繰り返すな戦争 日帝のアジア侵略 第1回 「三光」作戦で人民大虐殺 日帝は中国侵略で何をしたか

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週刊『前進』02頁(2966号02面02)(2018/08/23)


繰り返すな戦争
 日帝のアジア侵略 第1回
 「三光」作戦で人民大虐殺
 日帝は中国侵略で何をしたか



(写真 抗日戦争で中国人民は日本軍兵士に反戦を呼びかけた)


 日本帝国主義の行った戦争は「15年戦争」と呼ばれている。1931年、日本軍の中国東北部への軍事侵攻に始まり、45年8月まで続いた中国侵略戦争がその核心だ。41年の対米開戦は、その行き詰まりを侵略戦争のアジア・太平洋全域への拡大で突破しようとしたものだった。その結果、日本人民310万人が犠牲になったが、アジア人民の犠牲者はそれをはるかに上回り、2千万人を超えた。「天皇の軍隊」が朝鮮・中国・アジア人民に何をしたのか。安倍の改憲・戦争攻撃を阻むためにも、真実をいま一度直視しよう。

「自衛」主張し軍隊を出兵

 中国侵略戦争は1931年9月18日、中国大陸に出兵していた「関東軍」と呼ばれる日本の軍隊が自作自演で列車を爆破し、それを開戦の口実にした柳条湖事件に始まった。日本ではこれを「満州事変」と呼ぶ。
 だが日帝の中国侵略はそのずっと前、19世紀末から始まっていた。朝鮮・台湾の植民地化に続いて中国大陸をも支配下に置こうと狙った日帝は1915年、第1次大戦に乗じて中国政府に「21カ条の要求」を突きつけた。そこには、ドイツが山東省にもっていた一切の権益を日本に譲渡することと同時に、日帝が「日本の生命線」と位置づけた「満蒙」=中国東北部とモンゴルの鉱山採掘権や鉄道敷設権を日本に独占的に与えること、日本政府の同意なしに他の外国資本の中国進出を認めないこと、日本人を中国政府の政治・経済・軍事顧問としてその助言に従うこと、警察官にも日本人を採用することなどが含まれていた。
 これに対する中国人民の激しい怒りがわき起こる中、日帝は中国にいる日本人の「生命・財産を守る」と称して軍隊の出兵を繰り返した。そしてついには柳条湖事件をでっち上げて中国東北部への本格的な侵略戦争に突入。32年には日帝のかいらい国家「満州国」の建国を強行し、さらに37年7月7日の盧溝橋事件を機に侵略戦争を中国全土に拡大したのである。
 当時の日本政府は、この戦争は日本に敵対的態度をとる中国政府を膺懲(ようちょう=こらしめる)するための戦争であり、在留日本人の安全を守るための「自衛の措置」だとあくまで主張した。そして、日帝の侵略に抵抗して戦う中国人民はすべて「匪賊(ひぞく=テロリスト)」だとして虐殺を正当化したのだ。

集落丸ごと破壊し皆殺し

 日帝が行った中国侵略の本質をもっとも鋭く表すものこそ、華北をはじめ全土で行われた「三光」(殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす)作戦だ。
 激しさを増す侵略の中で日本軍は自らを包囲する中国人民の怒りに恐怖し、都市や集落を丸ごと壊滅させる殲滅(せんめつ)戦をとった。目に入る人民のすべてを敵視し、子どもさえも「大きくなったら八路軍(中国共産党が指揮し抗日戦の主力となった軍隊)になる」として虐殺した。
 この戦争において、食糧をはじめとする物資の補給などは初めから想定されていなかった。「敵地区では何をしてもよい」とされ、兵士は現地住民から農作物や貯蓄食糧を「徴発」=略奪した。それだけではない。生活用品はすべて打ち壊して使えないようにし、最後には住民を皆殺しにして集落全体に火を放った。そのひどさは「日本軍の通った後には草木も生えぬ」と言われるほどだった。この残虐な戦法は米軍に引き継がれ、後にベトナムや中東においても同様の虐殺が繰り返された。
 「住民(婦女子を含み)三十九名を射殺(刺殺もありましたが人数不明です)し、四十四名を射撃傷害し、又衣服家具類百件余を掠奪(りゃくだつ)しました......どうせこの地方の住民は日本軍の姿を見たら全村逃避するだけ八路の言う事をきく敵同然だから、当然な報復懲罰だと思っていました」(岩波新書『中国侵略の証言者たち』所収、太原戦犯管理所における日本人戦犯の供述書から)
 こうした「三光」作戦が行き着いた先に、南京での大虐殺事件があった。

侵略の正当化を許さない

 柳条湖事件を起点とするこの「15年戦争」は、41年の太平洋戦争開戦、そして45年の日帝のポツダム宣言受諾=無条件降伏に行き着いた。日帝に敗北を強制したものは何より、八路軍とともに日帝の侵略軍の前に立ちはだかり、縦横無尽な戦いを展開した中国の労働者人民の力だった。
 しかし70年代以降、右翼・帝国主義者どもは、恥知らずにも侵略を合理化・正当化するのみならず、歴史教科書の記述などを標的としてこうした事実そのものが虚構であるかのように大宣伝してきた。しかし、侵略の銃を握らされた日本の労働者・学生が戦地で目にし経験したのは、人間が人間でなくなる地獄そのものだった。この事実は絶対に消すことができない。
 「私の手によって殺された人びとは、今なにも言うことができない。生きている私は、どうしても戦争反対に立ち上がらなければならない」----こうした無数の人びとの命がけの叫びと闘いこそが、現行憲法に「戦争放棄」を刻みこませた。日本労働者階級が数世代にわたり守り抜いてきたこの思いをしっかりと引き継ぎ、戦争を必要とする社会を根底から変革しよう。

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関連年表
1915年1月18日
 日帝が中国に21カ条の要求
31年9月18日
 柳条湖事件(「満州事変」)
32年3月1日
 「満州国」建国宣言
37年7月7日
 盧溝橋事件、戦争が全中国に拡大
12月
 日本軍が南京を占領、南京大虐殺
41年12月8日
 アジア太平洋戦争開戦
45年8月15日
 日本が無条件降伏

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