狭山事件―この権力犯罪を許すな(上) 部落の青年を狙いでっち上げ

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週刊『前進』02頁(3109号02面03)(2020/02/20)


狭山事件―この権力犯罪を許すな(上)
 部落の青年を狙いでっち上げ

(写真 1963年5月23日、別件で不当逮捕された石川さん)


 24歳で狭山事件の殺人犯にでっち上げられた石川一雄さんは、56年を超えて無実を訴え権力犯罪を弾劾している。3度目となる再審請求をめぐる情勢は、担当裁判長の6月退官を前に棄却を許すか否かの重大局面にある。全国水平同盟と部落解放東日本共闘会議が呼びかける東京高裁包囲3・22狭山中央闘争に全国から駆けつけよう。

国家中枢の危機突破かけ

 1963年5月1日、埼玉県狭山市で帰宅途中の女子高校生が行方不明になり、自宅に脅迫状が届いた。警察は身代金を取りに来た犯人を取り逃がし、被害者は遺体で発見された。
 3月に東京で起きた男児誘拐事件に続く大失態で、警察庁長官は辞任。国家権力中枢を揺るがす重大な政治問題に転化した。国家公安委員長は、「犯人は(身代金)20万円を大金と考える程度の生活」「土地の事情にくわしい者」と述べ、最重要容疑者の自殺の報に「『犯人はなんとしても生きたままフンづかまえてやらねば』と歯ぎしりしていた」(63年5月7日付埼玉新聞)。
 ここから警察は、狭山市内の二つの被差別部落への見込み捜査に踏み切った。200人以上を動員して部落を踏みにじり、青年を片っ端から取り調べた(筆跡鑑定された約120人のほとんどが部落民)。マスコミを使って、繰り返し、部落に対する差別と偏見をあおった。部落への襲撃に等しい国家暴力の発動だ。
 そして5月23日未明、石川さんを別件で逮捕した。

石川一雄さんへの拷問的な取り調べ

 狭山署に連行された石川さんは群がる報道陣をにらみ返し、「警察は犯人を取り逃がしておきながら、おれをこんなところに入れやがって」と弾劾した。逮捕容疑にはない殺人容疑での違法な取り調べを毅然(きぜん)としてはね返した。
 警察は石川さんをいったん釈放せざるをえなかったが、警察の玄関を出る前に殺人容疑で再逮捕した。今度は、有刺鉄線で囲った特設の川越署分室に閉じ込め、連日深夜まで30人以上が入れ替わり立ち替わり責め立てた。「お前を殺して埋めても、家族には逃げたと言えばわからない」「やったと言えば10年(の服役)で出してやる」など、脅しと甘言を駆使して「自白」を迫った。
 石川さんは再逮捕された2日後にはハンガーストライキに突入。警察は弁護士との面会を禁止した。拷問的取り調べに屈しない石川さんの闘いは、別件での23日を含めて30日にわたった。追いつめられた警察は、石川家の生活苦につけ込み、家族の絆をズタズタにする卑劣なやり方でうその「自白」を強いたのだ。
 この権力犯罪を許すな!

「死刑」を求刑した検事論告の差別性

 一審で浦和地裁・内田武文裁判長は検事論告をそのまま引き写して死刑判決を出した。(64年3月11日)
 検事論告は、犯行の動機は「金欲しさ」で「生い立ちの環境が影響」しているとし、「家が貧困であったため、小学校も満足に行くことができず」「十一、二の時」「農家に子守奉公に行くようになったが」「農家を転々」とし、「家庭的愛情に育まれつつ少年時代を過ごせなかった」ことが「遵法精神を希薄」にしたと決めつけた。「製菓工場をやめ、土工をしたり養豚業の手伝いをしている間に、オートバイを買」い借金を背負ったことは「放蕩(ほうとう)」だとののしった。
 被差別部落に生まれ育ったことを犯行の「根源」とする極悪の差別論告だ。

60年安保後、治安強化図る

 「部落から犯人をつくり出す」方針は、直接は、国家権力中枢が自ら招いた危機をのりきるためだった。
 戦前の特高警察に代わり46年に新たな装いで公安警察が設置されたが、62年には治安維持法の復活を狙う政治的暴力行為防止法案が廃案に追い込まれた。60年の日米安保条約批准阻止闘争で560万人が戦後初の政治ゼネストを打ち、数十万人が連日、国会デモに立った。解き放たれた労働者階級の力は安保闘争終結後も解体されずに、治安弾圧の強化策動を粉砕した。
 他方、62年5月には160人の死者を出す常磐線三河島事故が起き、63年11月には東海道線鶴見事故で161人が死亡、同じ日に三井三池炭鉱三川坑で炭塵(たんじん)が爆発し458人の炭鉱労働者が死亡した。戦後労働運動の一大決戦として闘われた60年三池闘争の敗北で、現場労働者がもつ職場ごとの団体交渉権などが奪われ、合理化・労働強化・人減らしが急速に進んだ結果だった。
 これに対し、資本と激突する職場闘争が爆発したのが62年〜63年で、国鉄(現JR)と郵政の労働者が先頭に立った。彼らは職場で闘いつつ街頭でも政治闘争を闘い、狭山闘争の主力にもなっていった。
 「部落から犯人をつくり出す」のは、労働者をあらかじめ分断して団結を破壊し、職場と街頭での闘いを抑え込むためだった。

無実の叫びに応え再審無罪へ闘おう

 石川一雄さんは64年9月10日の二審冒頭で「おれはやっていない!」と叫び、獄外との連帯を求め、国家権力を弾劾する闘いを開始した。二審での無期懲役判決(74年10月31日)が確定した後も、獄中から裁判のやり直しを求めて不屈に闘い、仮出獄(94年12月21日)後は東京高裁前で、また全国各地で訴えている。
 石川さんの無実の叫びは当時も今も国家権力を揺るがしている。権力犯罪を許さず、再審無罪へ闘おう。
    ◇
●東京高裁要請行動
 2月25日(火)午後3時

●石川一雄さんと連帯し狭山再審を!
棄却策動粉砕!改憲・戦争止めよう!
東京高裁包囲3・22狭山中央闘争
 3月22日(日)午前10時30分 日比谷公園霞門集合 11時デモ出発
 呼びかけ 全国水平同盟/部落解放東日本共闘会議

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