繰り返すな戦争 日帝のアジア侵略 第2回 日帝が傀儡国家でっち上げ 「満蒙」の資源略奪を狙う
繰り返すな戦争
日帝のアジア侵略 第2回
日帝が傀儡国家でっち上げ
「満蒙」の資源略奪を狙う
前回(2966号2面)見たように、かつての大日本帝国による「15年戦争」は、1931年9月の中国東北部侵略戦争(「満州事変」)をもって始まった。日帝はここに「満州国」と称する傀儡(かいらい)国家をでっち上げ、土地や資源を略奪し、抵抗する人々をことごとく弾圧し虐殺した。今回はこの「満州事変」と「満州国」の実態に焦点を当てて、日本帝国主義の侵略戦争の歴史を見ていきたい。
「鉄道警備」で軍隊を派遣
日本は日清戦争(1894〜95年)で巨額の賠償金とともに台湾・澎湖諸島を清国から奪い、さらに日露戦争(1904〜05年)後にロシアから譲渡された遼東半島南端部を「関東州」と名づけて租借地とした。そして「関東州」の旅順・大連から吉林省長春に至る鉄道線を経営する南満州鉄道株式会社(満鉄)を06年に設立し、満鉄線付属地の警備を主任務とする陸軍守備隊を配備、これが19年以降「関東軍」となった。
こうして日本は中国東北部の南部(南満州)と内蒙古の一部にまたがる広大な地域に勢力圏を獲得し、これを「満蒙特殊権益」と呼んだ(30年の時点で日本の対外投資の7割が「満蒙」に集中)。さらに北部も含む満州全体は鉄・石炭・石油・アルミなどの豊富な天然資源を埋蔵し、大豆などの農作物の一大生産地であり、3千万の人口を抱える商品販売市場であり、さらには中国本土への侵略戦争や対ソ戦争を準備するための軍事的要衝となる地域でもあった。
この資源・市場・勢力圏の独占支配を狙って引き起こされたのが、31年9月19日の柳条湖事件(関東軍による満鉄線爆破を中国軍のしわざとでっち上げた)を発端とする「満州事変」だった。これを機に関東軍は中国軍を奇襲し、主要都市を次々と占領した。天皇ヒロヒトは32年1月、関東軍の行動を「自衛の必要上」「奮戦力闘」したものとして絶賛する勅語を発した。そして2月までに全満州を占領した関東軍は、国際連盟の撤退勧告を無視して3月1日、辛亥革命で崩壊した清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を名目上の執政(後に皇帝)とする「満州国」の建国を宣言した。
「五族協和」は全くの虚構
「民族協和、王道楽土の理想が輝き、科学的にも、良心的にも、果敢な実践が行われた。それは正しくユニークな近代的国づくりであった」----これは、「満州国」で総務庁次長などの要職を歴任し、戦後は首相となった岸信介(安倍晋三の祖父)が回顧録で語った言葉である。岸に限らず、当時の日帝は漢民族・満州族・蒙古族・朝鮮人・日本人が平等に共存共栄を図ると称して「五族協和」を掲げ、「満州国」は「その住民の意志に基きて自由に成立し、独立の一国家をなす」(日満議定書)と建国を正当化した。
だがその実態は民族協和とは全く正反対の、日帝・関東軍による他民族への暴力と抑圧が日常化した軍事監獄そのものであった。
そもそも満州事変を仕組んだ関東軍参謀らは、建国前から「新国家は......表面的立憲共和的国家とするも内面は我帝国の政治的威力を嵌入(かんにゅう=はめこむ)せる中央独裁主義」(関東軍「満蒙問題善後処理要綱」)と計画し、「門戸開放、機会均等の主義を標榜(ひょうぼう)するも原則において日本および日本人の利益を図るを第一義とする」(同)ことを狙っていた。そして実際、日満議定書とその付属文書で、関東軍は全満州で完全な行動の自由と施設使用権を獲得し、重要官署には日本人を任用の上、その選任・解任は関東軍司令官の同意を必要すると確約させた。
このような完全なかいらい国家のもと、関東軍は開拓用地強制買収で中国農民の土地と家屋を奪い、零下40度の厳寒の中に裸同然で放り出した。そして「満州国」に不満を抱く者をことごとく「匪賊(ひぞく)」とみなして弾圧・殺害した。「治安不良」とされた地域の住民は、ナチス統治下のユダヤ人ゲットーと同様の「集団部落」なる隔離居住区に移住させられ、矯正輔導(ほどう)院と呼ばれる収容所に送られた。
こうした中で中国人民の反満抗日闘争は激化、「匪賊出現回数」は陸軍省の記録で年間3万6千回(36年度)に達した。関東軍は「匪賊は地方住民と常に密接なる関係を維持しているから......捕捉せん滅ができない」(関東軍参謀・河辺虎四郎)として一般住民への虐殺を繰り返した。遼寧省北部の平頂山で3千人の住民全員を虐殺した事件はその最たるものだ。
切り捨てられた「開拓団」
日帝は満州を原料・食糧の供給地であると同時に国内の過剰人口のはけ口と位置づけ、「満蒙開拓団」を組織して移住を奨励した。だが45年8月9日にソ連が対日参戦し満州に進撃すると、関東軍は一夜にして総崩れとなり、「居留民保護」という軍隊としての大義名分すら投げ捨て、上級将校は官僚や資本家らと共に開拓民を見捨てて食糧や物資を持って逃走した。その結果、取り残された多くの日本人が飢餓線上をさまよい、家族離散を強いられ、命を落とした。他方で、飢えに苦しむ日本人に少ない食糧を分け与え、その命を救ってくれたのは中国人民だった。
以上のような「満州国」の実態を見るとき、「日本の統治下で中国や植民地・朝鮮は近代化した」などという正当化論が帝国主義の犯罪的な侵略・略奪・虐殺を居直り、歴史を歪曲するものでしかないことも明白である。実際には、日帝の侵略と戦争でアジア人民も、日本の人民も命と生活を踏みにじられた。こんなことを絶対に繰り返させてはならない。
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【日帝の中国侵略関連年表】
1894〜95年 日清戦争
1900年 日本が義和団蜂起鎮圧のため中国に出兵
04〜05年 日露戦争
06年11月 南満州鉄道株式会社設立
10年8月 日本が朝鮮を植民地化
12年2月 辛亥革命で清朝が崩壊
14年8月 第1次大戦勃発
15年1月 日本が中国に21カ条要求
17年11月 ロシア十月革命
19年5月 中国全土で五四抗日運動
25年5月 5・30上海ゼネスト
27〜29年 日本軍が山東出兵
28年6月 関東軍が張作霖を爆殺
31年9月 柳条湖事件
32年1月 天皇が関東軍支持の勅語
2月 関東軍が満州全土を占領
3月 「満州国」建国宣言
9月 日満議定書調印
33年3月 日本が国際連盟を脱退
37年7月 盧溝橋事件
12月 南京大虐殺
39年9月 第2次大戦勃発
41年12月 アジア・太平洋戦争開戦
45年8月9日 ソ連軍が対日参戦
8月15日 日帝敗戦