もう絶対に戦争はいけないという思いで教員になった 元小学校教員・元多摩教組 牧江寿子さん

週刊『前進』02頁(2978号02面03)(2018/10/04)


もう絶対に戦争はいけないという思いで教員になった
 元小学校教員・元多摩教組 牧江寿子さん


 9月24日の「戦争するな! 9条変えるな 国分寺の集い」(前号既報)で元小学校教員で元多摩教組の牧江寿子さんが「子どもたちを二度と戦場に送らない」と題して講演を行いました。その要旨を紹介します。(編集局)

人殺しあおる教育

 私は1936年生まれです。日本が侵略戦争にひた走る中で国民学校教育を1年から3年まで受けました(4年の時に集団疎開)。
 学校では行事が重視されました。天皇・皇后の写真のある奉安殿が校門を入った真ん中にあり、いつもお辞儀をして入りました。朝礼の時は皇居のある東を向いて「宮城遥拝(きゅうじょうようはい)」もしました。校長先生がうやうやしく教育勅語を持ってきて朝礼や行事で「朕(ちん)思うに……」と読み上げるのを、下を向いて聞いていました。食糧事情も悪く、みんな鼻をすすりながら聞いていました。
 そういう教育の中で、作文で「兵隊さん、がんばってください」と書いた覚えがあります。先日、テレビで「『1人でも2人でも多く殺してきてください』という手紙を兵隊さんに送った」と映していました。究極的には「人を殺せ」と教える国民学校教育でした。
 台湾出身で日本兵にされた方が「日本の教師は悪魔だ」とものすごく怒っていたことを胸に、「絶対に戦争はしてはならない」という思いで生きてきました。

唱歌で戦争に動員

 大先輩の北村小夜さんが当時の小学校唱歌などを研究されて、「歌は兵器だ」とおっしゃっていました。
 「われは海の子」は今は2番までしか歌われませんが、7番は「いで大船を乗り出して 我は拾わん 海の富 いで軍艦に乗組みて 我は護(まも)らん 海の国」という、アジア侵略の歌だったのです。それから「汽車ポッポ」の元の歌詞は、「兵隊さんを乗せて シュッポシュッポ シュッポッポ 僕等も手に手に日の丸の 旗を振って送りましょう」という、兵隊を送る汽車だったのです。本当に恐ろしく思います。
 「お山の杉の子」の最後の方は「大きくなって国のため お役に立ってみせまする」です。私はこのあたりにすごく影響を受けてしまって、「今は小さいけれど、大きくなってお国のために尽くさなくちゃいけない」と思い込みました。それで将来は従軍看護婦になろうと思って育ちました。

教員ストの波及力

 戦後は中学で憲法の勉強をしたり、映画「日本戦没学生の手記/きけ、わだつみの声」を池袋まで見に行ったりしました。2・1ストや国鉄がストで止まるなどの環境の中で、「もう絶対に戦争をしてはいけない」という思いをもって小学校の教員になりました。
 最初の勤務校、国分寺4小で出会ったのが「勤務評定反対闘争」です。東京では58年4月23日に全一日の一斉休暇―ストに入り、北多摩中の教員が国立に集まって都庁へ行きました。都庁での委員長の演説、労働者の熱気、解放感、勢い。その光景は今でも忘れられません。歴史上初の教育労働者のストは、その後の警職法闘争や60年安保闘争につながっていきました。
 今の関税戦争がいつ軍事的な戦いに転化するかわかりません。そういう情勢の中で道徳の教科化の攻撃がかけられています。みなさんと共に改憲阻止・戦争阻止をやりぬきます。
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