獄中43年 星野さん解放を 6・3全国集会に参加しましょう 沖縄万人の力で星野さんを取り戻す会会員・北中城村議会議員 宮城盛光さん
獄中43年 星野さん解放を
6・3全国集会に参加しましょう
沖縄万人の力で星野さんを取り戻す会会員・北中城村議会議員 宮城盛光さん
沖縄民衆は米軍の艦砲射撃=〝鉄の暴風〟で島は焼き尽くされ、20万人余の命が奪われた歴史を持っています。戦後は「イモとはだし」の暮らしでした。本土も同じだったと聞いたことがあります。それは広島・長崎への原爆投下など帝国主義戦争が原因であり、許すことはできません。
私は1970年代から75年まで基地労働者として、青年団活動と労働組合活動をしました。全軍労牧港支部青年部(牧青=まきせい)で激しく闘いました。「解雇撤回・基地撤去」を求め、ストライキが連日連夜闘われる日々でした。
ベトナム戦争では、米軍が嘉手納からB52爆撃機を毎日ベトナム攻撃に飛び立たせ、ベトナム人民が連日殺戮(さつりく)されていました。それは今でも心が痛い。私たちはサボタージュとストライキで闘い、ベトナム民衆と反戦闘争で連帯しました。星野文昭さんは当時、本土の地で大学時代に、同じ安保闘争を連帯し闘っていました。
沖縄と渋谷で闘い
1968年11月、嘉手納飛行場の弾薬庫にB52爆撃機が墜落する事故が起こり抗議集会が闘われました。また70年12月にはコザ市(現、沖縄市)で米人の車両が事故を起こし民衆が集まっている中、米軍のMP(憲兵)が発砲し、怒った民衆が米人車両を転がして火を放ちました。国道330号が次々と火の海となり、それは、ゴヤ十字路から、嘉手納基地のゲート前まで広がりました。これがコザ暴動です。
なかでも1971年11月10日の沖縄全島ゼネストを多くの仲間とともに闘い、沖縄返還協定反対、解雇撤回・基地撤去を掲げて、那覇市の与儀公園から浦添市の仲西ゲート前を目指してデモ行進しました。
同じく星野文昭さんは、同年11月14日、沖縄の闘いに連帯して、東京・渋谷でデモ隊のリーダーとして沖縄返還協定反対を闘い抜きました。デモの渦中で機動隊員が1人死亡した事件で、星野さんは「実行犯」にでっち上げ逮捕され、無期懲役刑が確定しました。私は沖縄で、星野文昭さんは渋谷で闘いました。
その後の全軍労の長期ストライキ闘争で牧港支部は37日間ストを闘いました。当時カクマルがこの闘いを売名ストだ等々とガタガタ非難していたことはまったくおかしなことでした。1972年初めての基地内ストを、米兵がカービン銃(小銃)を構える中で、デモ隊の先頭で闘いました。
「復帰」後の県道104号線越えの実弾射撃演習阻止の闘いでは寒い山中に決死隊として決起しました。権力・機動隊と、不当逮捕を許さず闘い抜きました。
取り戻す会を結成
その後、75年の大量解雇で軍を解雇された私は民間労働者として5・15沖縄闘争に参加しました。三里塚闘争にも連帯し、改憲・戦争阻止を闘ってきました。
文昭さんと31年前に結婚した暁子さんとともに5・15沖縄闘争を闘う中で、文昭さんを獄中から取り戻す闘いに連帯して、「沖縄万人(うまんちゅ)の力で星野さんを取り戻す会」を結成しました。街頭やあらゆる集会でビラを配布して宣伝し、会員獲得や『星野新聞』読者の拡大を実現してきました。文昭さんが獄中で描いた水彩画と暁子さんの詩を展示した星野文昭絵画展は今年、沖縄で4回目の開催となります。
沖縄闘争を闘って、43年も獄中で無実の罪を負わされている星野文昭さんを1日も早く刑務所から出しましょう。そのために、私は6月3日行われる香川県高松市での星野さんを取り戻す全国集会に参加します。
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無実で獄中43年 星野文昭さん解放全国集会
6月3日(日)正午開場、午後0時30分開会
サンポートホール高松 大ホール(香川県高松市)
講演/平良 修氏(日本キリスト教団沖縄教区牧師)
「沖縄と星野文昭」
主催/星野さんをとり戻そう!全国再審連絡会議