朝鮮戦争に反対した被爆者 被爆2世、反戦被爆者の会 中島健
週刊『前進』04頁(3157号01面02)(2020/08/24)
朝鮮戦争に反対した被爆者
被爆2世、反戦被爆者の会 中島健
8・6ヒロシマ大行動の前日、「ヒロシマと改憲問題」と題した8・5集会を開催した。主催した被爆2世として、広島の闘いの歴史をとらえ返した集会の意義を振り返ってみたい。
2018年末から始まった拡声器規制条例をめぐる攻防の中で、松井市長は「1952年以来、平和式典は祈り」と強弁した。安倍を弾劾することは「違法行為」であり、被爆者への「非礼」だと決めつけたのだ。しかし、周知のように慰霊碑の碑文には「安らかにお眠りください。過ちは繰り返しませぬから」とある。元広島女学院大教授の宇吹暁氏の『ヒロシマ戦後史』が説くように、1950年の平和式典はGHQ(連合国軍総司令部)によって中止に追い込まれたが、被爆者と市民に向けて「8月6日は祈りと反省の日」と談話で釈明したのは奥田達郎助役だった。それ以前にこの言葉が使われたことはない。その狙いは、平和擁護委員会の主催する「朝鮮戦争反対集会」を広島市の全体重をかけて圧殺することにあった。それほど広島の被爆者と市民の朝鮮戦争への怒りや核使用への不安は大きかった。職場や地域、大学ではGHQ最高司令官マッカーサーの暴圧に反対する宣伝も行われ、弾圧によって逮捕者も出るほどだった。
日本帝国主義の敗戦直後、米ソは朝鮮半島の南北分断によって朝鮮人民の解放闘争を圧殺した。それを乗り越えて、南朝鮮民衆の闘いは占領軍との闘いに突入し、南労党(南朝鮮労働党)のパルチザン闘争などが激しく闘われた。米軍は朝鮮戦争を通じてこの闘いを血の海に沈め、南北分断体制の固定化を図った。アジア・太平洋戦争のもっとも悲惨な帰結として14万人の被爆死(45年12月末まで)を強制された街=ヒロシマは、敢然と朝鮮戦争反対の闘いに立ち上がった。前年に闘われた日鋼広島争議がGHQの正体を明らかにした結果でもあった。
GHQは、朝鮮戦争の出撃・兵站(へいたん)基地である日本列島で、被爆者の闘いを起爆剤に反戦闘争が爆発することを恐れた。50年8月6日の平和式典がそのきっかけになりかねないと考え、GHQは「祈りと反省の日」と称して圧力をかけたのだ。広島市警は、集会・デモに参加すれば投獄するとの警告を全市の住宅に配布し、中国新聞は「平和に名を借りて朝鮮戦争に反対するな」とキャンペーンを張った。しかし、被爆者と労働者は在日朝鮮人との連帯をかけて闘った。峠三吉の感動的な詩『1950年8月6日』はそれをうたったものだ。
この被爆者の闘いの歴史を私は誇りに思う。それから70年目にして、新たな朝鮮戦争が核戦争として始まろうとする今、松井市長が「2020年の平和式典は慰霊目的に絞る」としたのは偶然ではない。私たちの決意は1950年の峠たちの闘いを引き継ぎ、実際に朝鮮戦争を阻止することだ。何百万もの朝鮮人民を再び虐殺させてはならない。被団協の国家戦争責任追及の闘いを継承し、ヒロシマを安倍の改憲攻撃粉砕の拠点にしよう。集会で明らかにされた歴史は、労働運動の再生でそれが可能なことを明らかにした。