大坂正明同志の無罪奪還へ(4) 面識ない4人に「目撃証言」強要

週刊『前進』04頁(3130号04面02)(2020/05/11)


大坂正明同志の無罪奪還へ(4)
 面識ない4人に「目撃証言」強要


 大坂正明同志は、ペテン的な沖縄返還協定の批准に反対して闘われた1971年11月14日の渋谷闘争で死亡した警察官の殴打に一切関わっていない。大坂同志の関与を示す物的証拠はゼロだ。唯一の「証拠」とされるのが、でっち上げられた4人の供述調書だ。

誰も同志の顔を見ていない

 大坂同志が「死亡した警察官を殴打していた」といううその供述をさせられた4人の少年たちは皆、群馬の学生だ。千葉工業大学の学生だった大坂同志と群馬の学生たちの接点はなく、供述者は大坂同志を知らない。しかもデモでは皆がヘルメットをかぶり、タオルやマスクで覆面をしている。このような状況で知らない人を特定することなどできない。供述調書は、はなからでたらめだ。
 4人は誰も大坂同志の顔を見ていない。C(殺人罪で起訴、当時17)は「後ろ姿でわかった」という。そして大坂同志の服装について「白っぽいブレザーと、同じようなズボンだった」と証言する。だがB(殺人罪で起訴、当時19)は現場写真(デモ隊が機動隊と衝突した神山交番前の様子を撮影した「唯一の物証」ともいえる写真。撮影した警察官の名から「中村写真帳」と呼ばれる)で上下黒色の服の人物を指して「大坂だ」と言う。また、Eは中村写真帳でBが示した人物とは別人を指して「大坂だ」と「特定」している。Dは「工学院大学で見た男の人は、茶色か黒のブレザーを着ていた」と供述し、中村写真帳で「大坂」を特定できなかった。
 大坂同志とされる「殴打者」の位置も行為も、供述者によってまったく異なる。機動隊員を後ろから殴っていた(E)、正面から殴っていた(C)、向かって左から殴っていた(BとD)。火炎びんを投げつけた(BとE)、「殺せ、殺せ」と叫んでいた(C)。
 この矛盾を解決できない検事は、「被告人の人着(人相、体格、服装、持物等)を主張するつもりはない」「(中村写真帳で)人物特定をしない」と言い続けている。弁護団の度重なる追及に、「被告人は当日覆面をしていなかった可能性がある」などと言い始めた。でたらめにも程がある。

「知った」「見た」場面ねつ造

 警察官殺害現場のでっち上げ供述調書は、デモ隊のリーダーだった星野文昭同志(高崎経済大)を「殺人の実行犯」に仕立て上げるために作られた。そこに大坂同志は「星野の隣にいたリーダー」として描かれる。だがそれは面識のない者に単独の写真を示し、名前を教えて供述を強要した違法捜査による代物だ。
 権力は、大坂同志のことを知らない学生に供述を強いるにあたり、彼らが大坂同志と「面識を持つに至った」理由まででっち上げた。「デモの準備のために11月12日、工学院大学を訪れ旗竿(さお)を作った時に見た人」というのだ。だが大坂同志は12日に工学院大学には行っていない。工学院大学を訪れた群馬の学生の代表だったCは、大坂同志と共に渋谷闘争に決起し起訴された奥深山幸男同志の第29回公判(1975年5月14日)で以下のように証言している。
検察官「大坂なんという人ですか」
C「正明という人です」
検察官「その人は、工学院ではどういうことがあったのですか」
C「いや、そこに居たというだけで何も話は聞きませんでした」
 Cは今回検事が大坂同志有罪立証の柱に据えている証人だ。そのCの証言は、初対面の「そこに居ただけの人」で、言葉すら交わしていない。Bの調書では「以前何かのデモの際に見たことのある男で、今度警察で写真を見せられ」大坂だと分かった人物が、Cに指示を出していたという。Dは「Cが大坂に話しかけた」と供述している。ここでも皆バラバラだ。
 工学院大学で「見た」と供述させられなかったEには、法政大学で11月15日に行われたという総括集会で大坂同志がデモ隊を代表して演説したとうそを言わせた。大坂同志は総括集会で代表演説などしていない。二重三重のでっち上げだ。
 これが、後ろ姿だろうが覆面をしていようが「見て分かった」というでっち上げ供述の中身だ。
 でたらめな供述調書にしがみつく東京地検・森中尚志を許さない。無実の大坂同志を今すぐ解放せよ!
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▼大坂正明同志 1971年11・14渋谷暴動闘争戦士。殺人罪をでっち上げられ指名手配46年の上、2017年5月18日不当逮捕、起訴された。東京拘置所在監。70歳。

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