繰り返すな戦争-日米安保と沖縄- 第5回 安保を揺るがした全軍労闘争 基地労働者の決起が全沖縄動かす
繰り返すな戦争
-日米安保と沖縄- 第5回
安保を揺るがした全軍労闘争
基地労働者の決起が全沖縄動かす
基地労働者が動くとき、沖縄のすべてが動く----それは今も昔も変わらない真実である。米軍基地で働く労働者は「基地の島」=沖縄の全矛盾を背負った存在であり、彼らが団結して立ち上がればその瞬間に基地は停止し、日米安保は「死に体」となる。そして全基地撤去に向けた沖縄全島ゼネストの道が切り開かれる。1972年の本土復帰を前後して激しく闘われた全軍労(全沖縄軍労働組合)闘争はそのことを証明した。本シリーズの終わりに全軍労闘争を振り返り、今日の沖縄闘争の展望について考えたい。
米兵と対峙しストを決行
沖縄における基地労働は、米軍が沖縄戦の過程で捕虜収容所を建設し、そこに収容した住民を戦場の後片付けや米軍施設の雑役に動員したことに始まる。街や村は戦争で破壊され、主要な農地は米軍に接収されたため、多くの住民は収容所を出た後も基地労働や港湾の荷役作業などに就かざるを得なかった。さらに米軍は各市町村に基地労働への労務供出を義務付けた。
朝鮮戦争下の52年には、沖縄の基地労働者・軍関連作業員は6万7千人に達した。同年、基地建設を請け負って本土から乗り込んだ土建業者に対して、基地労働者は未払い賃金の支払いや労働環境改善を求めて次々と争議を起こした。これが戦後沖縄の労働運動の最初の一歩であった。
この土建争議を受け、琉球政府は53年に労働三法を制定するが、米軍(米国民政府)はその直前に公布した「布令116号」で基地労働者を労働三法の適用から除外し、スト権も争議権も奪った。だが基地労働者はこうした中でも各職場で組合結成に動き、61年には六つの基地関係労組からなる全沖縄軍労働組合連合会(全軍労連)が発足、63年には12組合が単一組織へ移行し全軍労と改称した。
68年4月24日、全軍労は大幅賃上げと布令116号撤廃を要求して初の10割年休闘争を決行。沖縄全島六十数カ所の基地ゲートに赤旗を翻らせ、基地機能を一時完全に停止させた。沖縄全体で本土復帰闘争が高揚する中、全軍労の決起は米軍の沖縄支配の破綻を象徴する事態だった。
その後、沖縄の闘いは69年2・4ゼネストの挫折という大きな壁にぶつかるが、全軍労は青年労働者を先頭に武装米兵と対峙して6・5ストを闘った。そして11月には日米政府が米軍基地を維持したままのペテン的「返還」に合意し、直後に米軍が基地労働者2400人の解雇を発表。以後毎年2千人以上の大量解雇攻撃が続く中で、全軍労は全沖縄を揺るがす大闘争に決起していく。
「死すべきは米軍基地だ」
「コザのゲート通りを埋めるヘルメットの一群は、全軍労牧港支部青年部、通称『牧青(まきせい)』に所属する青年たちだ。日本復帰を目前にした沖縄で、全軍労は圧倒的な強者である米軍に正面から『否』を叫んだ。なかでも牧青は、基地内でストやデモを決行して米軍との衝突をも辞さぬ過激な闘いで知られた」(2011年9月14日付琉球新報)
このように今も語り継がれる牧青は、米軍牧港補給地区で働く青年労働者によって1970年2月4日に結成された。牧青の決起は、それまでの全軍労闘争の単なる延長・発展の産物ではなかった。前回も見た通り、その背景には本土の「安保粉砕・日帝打倒」の闘いとの合流があり、既成の労組指導部を乗り越える沖縄県反戦青年委員会の結成(69年10月)があった。
70年3月、反戦青年委のメンバーで全軍労牧港支部の執行委員でもあった太田隆一さんは、解雇攻撃による一人の女性労働者の自殺未遂に直面し、自らも解雇通告を受けた者として「死すべきは基地だ、労働者は死んではならない」と書いた自筆ビラをまいて解雇撤回闘争に決起した。反戦青年委はただちに「太田さんを守る会」を結成。青年労働者や学生が結集し、米兵・警備員・琉球警察と衝突して基地に突入する強行就労闘争が連日闘われた。
「太田さんのこの闘いは多くの下部労働者の魂をゆさぶり、『死んではならない、死すべきは基地だ』という訴えは職場=基地内へと受けつがれ、『組合は何をしているのだ』という指導部に対する鋭い批判を生み出した。そして、この太田さんの『一人でも闘う』という、闘う者にとっての基本的な姿勢は、牧港支部青年部に結集する青年労働者に受けつがれ......3月20日の全軍労総決起大会と軍港前デモには、牧港支部青年部のヘルメット部隊が最先頭に立った」(三一書房刊『全軍労反戦派』)
太田さんを先頭とする反戦派の闘いは、解雇を粉砕して基地にとどまり、労働者の団結した力で内側から基地を解体・撤去してその土地を奪還する、「基地撤去=沖縄奪還」のスローガンの具体的実践だった。同時にそれは、どんな労働であろうと自分の職場を絶対に放棄せず、権力や資本に職場を明け渡さず、解雇攻撃に対してはあくまでも解雇撤回を貫くことが労働運動の原則であり、それこそが青年の心を最もとらえることを証明したのである。
牧青先頭に全島ゼネスト
全軍労の上原康助委員長ら執行部は、「解雇撤回」のスローガンを早々に降ろし、退職金増額や離職者対策などを条件に闘争を終結しようとした。だが牧青は「解雇撤回・基地撤去」を堅持し、「大衆に支持され言行一致の運動を」「批判は実践で示す」(仲田憲和青年部長)を合言葉に独自闘争を展開した。右翼・暴力団によるスト現場への襲撃をはね返すため、三里塚青年行動隊を手本に「牧青行動隊」を結成し、71年2〜4月のスト時には牧港だけでなく嘉手納、金武、コザなど各地に駆けつけて反革命勢力を撃退した。
牧青の「解雇撤回・基地撤去」の訴えと激闘は組合員大衆から圧倒的に支持され、ついに全軍労は同年5月14日の臨時大会で「一切の軍事基地撤去」のスローガンを決定。全軍労を主力に5・19全島ゼネストが実現した。さらに牧青は7〜9月の知花弾薬庫毒ガス移送阻止闘争(単独50日間スト)を経て、11月ゼネストへの道を切り開いた。
72年3月、米軍は「5・15返還」を前にさらなる大量解雇を強行し、全軍労はついに無期限ストに突入。だが全軍労執行部はスト35日目にして、正式な機関決定もなく記者会見で「スト終結」を発表し逃亡するという前代未聞の幕引きを図った。牧港支部5千人はこれに抗議し、単独でさらに2日間のストを継続した。
牧青と牧港支部の闘いは「5・15」を超えて進み、米軍さえ手が出せない「基地内決起」を何度も実現したが、相次ぐ大量解雇と活動家のパージ、反革命カクマルのテロ襲撃、本土全駐労との組織統合(78年)などを経て、闘いはいったんは抑え込まれていく。
だが、団結した基地労働者の持つ力と可能性を満天下に示した全軍労闘争は、今日のゼネスト情勢の中で新たな基地労働者の決起へ引き継がれつつある。今年2月4日の港湾労働者のストに続き、本土・沖縄を貫く荒々しい労働者の闘いを今こそよみがえらせよう。