天田三紀夫同志を追悼する 革命的共産主義者同盟
週刊『前進』04頁(3241号04面04)(2022/04/25)
天田三紀夫同志を追悼する
革命的共産主義者同盟
3月23日、病気療養中だった革共同前書記長の天田三紀夫同志が逝去した。
天田同志は、1997年の第20回全国委員会総会での就任から2019年に辞任するまで、22年間にわたって、革共同書記長を務めた。
天田同志は1960年代以来、京浜工業地帯のど真ん中に身を置いて、3全総路線を党の最先頭で実践してきた同志の一人であった。
天田同志は、山梨大学で60年安保闘争を闘った後、62年に石川島播磨重工に入り、革共同神奈川県委員会に所属して活動を始めた。66年には横須賀・浦賀ドックに移り、横須賀での地区党建設を中心的に担った。
その闘いは神奈川での膨大な青年労働者の階級的戦闘的決起を生み出し、70年安保・沖縄決戦に反戦派労働者の大隊列を登場させる原動力となった。70年には現場の労働者同志の圧倒的信頼を得て革共同神奈川県委員長に就任した。
70年安保・沖縄闘争への大反動として襲いかかった警察権力とファシスト・カクマルによる反革命襲撃に対しても、天田同志は仁王立ちして闘い、20年にわたる内戦を全力で支えて党を守りぬく先頭に立った。その勝利の上にかちとられた91年5月テーゼへの転換においても、これを推進する立場で一貫して闘った。
とくに2006年の「党の革命」において、故中野洋同志ら労働者指導部とともに当時の政治局内の血債主義派を打倒して、国鉄決戦を基軸とする階級的労働運動路線を打ち立てたことは、天田同志が革共同に残した大きな功績である。
天田同志を中心とする旧政治局は、08年リーマン・ショックを契機に新自由主義・帝国主義の危機が激化し今日につながる内外情勢の大激動が開始される中、これに真っ向から立ち向かえない7回大会路線による指導の破産によって、18〜19年に組織問題として爆発する党の重大な危機をもたらした。
しかし天田同志は労働者同志を先頭とする全党の同志の旧政治局への批判と弾劾を正面から受けとめ、最大の責任は自分にあると認めて身を引いた。そして26全総後の党の決定と実践を全面的に承認し、支持して、19年7月に判明したパーキンソン病との苦闘の中でも革共同の党員としての人生を最後まで全うした。
病状の進行でとくにこの1年ほどは何度も入退院を繰り返し、生命の危機にもさらされた。だが「こんなに生命力の強い人は見たことがない」と医師も驚くほどの強靭(きょうじん)な意志と努力で生き抜き、革命家としての魂を最後の最後まで貫いた。
7回大会での指導上の大きな誤りはあったが、天田同志の約60年に及ぶ革命運動の実践は総体として、今日の党の土台を築き上げてきた闘いそのものであった。
革共同は今日、7回大会路線による党の危機を全党の総決起でのりこえて8回大会を闘いとり、ついに始まった世界戦争を反帝国主義・反スターリン主義プロレタリア世界革命に転化することを固く決意し、その路線を打ち立てた。この道を断固として進み、必ずや勝利する。天田同志よ、見守っていてください。
天田三紀夫同志は1940年群馬県に生まれる。59 年山梨大に入学し60年安保闘争を闘う。62年石川島播磨重工に入社し神奈川県委員会で活動開始。66年横須賀に移り地区党建設の先頭に。70年安保・沖縄決戦を闘い70年に神奈川県委員長に就任。97年から革共同書記長を22年間務め、2019年に辞任。享年82。