朝鮮南北分断の歴史と真実

週刊『前進』02頁(3145号02面02)(2020/07/02)


朝鮮南北分断の歴史と真実


 第2次大戦後の全世界的な戦後革命の嵐は、東アジアにおいて最も激しく吹き荒れた。日帝の植民地支配に最も苦しんだ朝鮮半島では、1945年8月15日の解放後直ちに、朝鮮人民共和国の樹立が宣言された。だが北緯38度線をはさんで北はソ連軍、南は米軍が進駐し朝鮮半島を分割占領する中、とりわけ米軍は朝鮮人民自身の手による新国家建設の闘いを敵視し、徹底的に弾圧した。
 深刻だったのは、この過程で米軍が日帝植民地支配の手先であった親日派を取り込み、弾圧と統治の手段として利用したことだ。親日派の中でも最も悪質で腐敗した連中が米軍の庇護(ひご)を受けて逆に権力の中心に復活した。これに対する大衆的な怒りの爆発は、1946年10月の大邱人民蜂起、48年4月の済州島蜂起をはじめ、南朝鮮における革命と反革命との真っ向からの内戦的激突へと発展した。それは49年末までに10万人の死者を出すほど激しいものだった。
 戦勝帝国主義・米英帝とソ連の独裁者だったスターリンは、45年2月のヤルタ会談で戦後の世界に対する分割支配協定を極秘に結んでいた。西欧と日本は帝国主義の、東欧はスターリン主義の支配下に置き、中国大陸については蒋介石政権の支配を認めるというものである。朝鮮半島の分割占領もその一環だ。
 だが労働者階級と被抑圧民族人民の根底的な解放を求める戦後革命の大波は、こんな反動的枠組みのもとに抑え込めるものではなかった。アジアでは中国共産党が46年から蒋介石政権との内戦に突入し、ついに勝利して49年10月、中華人民共和国の樹立を宣言した。
 この中国革命の勝利のアジア全域への波及を阻止することに帝国主義としての存亡をかけた米帝と、勢いにのって南朝鮮の武力解放という軍事冒険主義に走った北朝鮮スターリン主義の双方によって引き起こされたのが、50年の朝鮮戦争だった。その結果は朝鮮全土を焦土と化し、南北合わせて全人口の2割にも達する死者と1千万人の離散家族という膨大な犠牲の上に、同じ民族が二つの国家に分かれて戦争的に対峙し続けるという、他に類例のない南北分断体制を永続的に固定化したのである。
 日帝の敗戦直後から5年にわたって東アジアを覆った戦後革命の大波は、これによって最終的に終止符を打たれた。朝鮮南北分断体制はその後も、労働者人民の革命的決起を抑圧し圧殺する反動装置として機能し続けてきた。南朝鮮・韓国は帝国主義のアジア支配を守るための反共軍事基地国家として形成され、軍事独裁政権による恐怖政治が長期にわたって続いた。
 2017年のろうそく革命は、1987年の民主化後も続いた「反共国家」としての韓国をついに崩壊させ、南北分断体制解体への道を開いたのだ。

------------------------------------------------------------
年表② 南北分断体制の形成

1945年2月 ヤルタ会談
   8月 8・15解放
   9月 朝鮮人民共和国樹立宣言
   12月 国連信託統治反対運動
46年6月 中国で国共内戦始まる
   10月 大邱人民蜂起
47年1月 日本の2・1ゼネスト中止
48年4月 済州島蜂起
   5月 南朝鮮で単独選挙
   8月 大韓民国樹立
   9月 朝鮮民主主義人民共和国樹立
   10月 麗水・順天で軍隊反乱
49年10月 中国革命勝利
50年6月 朝鮮戦争勃発
53年7月 朝鮮休戦協定調印

このエントリーをはてなブックマークに追加