〈寄稿〉首里城炎上に思う 沖縄民権の会代表 座覇光子

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週刊『前進』02頁(3099号01面03)(2020/01/16)


〈寄稿〉
首里城炎上に思う
 沖縄民権の会代表 座覇光子


 「首里城炎上」をテレビで見て「形ある物は必ず滅ぶ」との思いを深くした。「首里城再建に、本土の私たち日本人はどう向き合うべきか」との広島の一記者の問いに触発されて私は首里城の歴史、沖縄の歴史を振り返った。
 首里城は琉球王国の居城として1453年王位継承を争う内乱で全焼して以来、1660年、1709年に失火、1945年沖縄戦で焼かれ、今回5度目である。
 1592年、豊臣秀吉は朝鮮侵略戦争の軍役として、薩摩藩と琉球合わせて1万5千の出兵を命じた。島津義久の計らいで、琉球は軍事に慣れていないので兵は薩摩の負担とし、琉球は7千人の10カ月分の食糧と、朝鮮出兵の居城の名護屋城の築営に金銀米穀を助成するよう命じた。しかし、1609年、島津は琉球侵攻、琉球は薩摩藩の支配下に置かれ、幕藩体制の中に組み込まれた。薩摩への上納、「掟十五カ条」を令達。ここまで知ることで私は400年余の時を経て、朝鮮侵略に加担させた豊臣秀吉への怒りがムラムラと沸いた。
 しかし、首里王府も100年前、宮古と連合し、兵3千人余で八重山を討った。王府は薩摩への貢租を捻出するために、宮古、八重山に「人頭税」なる超過酷な制度を負わせた。1637年に始まるこの人頭税は身長145㌢以上の子どもにまでかけられた。
 女性には御用布として織物を上納させたが、その厳しさに絶句する。八重山の全人口5482人のうち全盲が194人、うち146人(75%)が女性である。その原因は機織(はたおり)による目の酷使と栄養不良によると言われる。織婦は暗い小屋で1日十数時間も役人の監視を受けて機を織った。
 与那国では「久部良バリ(くぶらばり)」という幅2・5㍍のバリ(岩の裂け目)を臨月の妊婦に飛び越えさせた。多くは飛び越えられずに深さ7〜8㍍もある崖下に落ち、母子ともに息絶えた。重税にあえぎ食っていけない民衆の苦肉の策だった。
 男性には「人枡田(トゥングダ)」という試練があった。役人が緊急徴収の半鐘を突然鳴らす間に、人枡田に入らなければならない。駆けつけることができなかった弱者、老人、子ども、病人はみな口減らしのために切り殺された。50年前、私は人枡田を訪れた。無念の思いを私に訴えるかのように、雑草の泣いている声が聞こえた。
 悪名高き人頭税の廃止は1903年、日露戦争の前年まで266年続いた。
 その1903年、大阪で開かれた内国勧業博覧会で「人類館事件」が起こった。沖縄、台湾、朝鮮、アイヌなど人間を動物園の見せ物のごとく扱った。アジアの国々をわが物にするための意図を伺わせる。
 1879年の琉球処分以降、秀吉から安倍に至るまで形を変え、宮古、八重山、与那国へ基地を造り戦争への準備に走っている。この抑圧の沖縄の歴史は何を語るのであろうか!
 首里城は沖縄の民衆の上に君臨した支配階級の拠点であった。首里城再建のために全国から10億円を超える募金が寄せられている。私は、それより辺野古に新たな基地を造らせないために、全国の人たちが力を寄せてほしいと思う。首里城炎上は、「戦争阻止」のために「生きよ」という、天の啓示として受け止めた。
 星野文昭さんを忘れず、関西地区生コン支部の闘いに学びたい。戦争は沖縄から始まり、戦争阻止の鍵は沖縄が握っている。「首里城再建」は、民衆の城の再建である。
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