの先頭で情勢をこじ開けるものとなったのだ。
式典会場そばに到着したデモ隊は、赤嶺知晃全学連委員長を先頭に、学生と青年労働者がけん引して記念式典弾劾の行動に直ちに移った。会場に迫る参加者の前に機動隊は不当にも阻止線を張って横断歩道を封鎖したが、熱気にあふれた参加者は止まらない。すでに式典会場前で抗議を行っていた人々も拍手を送って加勢し、機動隊はたまらず大型バスで道路をふさぐ弾圧に出た。参加者から怒りのシュプレヒコール、そしてアピールが相次いだ。
「目の前に広がる現実こそ50年変わらない沖縄の現実だ。再びの侵略戦争など絶対に許さない」「沖縄戦を経験してきた人々の思いを無駄にするな。この怒りは必ず広がる。覚悟しろ」「戦争反対を叫ぶと弾圧されるロシアといったい何が違うんだ」「沖縄出身として言いたい。いつまでこんなことを続けるのか。ペテン的な『復帰』を絶対に許さない。労働者として、団結して闘っていく」
怒りの声が式典と岸田を直撃し続けた。岸田は、式典で辺野古基地建設に触れることもできなかった。そして弾劾行動を避け会場脇から何台もの白バイに警護されて逃げ帰った。沖縄戦と沖縄売り渡しの元凶である天皇は、他人事のように「(沖縄には)さまざまな課題がある」などと言って開き直ったのだ。
「復帰」50年目の5月15日は、沖縄と本土の人民が団結して、沖縄を中国侵略戦争に動員することなどできないことを、日米帝国主義にたたきつけた歴史的な日となった。
辺野古 500人が阻止行動
沖縄闘争3日目の16日、吹きすさぶ雨の中で辺野古新基地建設阻止の現地行動が闘われた(写真3面)。全国から結集した500人が名護市の米軍キャンプ・シュワブゲート前で弾圧に来た機動隊と対峙し、工事の土砂搬入を阻止した。
ゲート前で赤嶺全学連委員長は「中国侵略戦争が狙われている今こそ反戦と辺野古新基地建設反対を訴えたくてここに来ました」とアピールした。
午前9時頃、最初の工事車両数十台がゲート前に到着した。座り込んでいる労働者・学生は機動隊と対峙し、「警察は帰れ」「工事車両を入れないぞ」とシュプレヒコールを上げ、土砂搬入を1時間にわたってストップさせた。
初めて沖縄に来た京都の女子学生は「私たち学生・労働者には力がある。トラック何台でも止められる。そういう闘いを京都でもつくります」と発言した。