星野さんと共に未来を開く 無実なのに無期強いられ44年生涯かけて人間解放を闘った
星野さんと共に未来を開く
無実なのに無期強いられ44年生涯かけて人間解放を闘った
星野文昭さんは指名手配中の1975年8月6日に不当逮捕された。文昭さん29歳。以来44年、「無実なのに、無期という残酷」を強いられながら「どこまでも人間らしく生きようとする普遍的な力」を信じて生き抜いた。彼の73年の生涯とその遺志を引き継ぎ、彼と共に解放の未来へ進もう。
私は無実だ 星野文昭さんの再審陳述書(抜粋)
私は無実だ。私はやっていない。
中村巡査への殴打をしていない。
火炎びんの投てき命令をしていない。
これは一点の曇りのない真実だ。
無実なのに、無期を強いられる、それがどれほど理不尽なことなのか。
無実なのに、半永久的に監獄に閉じ込め、妻、家族、友人、全ての人々との直接のまじわりを奪い、自由な人間的生活を奪う。徹底的な服従の下で人間的尊厳が侵される、人生そのものが奪われる、これほど理不尽なことがあるだろうか。
それも、私が無実であることを裁判の場で一点の曇りもなく明らかにし、私が殴っていた、火炎びん投てき命令をしたと供述した当人が、それは目撃したり聞いたりしたものではないことを裁判の場で明らかにし、さらに、その供述が誘導、強制されたものであることを、体験した者にしか言えない内容で詳述しているにもかかわらず、無期という残酷を強いている、これほどの理不尽があるだろうか。
加えて、最高裁が、第1次再審請求特別抗告審において、私の当日の服装が薄青であったことを認め、唯一、きつね色上下の人物が殴っていたという根拠を示して私の殴打を具体的に供述していたKr供述そのものが別人についてのものであることが明白になり、同時に、後ろ姿、声で私であるとした供述もきつね色上下の人物についてのものであり、別人についてのものであることが明白になり、供述が完全に破綻しているにもかかわらず、請求を棄却し、無期を強い続けている、これからも投獄し続けようとしている、一体、こんな理不尽なことが許されるのか。
無実の者に無期を強いる理不尽さは、私や家族から全未来を奪い、生きる意志さえ奪うものだ。
それだけではない。そんなことがまかり通る世の中は、全ての人々にとっても、人間が人間として当たり前に生きるという現在と未来を奪うものだ。
これとの闘いは、全てが試される厳しいものだったが、これにうちかつ力は、私や家族、全ての人々がもつ、どこまでも人間らしく生きようとする普遍的な力に依拠することで、私の無実を晴らす、再審無罪・釈放をかちとることが必ずできるという確信だった。
人は、本来一人では生きていけず自分だけよければいいという利己的な存在ではなく、誰もが人間らしく生きられることによって心から満たされる存在であり、それを実現する力をもつ存在である。その人間的共同性、力が世の中を誰もが人間らしく生きられる世の中に変えていくし、同時に、私の無実には無罪を、釈放をの訴えが人々の心に届き広がり、それを実現していくことができると確信している。
その思いを共にし、一緒にあらゆる困苦をのりこえて生き、絆(きずな)を深めて未来を開くことを選択してくれた妻・暁子と、家族、さらにその思いを共にして、情熱と力を惜しまず注いでくれる弁護団、多くの友人、心ある人々の存在こそ力だった。
そして、無実の真実、それこそが無罪を必ずかちとることができる、ということが最大の力だ。
(第1次再審請求の棄却後、09年11月27日に第2次再審請求書と共に東京高裁に提出した星野文昭さんの陳述書。『無実で39年 獄壁こえた愛と革命』より)
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札幌で生まれ育つ
星野文昭さんは、1946年4月27日、北海道札幌市で3人兄弟の次男として生まれた。父は三郎さん、母は美智恵さん。文昭さんが逮捕されて以降、東京にアパートを借り、東京拘置所へ裁判所へと足を運ぶなど、ご両親は文昭さんの無実を信じ、あふれる愛情を注いで闘った。
しかし、三郎さんは1990年、美智恵さんは2007年に逝去された。病床に駆けつけることはおろか、葬儀出席のための刑執行停止申立も認められなかった。ご両親の遺志を継いで兄の星野治男さん、弟の星野修三さん、いとこの星野誉夫さんが、暁子さんと共に救援運動の先頭に立ってきた。
文昭さんは、家の裏の小川で魚をとったり、泳いだり、冬は雪を積んでかまくらを造り、火鉢を運んで、餅を焼いたりして遊ぶ、元気で明るい子どもだった。
小学校3年の頃からは、学習のスケジュールを壁に張り、宿題なども忘れたことがない真面目な子どもで先生からよくほめられた。友達に分からないところを教えてあげたりするやさしさがあった。
その頃、友達から広島の被爆写真を見せてもらったことが、社会について考えていくきっかけになったと後年、文昭さんは語っている。
絵を描く才能は、小学校4、5年から芽生えていた。静物画に陰影を入れて描き、先生から「もう少しの工夫で見違えるようにうまくなるでしょう」と評価された。中学、高校では生徒会長・委員長をやった。生徒からも、先生からも、厚い信頼を寄せられていたことが分かる。
中学は陸上クラブだった。自宅でも練習を欠かさず、毎日早朝、約4㌔を走ることを日課としていた。最初は一人で走っていたが、次第に兄と弟も一緒に走るようになった。父親も一緒に自転車でついてくるようになった。文昭さんは、毎回のタイムをきっちり計り、日記に書き込んでいた。また逆回りに走ってみたり、いろいろな挑戦もして楽しんだ。
高経大で学生運動
星野さんは1966年4月、高崎経済大学に入学。大学では、不正入学を告発した学生運動が巻き起こっており、全学ストライキが闘われていた。大学当局は闘う学生を次々に退学か停学処分にしたが、処分された学生は自治会室に泊まり込んで徹底抗戦していた。
大学2年になった星野さんは、大学当局の弾圧をものともせず、自ら自治会室に入り込んだ。当時の高崎経済大学闘争の記録映画『圧殺の森』(小川紳介監督、1967年)を撮影した大津幸四郎さんは、星野さんは「正義感の強い人、まじめでナイーブな学生だった」と語っている。
星野さんは処分撤回闘争の中心を担って闘った。69年6月には全学自治会を再建し、副委員長に就任した。自治会では、毎夜議論しては、ビラを作った。星野さんは絵がうまいこともあり、立て看板の文字をいつも早朝から書いていた。群馬大学の学生から呼ばれて行き、立て看板を書いたこともある。
大学の寮を回って寮生と熱烈な議論を繰り広げた。こうして、高崎経済大学を全学連の不抜の拠点に形成していった。
三里塚決戦を担う
1966年7月、政府は、ベトナム戦争で手狭になった羽田空港に代わる新たな国際空港用地として千葉県成田市三里塚・芝山地区を、地元農民の合意もなしに閣議決定した。
農地など金でいくらでも買収できるとする政府の思い上がりに怒った地元農民は、三里塚芝山連合空港反対同盟を結成し、農地と生活、家族を守るために身体を張って闘った。
1968年2月、全学連三里塚現地闘争本部が設立された。機動隊を押し立てた国家暴力の前に社・共などが次々と撤退する中、現闘は農地強奪攻撃と闘う反対同盟とともに団結し、反対同盟の営農を支え、共闘関係を確立して闘った。
1971年2月、政府による農地強奪=強制代執行が迫る緊迫した状況の中で星野さんは、全学連行動隊長として三里塚にやってきた。早速、長原公民館(成田市南三里塚字長原にあった)を「全学連の常駐小屋としてお借りしたい」と反対同盟農民の家々にあいさつに行った。反対同盟は快く了承してくれたばかりか、「自炊するのだろうから、釜をもっていけ」と釜まで貸してくれた。こうして、強制代執行攻撃と闘う拠点ができていった。
また、権力の道路封鎖を想定して、まだ夜も明けやらない薄暗い時間を選んで、駒井野砦(とりで)までの2時間半くらいの「抜け道」「山道」に習熟していき、戦闘態勢を築き上げていった。この頃の三里塚は、機動隊とのにらみ合い、正面からぶつかっていく闘いの連続であった。星野さんは、農民の農地を強奪する国家の暴力に対して、農民の怒りを自らのものとし、ひるまず闘った。
星野さんがリーダーとして抜きん出ていたのは、常に部隊全体のことを考えて指揮していたことだ。また、彼のアジテーションは、心底からの思いを真剣に伝えるもので、いつも説得力のある内容だった。
反対同盟、特に婦人行動隊からの人気は抜群で「おとなしくて静かで、いい学生さん」「おらが息子」と慕われた。闘争の合間には、地元の子どもたちに勉強を教えたりする、やさしいお兄さんでもあった。
2~3月の強制代執行阻止闘争に続き、7月の仮処分阻止闘争、9月第2次強制代執行阻止闘争を星野さんは最先頭で闘い、7月、9月の両方で指名手配された。(後に懲役6年と8年の有罪判決が確定)
お母さんの美智恵さんは、文昭さんの三里塚裁判の証言で「文昭は相手の身になって考える子です。三里塚成田の時は、農民の身になって考え、弱者の人権が守れる社会になるようにがんばりました」と述べた。
71年11・14渋谷闘争
戦後、沖縄では、米軍がブルドーザーと銃剣で基地のための土地をさらに囲い込んでいった。沖縄の労働者民衆の基地撤去の闘いが激しくなる中で、日米両政府は、沖縄の人々の願いをかなえるかのようにしてペテン的な沖縄「返還」を画策した。
沖縄の島ぐるみの反対闘争に応えることが本土の労働者人民に問われていた。星野さんは、沖縄返還協定批准を阻止するために、三里塚の二つの件で指名手配されている身でありながら、デモ隊のリーダーとして敢然と決起した。
1971年11月14日、星野さんは中野駅に集合した200人余りの労働者・学生と共に代々木八幡駅に降り立った。神山交番前で機動隊と衝突し、バラバラになったデモ隊を神山町東交差点で再度まとめあげ、渋谷の東急本店前まで到達させた。
集会・デモが禁止される中、機動隊の弾圧・襲撃をはねのけ、「デモ隊を守りきって渋谷に到達する。その一点に全神経を集中させていた」と星野さんは語っている。
国家権力は、この闘いに恐れをなし、星野さんを機動隊員殺害の「実行犯」としてでっち上げ、死刑を求刑した。死刑阻止の12万人の署名が集まり、一審判決は懲役20年。83年東京高裁・草場良八(後に最高裁長官)は、それを破棄し、無期懲役を言い渡した。
最高裁が上告を棄却し、無期懲役が確定したのは87年7月17日。まさに国鉄分割・民営化攻撃と一体の攻撃だった。
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星野文昭さんの歩み
1946年4月27日 北海道札幌市に生まれる
66年4月 高崎経済大学入学、不正入試阻止に決起
69年6月 同大学再建自治会執行委員会副委員長就任
71年春 全学連三里塚現地闘争本部に常駐
7月、9月強制代執行阻止決戦で指名手配
71年11月14日 沖縄返還協定批准阻止・渋谷闘争に決起
75年8月6日 不当逮捕
79年2月13日 検察が死刑求刑。死刑阻止署名12万筆
8月21日 東京地裁で判決、懲役20年
83年7月13日 東京高裁が一審判決破棄・無期懲役判決
86年9月17日 暁子さんと獄中結婚
87年7月17日 最高裁が上告棄却、無期懲役が確定
88年 杉並と徳島で「救う会」発足(以降、全国で36の救援会が結成)
96年1月28日 「全国再審連絡会議」発足
4月17日 再審請求書提出
2000年2月22日 再審請求棄却決定、24日に異議申立
04年1月19日 異議申立棄却、23日に最高裁に特別抗告
06年6月 友人面会実現(以降、94人が面会)
08年7月14日 最高裁、特別抗告棄却決定
09年11月27日 第2次再審請求書提出
12年2月5日 徳島刑務所包囲デモ(以後17年まで5回)
3月30日 再審請求棄却決定、4月3日に異議申立
17年7月14日 家族、弁護団、共同代表が四国地方更生保護委員会へ第1回申し入れ(以後、13回)
18年5月20日 朝日新聞大阪本社版(関西、中国、 四国)と四国新聞の各朝刊に意見広告
8月22日 星野さん、徳島刑務所で作業中に倒れる11月25日 朝日新聞東京本社版朝刊に意見広告
19年1月19日 韓国・大邱で星野詩画展、暁子さんら参加
2月17日 琉球新報、沖縄タイムスの朝刊に意見広告
3月4日 徳島刑務所でエコー検査。結果は告げず
4月18日 東日本成人矯正医療センターへ移監
5月28日 肝臓がん切除手術。翌朝、周術期出血に伴う急性肝不全で重篤状態に。暁子さん面会
30日 午後9時44分、永眠