小野正春同志を悼む 豪放で明るく、恐れを知らぬ突撃力の革命家 革命的共産主義者同盟 柏木俊秋
週刊『前進』04頁(2991号04面03)(2018/11/19)
小野正春同志を悼む
豪放で明るく、恐れを知らぬ突撃力の革命家
革命的共産主義者同盟 柏木俊秋
「マオさん」の愛称で親しまれた小野正春同志が10月4日に亡くなった。享年80。一昨年8月に手術した大腸がんの全身への転移、その急速な進行が生来頑健な小野同志の命を奪った。7月に入院先から東京・立川市の自宅に戻り、家族に支えられて闘病し、現役の革命家としての生涯を全うした。昨年の11月労働者集会に久々に元気な姿を見せたのが、多くの同志たちと言葉を交わす最後の機会となった。
その愛称は若い頃かぶっていた毛沢東流の人民帽姿に由来する。機動隊や反革命カクマルとの戦闘で見せた、恐れを知らぬ突撃力、獅子奮迅の戦いぶりがマオさんをマオさんたらしめた。天性の明るさ、人なつこさ、どこへでも臆せず入っていく進取の突破力と相まって、中核派の戦闘性・不屈性の体現者だった。
全学連から常任に
小野同志は1938年、新潟県北蒲原郡中条町(現胎内市)に生まれた。58年早稲田大学第一文学部に入学。日本共産党員だった彼は、先輩の本多延嘉前書記長の説得で59年に革共同全国委員会に加盟。全学連の活動家として国会突入の60年安保闘争を闘い、61年10月の再建都学連委員長、同12月の全学連副委員長などを歴任した。63年マル学同中核派結成時の中心メンバーだった。小野同志は豪放磊落(らいらく)で包容力のある革命家、誠実で責任感の強い指導者だった。60年代後半には初期の入管戦線を担い、70年決戦では東京中部地区の常任として千代田反戦を率いて闘った。
出獄後の70年代後半は神奈川県委員会で労働運動の組織化に奮闘。80年代初頭から二十余年は前進社出版部の部長を務め、その後、中央常任として階級的労働運動を牽引(けんいん)した。
諸人士と交流の輪
小野同志は三里塚や北富士の農民から厚い信頼を寄せられた。また、在日朝鮮・中国人民や諸人士との交流の輪を広げ、林歳徳さん、古波津英興さん、尾崎秀樹さんら多彩な人々と親密な同志的関係を結んだ。他党派の人々も含むそのずば抜けた人脈とカンパ網。『前進』を一人で何十部も配布する努力。『前進』で人を組織し、非合法・非公然の党建設に力を注ぐ、揺るぎない党派性と大衆性を体現した戦士だった。小野同志は日ごろよく、「俺は元来ジャーナリスト肌の人間だ」と言って、早稲田大学新聞編集長だった本多同志の感性の鋭さを手本としていた。その自負のとおり、様々な人士とのインタビューやエッセイ風の記事などに特段の力を発揮した。2003年には「人間の盾」のツアーに参加して戦火のイラクを3回も訪問し、帰国後は「ジャーナリスト精神」と革命家魂にあふれた報告パンフレット「イラク戦争の真実」を作成して多くの人に訴えた。
出版財政立て直す
小野同志の功績の一つに前進社出版部での献身的努力と団結強化がある。何より二重対峙・対カクマル戦の最も困難な時期に部長を引き受け、出版部財政を立て直して『共産主義者』の季刊化を定着させた。もう一つは、彼が早い時期から核問題の決定的重要性を訴え、仲間を募って反核・反原発の運動や研究会をリードし続けたことだ。イラク行きも、劣化ウラン弾への身をていした告発であり、国際連帯だった。その地道な努力は3・11以後の反核・反原発運動の全党的実践に結実した。
小野同志は全身全霊をかけて闘い、生き、そして逝った。悔いが残るとすれば、自身が最も待ち望んでいたはずの激動と革命の時代に自らが羽ばたけないこと、星野文昭同志ら獄中同志の奪還・出獄を見届けずに先立つことだったに違いない。それらは、小野同志の遺志を引き継ぐ我々に託された課題だ。小野同志の魂は常に我々と共にある。