星野さん国賠がスタート 国家犯罪を追及し断罪する 人権侵害の獄中医療を変革しよう
星野さん国賠がスタート
国家犯罪を追及し断罪する
人権侵害の獄中医療を変革しよう
6月22日午前10時30分、東京地裁民事第14部(伊藤正晴裁判長)で、星野文昭さん(享年73)獄死の責任を問う国家賠償請求訴訟の第1回口頭弁論が開かれた。原告の妻・星野暁子さんら遺族3人が、被告・国に5500万円の損害賠償を求めた。原告代理人は星野再審弁護団を軸に107人の大弁護団による裁判だ。2月21日の提訴から4カ月、国家犯罪を暴き断罪する裁判が始まった。
法廷では冒頭、星野暁子さんが意見陳述(要旨別掲)を行った。陳述は「文昭の死の真実を暴き出し、文昭の死を私のもとにみんなのもとに取り戻したい。それを通して人権侵害が日常化している獄中医療を変革したい」と結ばれた。
藤田城治弁護士が訴状の要旨を2点に絞り鮮明に述べた。
一つは、徳島刑務所が星野さんの肝臓がんを巨大になるまで放置した責任だ。刑務所という規則正しい環境の中での一貫した体重減少と、1年前から倍増した肝臓の状態を示すガンマGTP77U/ℓの値、そして18年8月に倒れたにもかかわらず、翌年3月まで必要な医療検査をしなかった。
さらに3月1日に初めて行ったエコー検査で肝臓に巨大な腫瘤(しゅりゅう)を見つけながら、その事実を4月17日まで本人にも告げず、一切の治療を放棄してきた責任である。
二つは、東日本成人矯正医療センターが、巨大な肝臓がん切除手術を行う体制も能力も無いにもかかわらず手術を強行したこと。また、手術中に大量出血を招きながら、手術当日の深夜、医師や看護師の見回りも巡視さえもなく、星野さんを放置した責任だ。
藤田弁護士は、折りしも獄中医療をめぐり複数の国賠訴訟が闘われていることを指摘し、「慎重かつ緻密(ちみつ)な審議を求める」と締めくくった。
法廷内外で闘おう
裁判終了後、司法記者クラブで記者会見が行われた。獄中での医療放置・医療過誤事件に関する記者の関心は高い。共同通信が直ちに記事を配信し、沖縄など全国に届いた。
午後、弁護士会館で裁判の報告集会が開かれた。藤田弁護士が裁判の概要を報告し、星野暁子さんが「この国賠は負けられない裁判です。法廷だけでなく外の世論が裁判を左右します」と裁判支援を訴えた。最後に、星野さんをとり戻そう!全国再審連絡会議共同代表の狩野満男さんが、「今日、すごくいい形で国賠闘争がスタートした。国賠闘争をとてつもなく大きな運動にし、大きな飛躍への転換を勝ち取ろう。8月30日に開かれる全国総会で新たな方針をつくっていこう」と訴えた。
この日の闘いは、開廷前の東京地裁前での街宣から始まった。雨の中、大坂正明さんの裁判救援会(準備会)も参加し15人がビラをまき、マイクを握って星野さんの獄死の責任を追及した(写真)。安倍は、コロナ危機をも利用し、安倍自身と「安倍友」の私腹を肥やしている。安倍を監獄にたたき込む闘いとして星野国賠に勝利しよう。
次回裁判は8月27日(木)午前10時30分、東京地裁第411号法廷。傍聴闘争に集まろう!
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星野暁子さんの陳述(要旨)
獄死の真実を暴く
星野文昭が亡くなったのは、昨年5月30日午後9時44分でした。
5月28日の肝臓がん手術直後、東日本成人矯正医療センターの医師は「手術は無事終わりました」と言っていましたが、翌朝8時頃、重症だと電話があり、すぐに医療センターに行きました。文昭は呼吸器を付けられ話をすることはできませんが、私の言葉に懸命にうなずいていました。
夕方「危篤だ」と言われました。急いで駆けつけ、ベットの柵を力一杯にぎっている文昭の手を握り、胸に顔を埋めました。一緒に生きてきた35年の中で初めてのことでした。
「午前5時頃血圧が下がり、ショック状態に陥った。出血を止めるには再手術が必要だが、本人の体力がない」と医師に言われましたが、再手術は再出血後すぐであれば間に合ったのではないのか?
医療センターは、文昭の手術後、ICUに入れず、29日未明、午前1時30分から午前5時5分まで、医師も看護師も文昭を看ず、巡回も行いませんでした。なぜ巡回すらしなかったのか。術後のケアは生命を左右する重要なものでした。このような事態は、決して許されないことです。
医療センターが、14㌢×11㌢の肝臓がんの切除を行う病院として不適切であったこと、手術直前の肝臓の悪化によって、手術をするかどうかが検討されなければならなかったことも、重要です。
昨年の4月18日に医療センターに移監になるまで32年間、文昭が過ごした徳島刑務所は、文昭の体重が58㌔から50㌔以下に減少する中で、家族・弁護団の要望を受け入れず、2018年8月に倒れてから3月になるまで、エコーなどの精密検査を行いませんでした。肝臓がんが14㌢×11㌢の巨大になるまで放置した徳島刑務所の責任は重大です。そして肝臓がんであることがわかってからも、本人にも家族にも、報告の義務がある仮釈放審理中の四国地方更生保護委員会にも報告しませんでした。大きな責任があります。
私が文昭と出会ったのは1984年、獄中結婚したのは2年後です。拘禁性ノイローゼが治りかけという中で、一緒に生きてくれる女性を求めた前向きさにひかれました。公判で語った「すべての人間が人間らしく生きられなければ自分も人間らしく生きることができない。すべての人間が人間らしく生きられるよう、自分の生を貫きたい」、この言葉に感銘を受けました。「愛する文昭を無期の獄中から取り戻したい」と、人生をかけた闘いを2人3脚でやってきました。
1971年11月14日、核も基地もない平和な沖縄を求めて、星野文昭は、渋谷での沖縄返還協定批准阻止闘争を闘いました。機動隊員1名が死亡したことで、やっていないにもかかわらず「殺人罪」で無期懲役刑を科され、獄中44年を強いられました。2度にわたる再審請求と仮釈放を求める運動を進めてきました。刑の確定後30年になった2017年から、毎月のように四国地方更生保護委員会に家族・弁護団・運動の代表による申し入れを続け、高松での1千人集会、4度にわたる新聞への意見広告など全力で行いました。
この裁判で、文昭の死の真実を暴き出し、文昭の死を文昭と私のもとに、みんなのもとに取り戻したい。それを通して人権侵害が日常化している獄中医療を変革したいと思います。