関西生コンの闘いに学ぶ 団結の力で大資本と対決 共謀罪型弾圧うち破り
関西生コンの闘いに学ぶ
団結の力で大資本と対決
共謀罪型弾圧うち破り
11月労働者総決起集会の呼びかけ3組合の一つであり、国鉄闘争全国運動の呼びかけ労組である全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部(以下、関生支部)は、関西で生コン産業に従事する労働者を主に組織する産業別労組である。11月労働者集会は1998年に関生支部、全国金属機械労働組合港合同、動労千葉が「国鉄闘争勝利」「闘う労働組合の全国ネットワーク」を呼びかけスタートした。それは連合と対決する労働運動の階級的潮流として20年にわたり闘われ、連合の崩壊・打倒情勢を切り開いている。いよいよ全労働者の怒りを結集して労働運動の主流派に一挙に飛躍するときだ。求められているのは、闘う労働運動を現場で実践し、労働者の結集をつくり出すことだ。新自由主義を打ち破り、労働者階級の最先端でそれを推し進めている関生支部から全力で学び、連帯して、職場から闘う労働運動を巻き起こすことを訴えたい。
「常識」うち破った歴史
「敵の作った社会的規範というか、常識というか、そういうものに従うんじゃなく、それに対して能動的に労働者の側から相手側に作られた常識を打ち破ってきた」(武建一委員長。『関西地区生コン支部労働運動50年―その闘いの軌跡』)。
関生支部の闘いは労働者の団結を武器に、資本がつくった壁を徹底的に打ち破ってきた歴史である。
60年代初めに大阪の生コン労働者が低賃金・長時間労働、前近代的な奴隷労働、警察や暴力団をも使った組合つぶしとの闘いを開始した。この闘いの中で、65年、関生支部は産業別労働組合として結成された。
関生支部はストライキをはじめとした行動を積み重ね、組合つぶし、不当解雇などと熾烈(しれつ)に闘った。闘いをとおして「(セメント独占資本やゼネコンなど)背景資本の責任追及」「資本の不当労働行為のやり得を許さない。権利侵害に対しては実損とペナルティをとる」「一つの分会にかけられた権利侵害を支部全体の総力をあげた反撃ではね返す。他人の痛みを己の痛みとする労働運動」など今日に至る闘争路線、伝統をつくり上げた。
生コン産業全体の統一的な賃金・労働条件を求めて闘う中で、73年春闘で初めて集団交渉方式が実現した。建設・生コン産業は70年代半ばに構造不況業種となる。関生支部は不況をチャンスとして「中小企業の自主性・主体性の確立、協同組合化による共同受注・共同販売」「賃金・労働条件の統一化、共同雇用責任、不当労働行為の共同排除」などを産業政策方針として提起し成果をかちとっていった。その闘いは81年春闘での大阪、兵庫での初の無期限ストライキを背景に、生コン産業に従事する全構成員が参加する集団的労使関係にまで発展した。
このように関生支部は、直接雇用主である生コン業者に対して立ち上がるだけでなく、中小業者をも支配する大資本との闘いを繰り広げてきた。
「産業政策闘争」を確立
生コン産業は9割が中小企業である。彼らは大手セメントメーカーから高いセメントを買わされる一方、ゼネコンには生コンを買いたたかれる。生コン業の唯一のもうけの源泉は輸送コストの削減であり、それは労働者への徹底した低賃金、労働強化である。そのために暴力的労務管理が行われる。ミキサー車を「遊ばせない」ために過積載を労働者に強要し、休憩も何もない長時間過密労働、輸送回数のアップなどが強いられる。
関生支部は、セメント資本、ゼネコンなどの独占資本によって中小企業と労働者がともに打撃を受けるという重層的構造を踏まえた闘争路線を必死で追求し、「産業政策闘争」として打ち立ててきたのだ。
こうした関生支部の闘いは、支配階級を心底から震え上がらせた。財界が「関西生コンの運動は資本主義の根幹にかかわるような闘いをしている」「箱根の山を越えさせるな」(日経連・大槻文平会長〔当時〕)と危機感をあらわにし、80年から関生支部つぶしの空前の弾圧が開始された。82年だけで逮捕者は9件32人に及び、弾圧は工業組合にも及んだ。
国家権力の大弾圧と一体となって日本共産党、上部団体の運輸一般が関生支部に背後から組織破壊・分裂攻撃をしかけた。関生支部はこの攻撃にひるむことなく組合的団結を強化し、日本共産党、運輸一般の妨害をはねのけて全国産別労組として全日本建設運輸連帯労働組合を建設した。
こうした80年代の大弾圧は、国鉄分割・民営化攻撃と一体の新自由主義攻撃そのものであった。だが関生支部は労働組合が団結を崩さず闘いぬくならば、新自由主義攻撃は必ず打ち破れることを実証した。その後も05年から07年にかけての武委員長への逮捕・長期勾留を含む5次にわたる大弾圧を打ち破ってきた。
139日の大ゼネスト
関生労働運動は闘う労働運動の巨大な展望と可能性を示している。2010年に闘われた139日間もの歴史的大ストライキはその威力を満天下にとどろかせた。
大恐慌下の需要の大幅な落ち込みと大手ゼネコンによる買いたたきによって生コン労働者と産業そのものが存亡の危機に陥った。関生支部は春闘で大幅賃上げを求めると同時に、生コンの適正料金収受や運賃値上げなど中小企業のゼネコン大資本に対する要求を真正面から掲げたストライキを決行した。大阪府内の工事の8割が停止に追い込まれた。中堅ゼネコンが値上げに応じていく中、最後まで残ったスーパーゼネコンを屈服させて生コンの新価格に応じさせたのだ。
共産党系の建交労はゼネコンへの早期の出荷再開の要請という許すことのできないスト破りを行った。これを打ち破って大ストライキが勝利したのである。
その後、関生支部は11年の報復でっち上げ弾圧(5・11関西宇部事件。13人不当逮捕)をはね返し、同時にセメントメーカー直系による協同組合からの脱退、集団交渉つぶしの攻撃に対しても中小生コン関連業者を結集させて反撃に立ち上がってきた。
関生支部はまた、安倍政権が進める沖縄新基地建設、戦争法や共謀罪、改憲攻撃に反対して職場から政治闘争に立ち上がっている。共謀罪制定は、関生支部のような闘う労働組合への弾圧を狙った攻撃である。しかし関生支部は共謀罪先取りを狙ったすべての弾圧を打ち破り、今年5月19日には、全職場・地域で2時間の時限ストライキに立った。11月5日には改憲阻止1万人大行動を牽引(けんいん)した。
17年から18年、生コン産業の労働者と中小企業の生き死にをかけた闘いを切り開こうとしている関生支部と全力で連帯しよう。すべての職場で、闘う労働運動への労働者の総結集をつくり出し、その力で連合を打倒しよう。12月17日、改憲と労働法制改悪阻止の集会をその突破口としよう。
〔参考文献 『関西地区生コン支部労働運動50年―その闘いの軌跡』、『序局』創刊号ほか〕
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関西生コン支部の闘い 略年表 | |
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1965年 | 個人加盟の産業別労組として全国自動車運輸労働組合 (全自運)関西地区生コン支部を結成 |
1966年 | 10・21ベトナム戦争反対ストライキに対する事前攻撃として武建一委員長を含む3人に解雇(解雇撤回を闘い、70年に職場復帰) |
1970年代初めまで | 暴力的な組合つぶしが続く中、関扇・三生・大豊などの資本と闘う |
1973年 | 春闘で14社を相手に初の集団交渉を実現する |
1980年代初めまで | 各年の春闘でセメント資本・ゼネコンへの政策要求闘争を展開。1981年には集団交渉と初の無期限ストライキを背景に大阪兵庫生コン工業組合との集団的労使関係を樹立、連帯雇用保障協定などをかちとる。闘争をつうじて支部の飛躍的な拡大をかちとる |
1980年 | 資本と権力の大弾圧が始まる。同時に日本共産党、運輸一般による組合破壊・分裂攻撃。組合員数を半減させられるがこれに屈せず闘う |
1984年 | 日本共産党、運輸一般と決別し全日本建設運輸連帯労働組合を結成。新生関生支部として出発 |
1990年代から2000年代 | 新自由主義による非正規雇用や貧困の拡大、大企業による中小企業への犠牲強要の中で、破産倒産と闘い労働者の権利を守り抜く。1995年阪神淡路大震災では粗悪生コン追放運動を強化。1998年からは毎年東京で11月労働者集会を開催し闘う労働運動を牽引 |
2005~2007年 | 5次にわたる大弾圧。武委員長はじめ組合役員へのでっち上げ逮捕・起訴 |
2010年 | 139日間に及ぶゼネストを闘い、勝利する |
2010年以降 | 「関西宇部事件」でっち上げ弾圧(2011年)や、セメント資本による巻き返しと闘う中で支部の組織を拡大し、中小企業主体の協同組合づくりを進める。東京西部ユニオン鈴木コンクリート工業分会の解雇撤回闘争にも尽力 |
2017年 | 共謀罪廃案を掲げてストライキを闘う |