繰り返すな戦争 憲法をめぐる激突 第3回 国家緊急権は戦時体制づくり ストで攻撃阻んできた労働者

週刊『前進』02頁(2956号02面01)(2018/07/12)


繰り返すな戦争
 憲法をめぐる激突 第3回
 国家緊急権は戦時体制づくり
 ストで攻撃阻んできた労働者

(写真 ゼネストで破防法を粉砕しようと職場大会を開く日産自動車横浜工場の労働者【1952年4月】)

(写真 破防法成立阻止を掲げ、東京大学本郷キャンパスの学生がストに突入【52年6月15日】)


 安倍政権は、9条解体と並ぶ憲法改悪の大きな焦点のひとつとして国家緊急権(緊急事態条項)の明記を狙っている。国家緊急権とは、戦争や内乱、革命などの「非常事態」に際して憲法の効力を停止し、政府に全権限を集中し、人民の権利を全面的にはく奪するというものだ。しかし日本の労働者階級は、天皇制のもとで「国家の命令」に無条件に従うことを強制された痛苦な経験から、「国家の存立」を理由に労働者人民の権利や自由が奪われることを許してはならないとし、繰り返し闘ってきた歴史をもっている。

統治形態の根本的な転換

 自民党が2012年に公表した「日本国憲法改正草案」は、第98、99条で国家緊急権を明記し、「内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において......緊急事態の宣言を発することができる」(98条1項)「緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も......国その他公の機関の指示に従わなければならない」(99条3項)としている。
 これは9条への自衛隊明記とあわせて、憲法の性格と統治形態を根本から転換する攻撃だ。安倍は戦後革命期以来の労働者民衆の闘いが強制してきた階級的力関係を覆すことに自らの命運をかけている。
 その核心こそ、戦争遂行に不可欠な国家総動員体制づくりである。労働組合を戦争に協力する産業報国会につくり変え、労働者を政府の命令に従わせようということだ。「国家」を守るため、労働者民衆の人権や尊厳は踏みにじられる。これ自体が労働者階級に対する階級戦争そのものだ。
 戦前・戦中、あらゆる出版物は検閲され、うそで塗り固められた「大本営発表」以外の報道は許されず、真実を語ることは禁止された。戦争遂行に異議を唱える者は治安維持法により徹底的に弾圧され、投獄された。地域には隣組という相互監視システムがつくられ、「日本はこの戦争に勝てないのでは」との疑問を口にしただけでも「非国民」として摘発された。労働現場では「お国のために」と過酷な生産ノルマや無償労働が強制され、少しでも抵抗すれば「反乱分子」とみなされた。
 こうした体制の行き着いた先が「竹やり訓練」であり「特攻」であり、アジアにおける筆舌に尽くしがたい戦争犯罪であった。

戦犯が復活し改憲を画策

 日本の労働者階級が敗戦直後、「二度と戦争の惨禍を繰り返すな」と立ち上がったのは、戦争で受けた被害の大きさだけでなく、こうした国家総動員体制とそれを強要した支配階級への激しい怒りの爆発だった。この怒りが、現行憲法に一方では戦争放棄を明記させ、他方では国家緊急権の制定を阻んだのだ。
 こうして日帝は「国家の基本法に戦争と内乱に対処する規定が存在しない(その十分な体制もつくれない)という、帝国主義としての存立の根本にかかわる致命的な弱点」(革共同綱領草案解説)を抱え込むこととなった。
 1950年に始まる朝鮮戦争を機に戦後革命の波を最終的に圧殺したことにより、日本の支配階級は完全に息を吹き返した。51年のサンフランシスコ講和条約と日米安保条約調印に先立ち、戦争責任を問われて公職から追われていた約25万人の追放解除が始まった。戦争を指導した政府閣僚や軍人、高級官僚、政治家、軍需産業の幹部などが、解除と同時に次々と政財界=日帝権力の中枢に復帰。財閥は復活し、特高警察官も「公安警察」に姿を変えて復職した。
 安倍晋三の祖父である岸信介こそその象徴だ。岸は戦前、関東軍と一体となって日帝のかいらい政権である「満州国」の国家経営を主導し、東条英機内閣の商工大臣、軍需省次官として侵略戦争遂行の先頭に立った。そしてA級戦犯として告発され、巣鴨拘置所に収監されたが、米帝との裏取引により処刑を免れ免罪されていた。この岸が公職追放解除後、55年には自民党幹事長に、57年には首相に就任した。
 この一連の過程は、支配階級の側からの戦後革命に対する強烈な巻き返しであった。そしてGHQ(連合国軍総司令部)に代わって再び国家権力を握った日帝支配階級は、その瞬間から憲法9条解体と「再び戦争のできる国」への転換を最大課題として掲げたのである。

340万人が破防法反対スト

 攻撃の突破口となったのが、52年の「暴力主義的破壊活動」を取り締まることを建前とした「破壊活動防止法」(破防法)の制定だった。これは、講和条約の発効と占領統治の終結により、米軍によるむき出しの治安弾圧ができなくなることへの日帝の激しい危機感を背景としていた。
 これに対して、当時の総評(日本労働組合総評議会)が労働法規改悪反対闘争委員会を組織して闘ったのが52年の「労闘スト」だ。戦火が朝鮮半島全域を焦土とする中、労働者たちは「平和憲法死守」と「ゼネスト禁止法反対」を掲げて公然たる政治ストライキとデモに立ち上がった。
 同年3月1日に開催された総決起大会には10万人が結集し、「人民の自由の奪われる日、それは支配階級が人民の意思に反して戦争を行おうとしているときである」と実力闘争を高らかに宣言した。
 政府と財界は「違法スト、解雇」をわめいたが、4月には第1波230万人、第2波340万人が行動に決起し、第2波では約50万人が24時間ストに立つという、日本労働運動史上空前の規模となった。大学でも破防法反対ストが闘われた。労働者人民が皇居前広場に突入した「血のメーデー」事件も、こうした闘いの高揚の中で起こったものだ。この結果、破防法は成立したがその発動はすぐにはできない力関係が日帝に強制された。
 こうした闘いの歴史が、私たちの生きる今日の社会を規定している。憲法をめぐる激突の中に凝縮された日本労働者階級の信念と闘いをしっかりと引き継ぎ、全国で改憲・戦争阻止の大運動をつくりあげよう。

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