野島三郎同志を悼む 党創成を本多延嘉同志と共にした最古参の革命家 革命的共産主義者同盟
週刊『前進』04頁(3042号04面03)(2019/06/10)
野島三郎同志を悼む
党創成を本多延嘉同志と共にした最古参の革命家
革命的共産主義者同盟
革共同全国委員会の創始者の一員であり、終生党と共に闘った野島三郎(本名・木下尊晤=たかあき)同志が2月28日、膀胱(ぼうこう)がんの全身への転移などにより、逝去した。82歳だった。我々は最古参の党指導者を失ったことを深く悲しみ、志半ばで果たせなかったその思いを受け継いで、労働者階級自己解放の闘いの勝利まで、プロレタリア世界革命の完遂まで闘い抜くことを誓う。
マル青・国鉄を指導
野島同志は、1956年、法政大学に入学、本多延嘉同志との出会いから革命的共産主義者同盟に結集し、1959年の革共同第2次分裂(60年安保闘争の爆発を目前にした革共同全国委員会結成)に際して本多同志と共に闘った。61年、マルクス主義青年労働者同盟の創設の先頭に立ち、政治局員として全線委員会(国鉄委員会)を指導し、62~63年、黒田寛一らカクマル分子の日和見主義と解党主義に対して、本多書記長と共に先頭で闘った。分裂の際の、職場の闘いに背を向けた倉川篤=松崎明(後のJR東労組委員長)の誤りとの闘いは、後の動労千葉の道(階級的労働運動)か、JR総連の道(労資協調主義、資本の先兵化)かの分岐点だった。
1967年10・8羽田闘争から始まる70年安保・沖縄闘争では、反戦青年委員会の労働者部隊の先頭に立った。さらに関西地方委員会の再建に責任をとった。
75年3月14日のカクマルによる本多書記長暗殺に対し、烈火の怒りで反撃の闘いに立ち上がった。直後の政治局声明を受けて、復讐(ふくしゅう)戦への烈々たる一文「反革命どもに血の処刑を」を書いた。そこで「革命運動の今日的前進のことごとくは、すべて本多書記長の指導に負うといって過言ではない。真に巨人ともいえる偉大な革命家、本多延嘉書記長!」とたたえ、その首領の命を言語に絶する卑劣な手段で奪われたことに、「煮えくりかえる怒りと憤り、我々にはこれのみである。誰も涙しない。復讐の決意、これのみである。我々は憎しみと、復讐のるつぼそのものである」と、満身の怒りを爆発させて、全党全人民を鼓舞してやまなかった。
野島同志執筆の「3・14宣言」(76年)と「3・14アピール」(77年)は、3・14反革命をいかに受けとめ、いかにのりこえていくのかという凄絶(せいぜつ)な苦闘の中から結晶した我々の実践的結論であり、実践的綱領だった。ここでの野島同志の指導と、それに応える全党の決起があって、その後の革共同の闘い、今日の我々がある。
「内戦論」など執筆
野島同志は70年代に2冊の本を上梓(じょうし)した。70年闘争とその後の二重対峙・対カクマル戦の渦中で書いた『革共同の内戦論』(75年5月、3・14直前に編集)と、3・14反革命後の闘いの中で書いた『現代革命と内戦』(77年9月)だ。前者はフランス、スペインの1930年代階級闘争を中心にした先駆的な研究と実践的教訓の書、後者は「3・14宣言」と「3・14アピール」を中心に編まれた闘いの書である。まさに70年代において野島同志は、3・14反革命という世紀の大逆流の前に仁王立ちして、革共同を牽引(けんいん)したのだ。80年代後半以降、脳梗塞(こうそく)で倒れるなど多くの病気に襲われ、リハビリも壮絶を極めた。その中でも、97年から02年にかけて『清水丈夫選集』の各巻巻末の解説を執筆した。
青年・学生に期待
野島同志は、06年3月以来の党の革命に際しては、革共同と共にあることを明確に態度表明した。脱落分子が彼に取り入ろうと画策したが、付け入るスキがなかった。革共同が青年・学生の党に生まれ変わることを熱烈に支持し、自分もまだやり残したことがあると口にし、不屈に闘病を続けた。「一兵卒として」と語り、11月労働者集会や三里塚全国集会に合わせて体調を整える努力をし、病身にムチ打って参加し続けた。常に革共同と共にあること、労働者階級と共にあることを心掛け、旺盛な学習欲、探求心、読書欲を持ち続け、最後まで革命家として生き抜いた。とりわけ星野文昭同志解放を強く思いそのために心を砕いた。
革共同は、1959年に反帝・反スターリン主義世界革命に向けて出発した時の初志を貫き、ここまで前進してきた。今まさに、帝国主義が最後的に破産し、戦争か革命かしかないところに直面している。野島同志が最初から思い描いていたことがいよいよ現実の階級闘争の過程で現れる情勢が到来した。
野島同志が階級闘争において果たした役割の大きさは計り知れない。我々は先達ののこしたものをしっかりと受け継いで、勝利まで闘い抜くことを誓う。