ヒロシマ、ナガサキの原点

週刊『前進』02頁(3053号02面02)(2019/07/18)


ヒロシマ、ナガサキの原点

(写真 広島原爆のきのこ雲。下には破壊され黒煙に包まれた広島市街が広がる)

(写真 原爆で焼け野原となった広島市中心部。奥の三角州が現在の平和記念公園。被爆当時は繁華街だった)


 74年前、第2次世界大戦末期の1945年8月6日午前8時15分、アメリカ帝国主義は、広島に対して史上初のウラン型原子爆弾による核攻撃を行った。続いて8月9日午前11時2分、長崎にプルトニウム型原爆を投下した。一瞬のうちに都市は壊滅し、爆心地から半径2㌔以内では50%以上の人々が即死・即日死し、死亡者数は45年末までに広島で約14万人、長崎で約7万4千人、計20万人を超える数に達した。この中には推定4万人の朝鮮人など、日帝によって強制連行されてきた朝鮮・中国・アジアの人々が多く含まれていた(日本が「唯一の被爆国」という時、これらの人々の存在は抹殺されている)。

阿鼻叫喚の地獄に

 原爆の炸裂は大量の放射線を放出し、すさまじい熱線と爆風を発生させた。阿鼻叫喚の原爆地獄が現出した。巨大な火の玉は、きのこ雲となって広がり、放射能で汚染された「黒い雨」が広範囲に降り注いだ。
 原爆にあって生き残った人、さらに後に肉親探しなどで市内に入った人も放射能のちりを吸い、水を飲んだりして内部被曝した。「熱が出はじめ、からだのあちこちに紫色の斑点が現れ、下痢・鼻血・血便が続くようになった。頭の毛が抜けはじめ、最後は大量に血を吐いて亡くなった」(肥田舜太郎・鎌仲ひとみ『内部被曝の脅威』)という同じ症状で死んでいった。被爆から5年間でさらに10万人が死亡した。生き残った30万人の被爆者にとって戦争、放射能との闘いは終わることはなかった。

被爆者抹殺に抗し

 当初、被爆者の闘いは、米帝・GHQ(連合国軍総司令部)による原爆についての報道禁止や、米帝を「解放軍」と規定した日本共産党スターリン主義による戦後革命の裏切りという状況下で、困難をきわめた。日帝は戦争責任・被爆責任を拒み続け、被爆者抹殺政策をとった。
 だが、自らの肉体をむしばみ続ける核・放射能と戦争への怒りを解き放って、被爆者は戦後の反戦反核闘争の先頭に立ち続けた。1950年朝鮮戦争下での8・6反戦集会、ビラ配布の闘い、1954年ビキニ水爆実験による第五福竜丸被爆を機とした原水禁運動、ソ連核実験を擁護した日本共産党をのりこえる闘い、70年安保・沖縄闘争、ベトナム反戦闘争と結合した被爆者解放闘争、被爆2世の決起、地上に置かれた原爆=原発との闘い、福島の闘いとの結合。被爆者・2世・3世の闘いは、日帝の改憲と戦争、核武装の策動に立ちはだかってきた。
 被爆者を先頭とする「ヒロシマ・ナガサキを繰り返すな!」の闘いの原点に立って、改憲・戦争を阻止する階級的労働運動、学生運動を発展させよう。

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