現代によみがえる『資本論』 資本主義を根底からとらえ未来を切り開く革命の武器

週刊『前進』04頁(3188号04面01)(2021/03/29)


現代によみがえる『資本論』
 資本主義を根底からとらえ未来を切り開く革命の武器

(写真 2020年6月4日、白人警官による黒人男性虐殺に抗議してニューヨーク市のブルックリン橋を占拠する人々)

はじめに

 新入生をはじめすべての学生諸君と「前進」読者のみなさんにマルクスの『資本論』を推奨したい。今、資本主義という社会経済体制の歴史的命脈がついに尽きようとしている。資本主義のもとで蓄積した危機と矛盾が人々の命と生活を脅かしている。もはやあらゆる意味で資本主義に「進歩的」な要素はなくなった。学生・青年をはじめ労働者階級人民が、この危機の時代に立ち向かい、自らの未来を切り開くためには、マルクス主義の思想と実践が必須不可欠だ。
 『資本論』は、商品の分析から始まって資本主義社会の本質とその歴史的有限性を明らかにしている。確かに最初の「商品」や「価値」を論じた章はやや難解かもしれないが、読み進むにつれ、私たちが直面している経済・社会問題の核心をつかみ、その変革の展望を必ず見いだすことができる。マルクス自身もこの本の序文で、「新しいことを学び、自分で考えようとする読者はついてこい」と呼びかけている。資本主義の時代に終止符を打つために、『資本論』にチャレンジしよう。

他の経済学と根本的に相違

 『資本論』とは何か。それは「経済学の古典の一つ」だと言われる。確かにそうだとひとまず言っておこう。
 しかし、マルクスの『資本論』は、その他すべての「経済学」とは根本から別物だ。『資本論』は資本主義を打倒の対象として徹底的に分析し解明し、資本主義の時代を終わらせるために書かれたものだ。
 その他の「経済学」はさまざまな装いをとりながら、この資本主義社会が永遠に続くことを前提に「ひともうけしたい」「利益を増やしたい」「支配構造を維持したい」という方向を向いている。そんな経済学は今何の役に立っているのか。いや、「新古典派」も「ケインズ派」も「リフレ派」も「金融工学」も、おしなべて破産を遂げ、全世界の深刻な経済危機に打つ手なしの状態だ。
 私たちの社会の現実を見よう。貧困・格差・生活苦がいっそう深まり広がっている。労働者の多くが非正規雇用に追いやられ、不安定な生活を強いられ、賃下げ、長時間労働、首切りなどの攻撃にさらされている。そこに新型コロナウイルス感染の危機が追い打ちをかけている。
 学生は大学に入学しても、オンライン授業を強いられ、キャンパスに通うことすらままならない。学生同士の交流もできず、サークル活動も制限され、相談する相手も見当たらない。そうした中でも「ライバルに差をつけろ」と競争をけしかけられ、企業戦士に仕立て上げられる。高額の学費は容赦なく徴収される。
 苦境にあえぐ庶民の現実をよそに、富裕層が資産を増やしている。労働者と中小零細企業の犠牲の上に、大企業は大もうけして内部留保をため込んでいる。
 日銀が国債や株を買いあさり、とんでもない株バブル、不動産バブルが生じている。政府は財政赤字をさらに途方もなく膨らませながら、超金融緩和政策を後戻りさせることもできず、今や万策尽きて、迫りくる金融大恐慌の影に浮足立っている。
 資本主義経済がもたらした結果がこれだ。1980年代以降、新自由主義が資本主義諸国の政策の基調となって今日まで続いている。競争をあおり、規制緩和を進め、資本=企業のなりふり構わぬ利潤追求の衝動のおもむくままにさせ、社会保障を徹底的に削り落とし、労働者の基本的権利を剝奪(はくだつ)し、団結を破壊するのが新自由主義だ。
 「稼ぐ」「もうける」が最大の美徳とされ、今や災害救援や環境問題、コロナ禍さえ「ビジネスチャンス」にされている。
 「こんなものは自分たちが望んだ社会ではない!」と叫んで立ち上がり、この現実を打ち破る時だ。

労働なしに社会は成り立たない

 今市中に出回っている経済学のほとんどは、マルクス『資本論』を否定するためにひねり出されたイデオロギーだと断じても過言ではない。
 例えば大学の授業の「ミクロ経済学」で真っ先に出てくるのが、例の需要曲線と供給曲線のグラフだ。縦軸が価格、横軸が数量とされ、この二つの曲線が交わるところで商品の価格が決まるという。だがこのグラフは、商品の売り手と買い手の心境をぼんやりと表してはいるが、結局は「ものの値段は需要と供給だけで決まる」と言っているに過ぎない。商品が労働の生産物であることは完全に隠蔽(いんぺい)されている。
 また経済学の入門編で必ず出てくるのが、労働、資本、土地という「生産の三要素」だ。(ここでの「資本」とは工場や機械などの生産手段のこと)
 これも人間社会の労働・生産活動の本質を隠し、われわれの認識を曇らせるものだ。要するに、「三つの要素がそれぞれの収入を生み出す。労働が賃金を生み、資本が利潤を生み、土地が地代を生む。労働者、資本家、地主はそれぞれが正当な収入を得ている」と言いたいわけだ。
 『資本論』第3巻の結論にあたる部分でマルクスはこのごまかしを「経済的三位一体形態」と呼び、徹底的に批判している。
 実は利潤も地代も、すべて労働者が働くことでつくりだされたものだ。
 この社会は、労働者(および農漁民などの勤労者)の労働なくしては一日たりとも成り立たない。『資本論』はきわめて単純なこの真理をベースにしている。そして労働者階級が、この資本主義にピリオドを打つ、歴史変革の主体であることをマルクスは鮮明にさせた。
 もろもろの経済学は、結局それを否定したいのだ。だから、「社会は変わらない。資本主義は永遠に続く。金のために競い合え」とわれわれに絶えずささやき続けるのである。

剰余価値搾取の構造を解明

 『資本論』第1巻第1章の冒頭でマルクスは、「資本主義社会の富は、一つの『巨大な商品の集まり』として現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れる」と述べ、商品の分析から開始する。
 商品はそれ自身がもつ矛盾によって、貨幣を生み、商品と貨幣との矛盾が、資本(自己増殖する価値)を生む。
 商品の価値は、その生産に必要とされる社会的に平均的な労働の量(労働時間)によって決定される。
 資本家は、原材料や道具・機械を購入するように労働力をも商品として買い入れ、生産過程の中に投げ入れて実際に消費する(労働者を工場で働かせる)ことをもって、資本の価値増殖を実現する。そこではまるで資本がひとりでに増殖し、例えば100万円の投資に対して10万円という「適正なもうけ」が付け加えられたような外観を呈する。
 だが実はその「もうけ」は、労働者が労働することによってつくられたものだ。
 労働者に「賃金」として与えられるのは、労働者とその家族が生きていく上で必要な衣食住などの生活資料の価値の総和だ。生きるためのぎりぎりの額にすぎない(いや、それすら下回ることもたびたびある)。
 実際には労働者は労働過程で、自らが受け取る賃金を大きく上回る価値を付け加えている。それをマルクスは「剰余価値」と名付けた。資本家はこの剰余価値を、自らの才覚によって獲得したもうけ=利潤として自分の懐に入れてしまうか、それを拡大再生産のための追加投資に充てる。あるいは剰余価値の一部を地代として地主に支払う。
 このようにして、労働力という商品は労働者と資本家との間で「価値通り」に売買される。それを通して資本家は労働者がつくり出した剰余価値を搾取しているのだ。

労働力の商品化こそ矛盾の根源

 労働力までも商品にしてしまったことで、資本主義的生産様式は、社会全体を支配し覆いつくす条件を与えられる。
 だが一般の商品とは違って、労働力は、血が通った生身の労働者の身体と切り離すことができない。労働力は、自ら考え、語り、行動する人間そのものに宿る力だ。それを商品にして売買することにこそ、資本主義的生産の矛盾の根源がある。
 資本主義社会では、社会の必要に応じてではなく、個別の資本家のより大なる利潤追求を原動力として社会的生産が行われる。だから資本間の熾烈(しれつ)な競争(弱肉強食の生存闘争)が繰り広げられる。
 そのために労働者は資本家の都合によって、ある局面では自分の肉体的限界に近づくまでの長時間の強労働を強いられ、別の局面では「不要」とされ解雇され路頭にほうり出される。
 資本主義によってそれまでの時代にはなかった巨大な生産力が現出するが、それは社会の成員である労働者人民の生活を豊かにするものとはならない。一方では生産手段も生活資料もあり余り、他方では人民の貧窮が厳しさを増す状況がたびたび現出する。
 そうした矛盾は、ついには全社会の生産と流通に破局をもたらす周期的恐慌として爆発する。
 このように『資本論』は、資本による搾取の秘密を暴き、価値法則に貫かれた資本の自己増殖運動の展開、資本主義の機構とメカニズムを全面的に解明した。そして資本主義が一つの特殊な歴史的社会にすぎず、その没落もまた必然であることも明らかにした。

「収奪者を収奪する」革命へ

 肝心なことは、このような科学的分析・解明が決して書斎の学問として発表されたのではなく、団結した労働者階級の社会変革の力強い実践と一体で提起されたことだ。
 資本主義はどのようにして最期の時を迎えるか。マルクスは一切の迷いなく、労働者階級=プロレタリアートの革命によってそれが到来すること、恐慌こそそのチャンスであることを、終生声を大にして訴えた。
 マルクスは『資本論』第1巻第24章「いわゆる本源的蓄積」の中で、資本主義の発展につれて強い資本家によるその他の資本家たちの収奪(資本の集中)が進むことを述べた上で、次のように言う。
 「この転化過程のいっさいの利益を横領し独占する大資本家の数が絶えず減ってゆくのにつれて、貧困、抑圧、隷属、堕落、搾取はますます増大してゆくが、しかしまた、絶えず膨張しながら資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結合され組織される労働者階級の反抗もまた増大してゆく。資本独占は、それとともに開花しそれの下で開花したこの生産様式の桎梏(しっこく=手かせ足かせ)となる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される」
 この叙述のすぐあとには、注として1848年のエンゲルスとの共著、『共産党宣言』から次の箇所を引用している。「大工業の発展とともに、ブルジョアジーの足元から、かれらが生産し、その生産物を取得していた土台そのものが取り払われる。ブルジョアジーはなによりも、自分たち自身の墓掘り人を生みだす。ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は、いずれも不可避である」
 『資本論』と『共産党宣言』の間には約20年の歳月のへだたりがあるが、団結した労働者階級が立ち上がり、ブルジョアジー=支配階級を実力で打ち倒し、資本主義を終わらせるというマルクスの革命観は、いささかも変わらなかったということだ。
 また、マルクスは1871年(『資本論』第1巻刊行の4年後)、歴史上初の労働者階級による革命的政権として成立した「パリ・コミューン」を絶賛し、次のように書いている。
 「それ〔パリ・コミューン〕は、本質的に労働者階級の政府であり、所有階級に対する生産階級の闘争の所産であり、そのもとで労働の経済的解放を達成し得べき、ついに発見された政治形態であったのだ」(『フランスの内乱』)
 パリ・コミューンは、成立から2カ月でベルサイユ政府軍によって武力鎮圧されたが、敗れたとしても、国際的労働者階級が成し遂げたこの歴史的偉業は全世界に衝撃と感動を与え、1917年のロシア革命に引き継がれた。
 団結した労働者階級の闘いこそ歴史を変革する原動力である。
 労働者は富の直接的生産者でありながら、労働力を資本に売ることによってしか生存を許されないという境遇に置かれている。この階級関係こそ、あらゆる圧制・抑圧・支配・差別・分断の根源だ。だから、労働者はこの現実を根幹から打ち破る歴史的使命を負っている。国境を越えて連帯する労働者階級として、革命の主体として歴史的に登場し、新しい社会を建設することができる。
 その時、発達した生産力は労働者階級のもとに統制され、それまであたかも自然法則のように社会を拘束し翻弄(ほんろう)していた価値法則、資本主義の経済法則は、一切の神秘性を失い消滅する。階級対立の時代が終わる。
 マルクスとエンゲルスはそのように呼びかけたのだ。

階級対立の非和解性は今も不変

 150年も前に書かれた『資本論』が現代に通じるのか、という疑問はこれまでもたびたび投げかけられてきた。
 もちろん、マルクス、エンゲルスが生きた19世紀のイギリスやヨーロッパ(蒸気機関がもたらした産業革命後の時代)と21世紀の現代とでは、さまざまな景色が違う。だが、利潤を求めて競争する資本の性質、労働者と資本家の階級対立の非和解的性質は、どこが変わったといえるだろうか。
 1917年のロシア革命によって、人類はたしかに社会主義への新たな時代の扉を一度は開いた。しかし、スターリン主義・ソ連の裏切りと反革命にも助けられて資本主義は延命を続けてきた。
 その先送りされてきた矛盾が今日、途方もない規模で爆発しようとしている。

改良ではなく全面的変革を

 今出版界では、ちょっとした「資本論ブーム」が起きている。書店には『資本論』の解説書や関連書籍が多く並び、売り上げを伸ばしている。
 その背景には、資本主義のなすがままに任せていたら地球的規模の環境破壊が進行し、数年を待たずして人類の生存そのものが危ぶまれるほどの取り返しのつかない事態を迎えるだろう、という危機感が広範な人々に共有されているという事情がある。そうした警告がさまざまな地点から強く発せられている。
 新型コロナパンデミックも、資本主義の新自由主義的展開によって、未開の土地で破壊的な「開発」を進め、そこの生態系に強く干渉したこと、またグローバリズム経済によってモノや人が全世界を高速、頻繁、大量に駆け巡ることによってもたらされた事態だ。
 資本主義をとことん批判し、その崩壊を「予言」したマルクスに再び期待が集まるのも当然だ。
 ところが、市場に出回る数々の『資本論』関連書籍は、マルクスの資本主義への批判と分析をあれこれ借用し取りざたしているが、いざ実践となると革命の問題をあいまいにし、まるでマルクスが革命家ではなく穏健な改良主義者にすぎなかったかのような解説に終始するものばかりだ。
 特に今話題となっている斎藤幸平氏の著作『人新世の「資本論」』(集英社新書)も、気候変動問題を焦点に資本主義の矛盾や限界に迫っているが、資本主義を打倒して共産主義社会を建設する主体が労働者階級であることはあいまいにされている。マルクスの思想を「脱成長コミュニズム」と規定し、『共産党宣言』についてはマルクスの「若気の至り」のように切り捨てている。だが、すでに見たようにマルクスは『資本論』の中であえて『共産党宣言』を引用し、これこそが自分の言いたいことだと強調しているのだ。
 資本主義の利害によって骨の髄まで浸食された国家の支配構造を労働者・学生の実力で倒し、今こそ利権と腐敗の政治を一掃する時だ。それを口さがない連中が「過激な思想」と非難しても気にすることはない。マルクスも「汝(なんじ)の道をゆけ、そして人にはそのいうにまかせよ!」(言いたいやつには言わせておけ!)と言っている(『資本論』序文の結語)。
 『資本論』を学び、資本主義の時代に終止符を打つために共に立ち上がろう。
〔田宮龍一〕
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