分割・民営化の大犯罪許さず、国鉄1047名解雇撤回を 中曽根の死に際して訴える
分割・民営化の大犯罪許さず、国鉄1047名解雇撤回を
中曽根の死に際して訴える
元首相の中曽根康弘が11月29日に死去した。中曽根は労働者人民の手で処罰されるべき大犯罪人だ。その機会が失われたことは、痛恨のきわみだ。
中曽根は、米大統領のレーガン、英首相のサッチャーと並び、新自由主義の攻撃を最先頭で推し進めた。その最たるものが、労働組合をつぶして改憲をするために行われた1987年4月の国鉄(日本国有鉄道)分割・民営化だ。これにより総評(日本労働組合総評議会)は解体され、労働運動は連合のもとに抑え込まれて大後退を強いられた。その結果つくられたのが、労働者の4割が非正規職にされ、そのほとんどが年収200万円以下の貧困を強制されている今の社会だ。
国鉄労働運動解体を狙い
中曽根は、国鉄分割・民営化の狙いが国鉄労働運動の解体にあったことを、96年12月、「アエラ」のインタビューであけすけに語っている。「総評を解体させようと思ったからね。国労(国鉄労働組合)が崩壊すれば、総評も崩壊するということを明確に意識してやったわけです」
中曽根が国鉄分割・民営化のための司令塔として設置した国鉄再建監理委員会のメンバーも、同様の言動を重ねている。同委員会委員長の亀井正夫(当時、住友電工会長)は、「国労と動労を解体しなければダメだ。戦後労働運動史の終焉(しゅうえん)を、国鉄分割・民営化でめざす」と公言した。委員の一人で、後にJR東日本の社長に収まる住田正二は、「千葉鉄道管理局内に千葉動労という厄介な集団がいる。あの連中のクビを切っといてくれ」とまで言い放った。
80年代初頭、中曽根が行政管理庁長官に就任して第二次臨時行政調査会(臨調)が組織され、電電、専売、国鉄の3公社の民営化を柱とした「臨調・行政改革」攻撃が始まった。最大の焦点は国鉄だった。
民営化を強行するため、国鉄が抱える巨額の赤字がやり玉に挙げられた。赤字の原因は新幹線建設や自民党政治家によって強制された新線建設にあった。にもかかわらず、赤字は「国鉄労働者が怠けて働かないからだ」とされた。マスコミも、「国鉄労働者は闇手当を受け取っている」とか、「出張していないのに出張した扱いにして(カラ出張)不当な手当が支給されている」という類の「ヤミ・カラキャンペーン」を連日、垂れ流した。
労組が国鉄当局と結んだ協約が「職場規律の崩壊」の元凶だとされ、協約は破棄された。国鉄労働者が勝ち取ってきた権利や労働条件は全て奪い去られた。
国鉄分割・民営化は、それまで43万人近くいた国鉄労働者を20万人に減らす大量首切りでもあった。国鉄職場では「分割・民営化に反対する動労千葉や国労に所属していたら、新会社には採用されない」という組合脱退強要の攻撃が吹き荒れた。仲間を裏切ることを迫られ、思い悩んだ労働者200人が自殺に追い込まれた。国労の役員・活動家は「余剰人員」とされ、「人材活用センター」に収容された。
動労本部カクマルがこの攻撃の先兵になった。彼らが主導した国鉄改革労組協議会は86年7月、「民営化された後もスト権の行使を自粛する」という労使共同宣言を当局と結んだ。
分割・民営化直前の1987年2月16日、7628人の労働者にJR不採用が通告されて清算事業団に送られた。その3年後の90年4月、あくまでJR採用を求めて他企業への再就職を拒んだ1047名が、清算事業団からも解雇された。
こうした仕打ちを受けた国鉄労働者の怒りと悔しさは、絶対に消すことができないものだ。
中曽根の意図は阻まれた
中曽根がやろうとしたことは、いまだ貫徹されていない。何よりも国鉄労働運動は動労千葉―動労総連合の闘いとして継続され、改憲は三十数年にわたり阻まれてきた。今、安倍政権はJRをモデルに「労組なき社会」をつくり、全日建運輸連帯労組関西地区生コン支部への大弾圧を強行して改憲に突き進もうとしている。攻防はすべて現在に持ち越されている。
この状況をつくり出したのは、動労千葉の1985年11月と86年2月の2波のストライキだった。分割・民営化に対する渾身(こんしん)の反撃はここから始まった。さらに、JR体制下で打ち抜かれた90年3月の動労千葉のストライキは、国労本部の屈服を乗り越える国労闘争団の決起を引き出し、国鉄労働者1047名の解雇撤回闘争をつくり出した。
1047名解雇撤回闘争は、自治労や日教組をはじめ100万人と言われる支援陣形を形成し、闘う労働運動の再生に向けての拠点の位置にあり続けた。
国労本部は2010年の4・9政治和解で、解雇撤回がないままの闘争終結を被解雇者に押し付けた。これに対して動労千葉は「国鉄闘争の火を消すな」を合言葉に、同年6月、国鉄闘争全国運動を立ち上げた。
1047名解雇撤回闘争は継続された。不屈の闘いは、動労千葉組合員らをJRから排除するために作られた「不採用基準」の策定自体が不当労働行為だったことを、2015年6月、最高裁にも認定させた。
この勝利を基礎に、動労千葉―動労総連合は昨年5月、1047名解雇撤回を求める新たな労働委員会闘争を起こした。しかし千葉県労働委員会は一切の審理を拒否してきた。これは許しがたい攻撃だ。だが、その根底には、国鉄分割・民営化による解雇が根底から覆されることへの、支配階級の恐怖がある。
今こそ国鉄闘争の復権を
中曽根の忠実な手先として国鉄分割・民営化を実行したのは、国鉄総裁室長の井手正敬、職員局次長の葛西敬之、国鉄再建実施推進本部事務局長の松田昌士だった。中曽根は死んだ。だが、この3人はまだ生き残っている。彼らが責任を逃れ続けることなど、絶対に許さない。
国鉄分割・民営化直前の87年2月、葛西はJR設立委員長の斎藤英四郎(当時、経団連会長)に、JRから動労千葉組合員らを排除するための「不採用基準」を作るよう進言した。斎藤もこれに応じて基準の策定を命じ、その基準はJR設立委員会の会合で正式に決定された。これに基づき、当初は掲載されていた動労千葉組合員らの名前がJR採用候補者名簿から削られた。葛西の指示で実務を担ったのは、現在のJR東日本社長・深沢祐二だ。
井手は2005年4月の尼崎事故を引き起こした責任者として、JR西日本の経営陣から追われた。松田は、自らの手ではJR総連カクマルとの結託体制を清算できないまま、JR東日本の経営陣から身を引いた。JR東海名誉会長として葛西が強行するリニア新幹線建設も、大井川の水枯渇問題で行き詰まりを見せている。国鉄分割・民営化そのものが破産したことは、鉄路を維持できなくなったJR北海道やJR四国の現実が示している。
新自由主義に対する労働者の反乱が全世界で始まっている。この時にこそ、日本の労働者の誇りにかけて国鉄闘争を再生させ、1047名の解雇撤回を実現しよう。中曽根の死を機会に、このことを固く決意しよう。