米軍内のベトナム反戦闘争〈上〉 不正義の戦争終わらせた兵士の反乱
米軍内のベトナム反戦闘争〈上〉
不正義の戦争終わらせた兵士の反乱
世界大恐慌の世界戦争への転化の危機が迫り、日帝・安倍政権が改憲と戦争に向かって突進している。世界の労働者階級人民のストやデモへの決起に連帯して、11・3労働者集会と改憲阻止!1万人行進の大成功を勝ち取り、反撃しよう。反戦闘争・革命運動にとって、兵士(多くは労働者階級)を労働者階級と革命の側に獲得し帝国主義の侵略軍隊を解体できるか否かは死活的だ。米帝のベトナム侵略戦争を敗北に終わらせた決定的な力は、①ベトナム人民の民族解放・革命戦争、②国際反戦闘争、③米軍内の兵士の反戦・反軍活動だった。③について8月24日に東京で在日米国人が「ベトナム戦争時、米軍内の抵抗運動」と題して講演し、兵士の闘いを具体的に明らかにしてくれました。以下、その抜粋を掲載します。(編集局)
命令拒否や脱走で軍隊崩壊
ベトナム戦争の中、1968年1月31日に始まった「テト攻勢」は、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線が米軍と南ベトナム軍をほぼ圧倒し、サイゴン(現ホーチミン市)の空港や米大使館に攻め込む展開となり、ベトナム戦争の大きな転換点となった。
同時期、米軍内で反乱が起きていた。米国内の反戦運動や革命的な黒人解放運動などに影響されているところにテト攻勢の衝撃を受け、米軍の士気は一気に下がった。兵士の戦場からの逃亡、進軍拒否、司令官に対する反抗が多発し、70年には米軍全体で6万5643人が脱走した。徴兵制度はアメリカ社会の階級闘争をそのまま軍隊内に吸い込み、特に陸軍の内部秩序を崩壊させつつあった。
海兵隊のロバート・D・ハイナル大佐は1971年6月7日付の隊内雑誌「軍隊ジャーナル」に、「軍隊の崩壊」と題して端的にこう書いている。
「いかなる指標においても、ベトナムに残っているわが国の軍隊は崩壊に近い状態にある。個々の部隊が戦闘を回避しているか、積極的に拒否している。司令官や下士官を殺害したり、麻薬におぼれたりしている。完全に反乱を起こすに至らなくても、士気が圧倒的に低くなっている。ベトナム以外の戦場や軍事基地においても状況は同じぐらい深刻である。司令官への不信感は、外部からの扇動に影響されて現場に広がり、これまで想定していた以上に激しくなり、蔓延(まんえん)している」
青年が徴兵カード焼き捨て
まず、一般社会で抵抗のうねりが生まれた。
64年5月、ニューヨーク州の青年12人が徴兵カードを公の場で焼き捨てた。翌年5月5日、バークリーで大学生40人が徴兵カードを焼き捨て、同月22日にもバークリー市で19人が徴兵カードを焼き捨てた。
66年には、軍隊内で最初のうねりが現れた。しかし、米軍基地や戦場での厳しい管理体制のもとで抵抗運動に立ち上がるには英雄的な自己犠牲が必要であり、最初は宗教や左翼運動に影響を受けた人が良心的兵役拒否者として立ち上がる傾向が強かった。
66年6月、テキサス州フォート・フッド陸軍基地で「フォート・フッド3」と呼ばれる米陸軍第2機甲師団所属の3人の兵士がベトナム派兵命令に従わないという宣言を作成した。2人が軍隊警察に逮捕されたため、残った1人がニューヨークで記者会見に臨み、「戦争は違法で不道徳だ」と宣言した。その1人も直後に逮捕され、3人とも懲役3年の刑を科された。
66年10月、米軍所属のハワード・レビ博士は特殊部隊(グリーン・ベレー)がベトナムで戦争犯罪を犯していると告発し、部隊の医療実習を拒否した。翌67年5月、博士は軍法会議で懲役3年の判決を受けた。
そして67年6月、帰還兵による最初の反戦組織が生まれた。ベトナムで戦場の実態を知った帰還兵たちがワシントンDCの平和デモに参加し、「戦争に反対するベトナム帰還兵の会」(VVAW)を結成したと発表したのだ。
VVAWは戦争の即時停止と帰還兵への医療を要求し、戦争が終わるまで激しい抗議行動を展開した。71年4月24日の「ドゥウェイ・キャニオン作戦Ⅲ」という、900人の帰還兵を集めたデモでは、彼らは自分たちが戦争で得た700個の米軍勲章を米連邦議会議事堂に投げつけて「返却する」行動を組織した。
アフリカ系兵士が最先頭に
ベトナムに派兵され、最も戦争に反対する傾向が強かったのは、アフリカ系アメリカ人の兵士だった。マーチン・ルーサー・キング牧師やマルコムXらが率いた公民権運動、そして一般社会でのアフリカ系の人々の武装化に影響を受けたアフリカ系兵士は軍隊内でサークルを作り、白人に支配されていた隊内管理体制に激しく抵抗した。ベトナム戦争に反対するだけでなく、隊内の差別体制にも反対していたのだ。
徴兵制度は中流階級の白人を優遇していた。経済的・人種的に差別されていたアフリカ系は一般よりも高率で徴兵され、ベトナム派兵も強制された。
67年、徴兵条件を満たす人口に占めるアフリカ系の割合は29%、白人は63%だったが、そのうち徴兵されたのはアフリカ系が64%、白人が31%だった。
人種差別をきっかけに爆発した暴動で最も大規模だったのが、68年8月に起きたサイゴン市の北東、ビエンホア市にあったロン・ビン刑務所での暴動だった。
アフリカ系兵士1人が戦場で白人から差別的な言葉を浴びせられ、無許可離隊を決めた。逮捕されロン・ビン刑務所に入れられたが、刑務所での生活条件があまりにもひどく、レタスと水のみを食糧とせざるを得なかった。この兵士はキャンプの外からガソリンを入手し、無許可離隊犯で投獄された仲間と一緒に刑務所の管理棟を攻撃した。200人の囚人も加わったこの反乱で何十人もの兵士が負傷したが、管理側の兵士も1人撲殺された。刑務所内の食堂や管理棟、経理関係のビルなどが全焼した。
69年夏にはノースカロライナ州の基地でアフリカ系兵士とプエルトリコ系兵士が不平等な扱いや人種による迫害に対して反乱を起こした。71年にはカリフォルニア州トラビス空軍基地で空軍史上最大の反乱が起きた。600人の兵士が司令官と衝突し、司令官クラブが全焼。十数人の兵士が負傷した。
72年10月、海軍でも空母キティホークで史上最も深刻な人種暴動が起きた。アフリカ系水兵と海兵隊員との暴力的な衝突によって46人が負傷した。
隊内で反戦の地下新聞発行
72年、米軍内で反戦もしくは反軍隊をテーマにした「地下新聞」が約300紙も発行されていた。
題名には「ベトナムGI」や「ハラス・ザ・ブラス」(司令官に嫌がらせをしよう)、「全員、船を放棄しよう」などがあった。内容は、戦場で起きたニュースや軍人からの手紙、戦争反対の記事、兵士や軍隊の秩序に抵抗した人とのインタビューなど様々だった。新聞を作っていたのは数百人の軍人だったが、数千人が配達に関与した。数万人もの兵士がこうした新聞を読んでいた。
新聞の配達に関与した場合は懲戒処分を受けるので、民間人による支援と「コーヒーハウス」などの基地の外にある場所が重要だった。コーヒーハウスには、印刷やレイアウトのための器材が用意されていた。配達は夜行われる場合が多かったが、方法は様々だった。車で何千部も基地の門外に置いておき、それを中にいる軍人が兵舎内に配るというケースもあった。(つづく)
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ベトナム戦争略年表 | |
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1945年8月 | 日本が無条件降伏 |
9月 | ベトナム民主共和国独立宣言 |
46年11月 | ベトミン(べトナム独立同盟会)と仏軍とが戦争に突入 |
54年5月 | ディエンビエンフーの戦いで仏軍が敗北 |
7月 | ジュネーブ協定。ベトナム民主共和国を承認し南北統一選挙を約束 |
10月 | 米が南にベトナム共和国擁立 |
55年11月 | 米軍事顧問団が南に援助開始 |
60年12月 | 南ベトナム解放民族戦線結成 |
61年1月 | 米ケネディ政権成立。軍事顧問団増派 |
64年8月 | トンキン湾事件 |
65年2月 | 米軍が北ベトナム爆撃開始 |
3月 | 米海兵隊がダナンに上陸 |
68年1月 | テト攻勢 |
3月 | パリ和平交渉開始 |
69年6月 | 南ベトナム臨時革命政府樹立 |
73年1月 | ベトナム和平協定締結 |
3月 | 米軍がベトナム撤兵完了 |
75年4月 | サイゴン陥落。ベトナム戦争終結 |